核・戦争のない世界!!

2024-06-30 09:17:34 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

  敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。

 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。

 

 

南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈
        
        






 重慶爆撃               

 

原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

    
  




 原爆    

 
 

19世紀後半は科学の世紀といってもよいほど、歴史的な発見が相次いでいた時期です。私たちの生活に欠かせないレントゲンのX線やペスト菌の発見、ディーゼル機関の発明など、歴史を動かす大発見が続きました。
そうした発見の一つが原子に関する研究の進展です。1938年に発見された核分裂は、強大なエネルギーを生み出せることから兵器として用いられます。そして、アメリカのマンハッタン計画で原子爆弾という形で結実してしまいました。
本記事では原爆の仕組みやマンハッタン計画を含む原爆ができるまでの歴史、長崎・広島という2つの被爆地の被害などについて解説します。
 
 
 
 
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原爆が使用されたのはなぜ?

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日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
(イ)トラコーマの病原体体としての Halberstadter- Prowazek小体
然るにここに注目すべきことは、名古屋医科大学の馬島鏡三博士の所説である。同氏は臨床症状がトラコーマと極めて似通っている包括性結膜炎LindnerのParatrachomaに於いて、常にProwazek小体が見出され、真性の トラコーマには本小体は見出されないということである。限科学的知識の乏しい著者には、馬島氏の所見に対して、自己の見解を述べることの出来ない事を甚だ遺憾とするものであるが、同氏は臨床上真のトラコーマは慢性の肉芽性炎であって、余り強い炎症はない。又メヤニは沢山出ないと言うておられるが、包括性結膜炎は炎症が強く、且つ伝染力も強い。メヤニにも結膜細胞にも常に本小体が見出されるが、真性トラコーマには、これを見出すことは出来ない。為にProwazek小体は包括性結膜炎の病原体と言い得ることが、トラコーマのそれと言うには、両病症が同一なりと決定せらるる迄は、断定しがたいと言うておらるる。これをここに記して置きたい。
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 
 
天皇の最後の望みは、「国際平和」に基づいた外交を行うことだったが、それはワシントン条約体制の肯定、その現状維持ではなかった。彼が言及していたのは、侵略によって満州国を建国した後の新たな事態に対する現状維持だった。「帝国」はいまや新たな領土を併呑(へいどん)したが、日本は、依然、経済的にはその主たる批判対象であり、敵対者である英米勢力に依存していた。この状況下、天皇は、当然ながら英米との新たな摩擦を避けようとしていた。それゆえ、満州併合が「平和的」でなければならないことについて熱心だった。
 
 

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