旧陸軍の特殊部隊「731部隊」の一部展示を見送る…市教委「事実関係確認されず」検討委員会の初会合 長野・飯田市 _ SBC NEWS _ 長野のニュース _ SBC信越放送 (1ページ) 2023-02-24
鳥インフルでの殺処分は適切なのだろうか??
国連改革!!拒否権廃止を!!
あの日本の侵略戦争を反省し作られた憲法9条を、順守すれば、軍事費ゼロ!!戦争をしないように全力で取り組む姿勢を全世界に示す!!【天皇制再考、軍人恩給廃止、戦争被害者(外国も含む)への補償、外交力強化!!】
憲法9条
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
東芝 経営再編交渉 銀行側が総額1兆2000億円融資行う方針決定
“弾薬だけ”で8200億円 来年度当初予算案、防衛費が25%増の過去最大 総額114兆円程度で最終調整
放射能の影響を考えよう!!
パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」展
なぜ、こんな危険な原発を、全国にたくさん作ってしまったのか??それも運転期間延長で60年超も??自然環境にやさしいエネルギーの活用ができないものか!!
12月25日(日)
5、報道では、原爆の被害や悲惨さについては良く取り上げていますが、核兵器そのものの説明や恐ろしさは取り上げられることは少ないように思います。また、「核」というものが、今の原発問題にも関係していたり、ビキニでの事故で未だ苦しんでいる方々が多くいらっしゃるなど知ることができ、これからを生きる我々もしっかりと理解しておかなくてはならないと強く思いました。(20歳以下、市内、図書館の入口のチラシ)
★新宿戸山の陸軍軍医学校跡地から見つかった人骨についての番組を見たい方は
下記のギガファイル便をダウンロードしてください(4月26日までダウンロード可能です)。
桜の下に眠り続ける死者たち
https://81.gigafile.nu/0426-f28efe24152e71e1bbe5a9daa5171a2b4
2022/10/22 清水さん宅
731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」
731部隊の少年隊に所属し、飯田市平和祈念館での証言の展示を打診されていた清水さん。入隊時の写真の拡大コピーも用意していた=7月12日、宮田村
731部隊を巡っては2002年、中国人被害者らが起こした国家賠償請求訴訟で東京地裁が戦時中に生物兵器の開発、研究を行い、細菌戦を行っていたなどと認定した。一方、03年に当時首相だった小泉純一郎氏は国会で、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」と答弁。部隊については終戦直後に文書が処分された経緯もあり、専門家からは貴重な歴史的証言の展示を見合わせた市教委の姿勢を疑問視する声が出ている。
「自分たちの証言が紹介されなければ、部隊の事実が伝わらない」。戦時中、731部隊の少年隊に所属していた清水英男さん(92)=上伊那郡宮田村=はそう訴える。飯田市平和祈念館の開館前、市資料収集委員会から証言のパネル展示を打診され、了承。まだ14歳だった入隊時の集合写真も自費で拡大コピーし、展示用に用意した。
清水さんは国民学校高等科を卒業後、731部隊の少年隊に配属された。主に見習い技術員として病原菌の基礎知識などを学び、「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜の人体実験後の標本を見たこともある。日本の敗戦間近に「マルタ小屋」で多数の人骨を拾って・・・・
久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
飯田市平和祈念館資料室
飯田市平和祈念資料室
福島第1原発関連動画
放射能はこわい!!
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
実験医学雑報21巻 第7号(1937年)※日中戦争勃発の年
伝染病研究所の現況
宮川米次
最近になされた2,3の注目すべき研究
最近本所においては2,3のかなり注目すべき世界的業績が発表されております。今その名だけでも申し上げますならば、二木謙三、石原喜久太郎氏等によって鼠咬によって起こる疾病の病原体である一種のスピロヘータを発見しました。長與又郎氏等によって、多年医界の謎と知られておりましたツツガムシ病の病原体がリケッチャの一種であることを確定し、このリケッチャを媒介するツツガムシなる一種の虱の発育環を完全に追究決定しました。又宮川米次等は最近世界的に認められた、一新性病である、所謂第4性病の病原体を発見しまして、本邦学者は勿論、欧西の学者よりも次第に承認を得つつある次第であります。種痘に使用致します痘苗は従来牛の皮膚組織が混入しておるために皮下に注射することができなかったのでありますが、矢追秀武氏はこの痘苗中より病原体を純粋に採取することに成功し従来世界の学者が企ててできなかった皮下注射法を発表しまして、多くの人々に実施した成績によって注目すべき良好なものでありまして、これによって痘痕を残さずに種痘を完了することに成功しましたのでありますことは誠に快心的発見と申して良いと思います。
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
三井鉱山三井染料工業所の毒ガス生産
(三井鉱山50年史稿より)
1940(昭和15)年三池染料工業所は「爆薬の供給及び工業薬品の増産」に忙殺されていた。(三井事業史本篇第3巻下444頁)
第2-55表の注
1号乙薬 (ピクリン酸)石炭酸 ヒA剤
3号乙薬 トリニトロアニゾール
10号乙薬 ヘキサンニトロジフェニルアミン
12号乙薬 混融爆薬(3号乙薬と10号乙薬の混合薬)
セントラリット 安定膠化剤 陸軍C剤 海軍2号丙剤
クC2号 チオグリコール(イペリット用原料 陸軍名) 3号中間薬(海軍名)
その他 ジフェニルシアンアルシン用原料 ジフェニル砒酸
陸軍名シモリン 海軍名 2号中間薬 三井名 アサヂン
(三井事業史本篇第3巻下444~447頁)
●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
資料・731部隊細菌戦裁判第1審判決全文
被告の主張 (別紙4)
第2 国際慣習法の過去の戦争犯罪行為への適用による謝罪及び損害賠償請求について
1 原告らは、仮に本件細菌戦の実施当時において個人賠償が慣習法化していなかったとしても、国際法上個人請求権が認められるという現時点で成立している国際慣習法が、直接に本件細菌戦のような被告の非人道的な戦争犯罪行為に対し適用されるべきであると主張している。
原告らの上記主張は、
①個人が加害国に対し国際法違反理由を理由として直接損害賠償を求め得るとの慣習法及び
②非人道的戦争犯罪行為に関しては、現時点において過去の行為を評価して加害国の責任を問い得るという慣習法がそれぞれ現時点に現時点で成立していることを前提として、上記②の慣習法に基づき上記①の慣習法によって原告らの被告に対する損害賠償請求が認められるという趣旨であると解される。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
五月十二日
衛兵勤務 晴 風あり。監査巡察として津田特さん来る。変な弁解式の言葉を残していった。あれで気になると見える。休みと云ふ所を掴んで来たらしい。
午後一時十八分津田特さん監査巡察あり。非常に良く片付いていたので平気であった。
津田さんが言った。変な様なれど弁解じみていた。どした斎藤・・お前たちが剣術の選手としての分遣も矢張り三週間も四週間もいた人がある 今夜沿線見学から帰るからそのうち下番させるからな・・銃剣なんかやるな 自然にそうなるんだからな 陽気の好い今頃事故が起きやすいから 気を付けねばだめだそ・・
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
エントツから出る黒い煙
ペスト感染による死体がどんどん焼かれていく
小笠原 明(おがさわら あきら)
731部隊・少年隊
〈経歴〉
1928年生まれ。
1943年4月 731部隊少年隊に入隊
1944年4月 第2部(実験部)第2課田中班に配属。ペスト菌などを宿らせ伝染させるためのノミ増殖に従事。
1945年8月 日本への撤退途中で中国人民解放軍に入隊、4年間従軍
1949年 帰国。
■この証言は石川(金沢)731部隊展(1993年11月)、栃木(宇都宮)同展(94年9月)、沖縄(那覇)同展(94年1月)、広島同展(94年3月)の『報告集』よりまとめたもの
撤退
昭和20(1945)年8月9日、ソ連軍の飛行機がばら撒いた照明弾で、夜なのに昼以上にあたりが明るくなりました。部隊はすぐ撤退するから一木一草残さず証拠隠滅して逃げよという事になりました。
当時収容されておりました“マルタ”は全員、毒ガスでもって殺してしまったんです。先輩の草薙さんが言っておられますが、あのガスは青酸ガスではなく塩素系のガスだという事です。先輩は運び出されてきた死体の顔を見て、青酸ガスではない、青酸ガスなら必ず痙攣症状が起きて引きつった顔の死に方なっているんだ、ということからそう思ったらしいのです。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅲ 日中戦争の全面化と本格的使用の開始 1937―1938
1 日中戦争の全面化と毒ガス戦
晋南粛清戦(山西省南部の戦闘)での使用
1938年4月11日付の毒ガス使用に関する参謀総長の指示(大陸指第110号)受けた駐蒙兵団は、6月中に第26師団(師団長・後宮淳中将)が戦った綏遠省東南地区(清水河・和林格爾付近)戦闘で嘔吐性ガス(あか筒)の使用を準備したが、「状況をこれに適さざりし為」使用を中止した。
そのため、軍都広島と軍港呉の守りとしては不十分であるとの判断で、広島湾要塞が設置され、広島湾や呉湾の周辺のあちこちに砲台が設置されました。広島湾要塞がほぼ完成したのが1903年(明治36)です。さらに大久野島と愛媛県の小島と合わせて芸予要塞を設置、瀬戸内海を横行する外国の艦隊を分断する狙いがありました。