【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

“難民の父”/ フラム号で北極点へ=03=

2017-12-11 06:08:17 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ 19世紀末 探検家ナンセンは大胆な企てに乗り出した =フラム号の軌跡= ◎○

= Webナショジオ_“北極探検 この物語”に転載・補講 & 世界のスーパーアルピニスト =

 流氷の流れを利用して北極点への到達する冒険を開始_氷の世界の1,000日_ 

◇◆ ジャネット号遭難事件とナンセン  ◆◇

  ジョージ・ワシントン・デロングはアメリカのアナポリス海軍兵学校卒の優秀な士官であった。1873年に北極で遭難したした船の捜索が彼の処女航海であった。 以来、北極の魅力に取り憑かれた。1879年、ニューヨーク・ヘラルド紙が支援しアメリカ海軍の後援により、海軍少佐デロングは、ベーリング海峡経由で北極点にすばやく到達できるルートの探索計画を持って、パンドラ号と呼ばれていた船を買い取り、ジャネット号と改名してサンフランシスコから9月に出発した。

 この航海には、ベーリング海で氷に閉ざされたスウェーデンの探検家ノルデンショルドのヴェガ号救出も兼ねていたが、デロングがベーリング海に辿り着いた1879年には、すでにヴェガ号は太平洋を南下して日本に向かっていた。 

 デロングは科学データや動物標本の収集とあわせた航海を続けて、1881年の夏には3つの島(デロング諸島)を発見し、アメリカ領と宣言した。なお、この航海でデロングは、ノヴォシビルスク諸島の北側を通っている。彼はこの付近にあるとされる、ヤコフ・サンニコフが発見したというサンニコフ島を見つける事は出来なかったが、この事によって、サンニコフ島の有無を巡る地理学上の論争を高める結果となった。ナンセンも興味を抱く。

 その後の2年間近くは氷に閉ざされたままノボシビルスク諸島がある地域まで漂流し、ジャネット号は氷に閉じ込められ、その後氷に潰されて1881年6月13日に沈没した。デロング達は船を捨てて3つの小さなボートでシベリア海岸を目指した。開氷面に到着後、彼らはばらばらになってしまった。1隻のボートは行方不明となり、そのこん跡は何も発見されなかった。デロングの乗るボートは陸地にたどり着いたが、救助を求めるために送られた二人のみが生き残ったが、デロングはシベリアのヤクーツク、Mat Vay付近で餓死した。

 同行した大半は、レナ川デルタの流域で死んだ。 ただ、ジョージ・W・メルヴィルが率いた3隻目のボートはレナ川デルタに着き、救助された。メルヴィルは翌年デロング達の遺体を発見した。この航海では19名が死亡し、捜索作戦中にもさらに死者が出た。

 その3年後、ジャネット号の残骸が世界の反対側、グリーンランド南西海岸のユリアーネハーブ近くに現れた。これらの破片は漂流する氷に閉じ込められたままであり、乗組員の名前が付いた衣類や、デロングが署名した文書もあった。それらは紛れもなく本物だった。

 1884年、現代の気象学の創設者の一人であるヘンリク・モーン博士が、ノルウェー科学と論文アカデミーで行った講演で、ジャネット残骸の発見は、北極海全体を東から西に流れる海洋流が存在することを示していると論じた。デンマークのユリアーネハーブ総督がその発見について記述し、シベリアの海で氷に閉ざされた遠征隊は、船が氷に耐えるだけ強くあれば、北極海を横切り、サウスグリーンランドの陸地に達すると推測した。

 これら学説を23歳だったフリチョフ・ナンセンが興味を持って読んだ。ナンセンは当時博士号研究を仕上げながら、ベルゲン博物館で学芸員として働いていた。ナンセンは既に凍った北極の虜になっていた。その2年前にアザラシ漁船バイキングで4か月間の船旅を経験しており、3週間は氷に閉ざされて漂流していた。

 苦く大変な経験を積んだ。スキーの専門家でもあるナンセンは、グリーンランドの氷冠を初めて横切る計画を立てており、その目標達成は学術研究の必要性から遅れていたが、1888年から1889年に思い通りに成功した。これらの期間を通じてナンセンは、東から西に北極海を漂流する学説とそれに伴う極地探検の可能性を覚えており、グリーンランドから戻ると直ぐに、その計画を発表する準備ができていた。

=補講・資料=

メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ = フレッド・ベッキー & ヴォイテク・クルティカ

フレッド・ベッキー : 「アメリカ山岳界の生きる伝説」 「アメリカ一エキセントリックな登山家」との枕詞が着く伝説的なじいさん。最初の初登攀記録はなんと1939年! 90歳にしていまだクライミング現役ということだけでどれだけハチャメチャな人か理解できるだろう。 北米大陸の岩壁初登記録数百。

アメリカのクライミングレジェンドであるフレッド・ベッキーが10月30日にシアトルで亡くなった。94歳だった。アラスカ周辺で数々の初登記録を残し、クライミングバムをしながら、最近まで登り続けていたクライマー。1923年にドイツのデュッセルドルフで生まれたフレッドは、1925年に家族でアメリカのシアトルに移民、地元シアトルの山岳会に入ったフレッドは、地元シアトル周辺の山を始め、カナディアンロッキーやアラスカで数々の初登記録を打ち立てている。

主な記録として、19歳のとき(1942年) に、弟と共に、当時の北米最難の山とされていた、カナダのワディントンを第2登、1954年にアラスカにて、デナリの北西バットレス初登、ハンター西稜初登、デボラ南稜初登など、当時の初登数では世界最多のクライマーだった。

また、クライミングバムの元祖ともされており、今年になって、彼の生涯を映像化した作品、 『DIRTBAG: THE LEGEND OF FRED BECKEY』が公開されている。

ヴォイテク・クルティカ : アルパインスタイルで未踏壁・未踏の新ルートを数多く切り開いたポーランドの最強ビッグウォールクライマー。 「(ピオレドールなどの)賞が昔からあったら毎年彼が受賞してただろうけど、それを受け取らなかっただろう」と山野井泰史が評する清貧の人。 そんな彼も「日本は富士山みたいなでっかい山があっていいなあ」と語ったとか。 

クルティカはアルパインスタイルでいくつもの初登攀を成し遂げている。有名な登攀には、ガッシャーブルムIV峰西壁初登攀、ブロードピークの3峰縦走、トランゴタワー東壁初登攀、チョ・オユー南西壁とシシャパンマ南西壁の初登攀(それぞれ1日で登攀)、などがある。 チームメイトには世界的に著名なヒマラヤ登山家が多い。例えば、アレックス・マッキンタイア(1977, 1978, 1980, 1981)、イェジ・ククチカ(1981, 1983, 1984)、ダグ・スコット(1993)、エアハルト・ロレタン(1988, 1990, 1991, 1997)、ラインホルト・メスナー(1982)、山野井泰史(2000, 2001)などがいる。

動画資料 : THE LEGEND OF FRED BECKEY : クリック➡

https://youtu.be/05RiYBruHpU

 

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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