星野富弘さんは
「いのちが一番大切だと思ったときに、生きるのがつらかった。
いのちより大切なものがあると知ったら、生きているのがうれしかった」
という不思議なことを言っています。もちろんこれは「いのち」を低くみることではないでしょう。
むしろ、「いのち」が拠って立つところの深さの発見、
「いのち」が向かっているところの広さ・高さを知った喜びを語っているのでしょう。
人間の生命lifeは、単なる生物学的な生命ではなく、
経済的「豊かさ」を追求する「生活」であり、
文化的・道徳的・倫理的な「善さ」を求める「人生」であり、
また超越的・宗教的な「神秘」や「聖性」をあこがれる「いのち」です。
遺伝子やゲノムの法則に服しながらも、ひとりひとりは自由意志をもった個性的な人格存在です。
また個人でありながら、孤立しておらずに、真・善・美といった価値に開かれています。
つまり生命は閉じた自己完結的なシステムでははなく、
また単なる自己保存的なものではなく、
無限へのあこがれそのものなのです。
「心の食べ物は言葉です。人は昔から、言葉を心の糧として生きてきました。
よい言葉を食べていると 心は生き生きとして
元気が出てきますが、
悪い言葉ばかり食していると、 病んできます。
私たちは出来るだけよい言葉、 よい教えにふれ、
それを糧とすべく心術の工夫を していかねばなりません。」
(ギフト特典『ポケット修養訓』より)
自然の法則に合致した生き方とは?
① 志を高く
② 感謝して生きる
③ プラス発想
※ サムシング・グレート
サムシング・グレートは、私の理性だけではまだ良く分からない存在です。し
かし遺伝子の連続性から逆算すれば、それは私たちの親の親の元の親のような
もの。そうだとすれば、少々出来の悪い息子が、少しは誰かの役に立ちたいと
一生懸命に努力している姿を見て喜ばないはずはない。喜んだついでにごほう
びをくれるようなもの。良い遺伝子をONにする=そういう生き方がもし出来れ
ば、私たちは普通に持っている以上の力を出せる。
※ 「感謝して生きる」
生命というものは、自分の工夫や努力だけで生きているのではなく、大自然か
ら、それこそ何十兆円にも匹敵する贈り物をもらっている。だから毎日毎日と
にかく無事で生きていることだけでも、大変ありがたいことだ・・・そういう
ふうに感じてみたらどうかと思います。遺伝子を見ていると、私たちが生きて
存在していること自体が驚異的なことです。それは個と全体のとの関係を見る
と良く分かります。私たちは約60兆の細胞の集まりですが、細胞が集まって高
度な秩序を持つ器官や臓器をかたち作っています。私たち人間は宇宙の一部で
す。そして地球の大自然の秩序の中で生かされている。
※ 「プラス発想をする」
どんなに自分に不利なことでも、プラス発想でとらえるという事が大切だと思
います。例えば、物凄くつらい立場に立たされたような時でも「これは大自然
からの何かのメッセージであろう」と考えるのです。そんなことは出来ないと
思われるかもしれません。だがサムシング・グレートがあらゆる生命体の生み
の親であることを考えれば、本当に親が子供のために悪いことをするはずがな
いのです。そう考えれば、どんなことも「天からの試練」として受け止められ
る。自分にとって不利な状況の時こそ、プラス発想が必要なのです。プラス発
想をする時、私たちの体はしばしば遺伝子がONになるのです。どんなにマイナ
スに感じられる局面でも、結果をプラスに考えるのが、遺伝子コントロールの
ためには何よりも大切なことなのです。
行為によりて記憶を、
好機によりて思慮深さを、
正確によりて高尚さを、
労苦によりて制御を、
恐れによりて敬虔を、
富みによりて友愛を、
言葉によりて説得を、
沈黙によりて礼儀を、
智恵によりて正義を、
勇敢によりて勇気を、
行動によりて権力を、
名声によりて権威を
得べし
A.ビアス(米:作家)-
When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be
Let It Be
苦しみ悩んでいるとき、
マリアが僕のところへ来て、
悟りある言葉をかけてくれるよ!
あるがままに
なすがままに
レットイットビー
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。
かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうか
という事も僕にはちょっと信じられない。
無論死ねば肉体が朽ちる。物を言うておったものが言わなくなる。
動いたものが静かになる、というような点からいうと非常な変化である。
けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。
僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、
この点に於ても益々翁の偉大なることが分る。
如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。
あるいは死を見ること生の如く、その代り一方には生を見ること死の如く、
形而上幽明有無の区別を知らなかった。
実に平々淡々としている。
こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う
死の価値を定むるものは生であると思う。
しかして生の価値を定むるものは義務である。
死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になる。
己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧はじない人は、
死を見ること帰るが如くなるべきで、
これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。
新渡戸稲造
三つ目は読書家は長寿が多い。
これは読書によって脳が活性化されるからだ。
そして外山滋比古氏の好きな俳諧を紹介。
江戸元禄時代の俳人滝瓢水の
「浜までは海女も蓑着る時雨かな」
という句で、この「海女」を自分の姿に見立てると「浜」は死期になる。
どうせ海に入るのだから、時雨だろうが濡れることなど気にしないで
浜に向かえばいいのに、この海女は蓑を着るのだ。
この「蓑」は私にとって読書に当たる。
どうせ死ぬのだから何もしないというのは
「どうせまた腹が減るのだから飯を食わない」
に通ずる考え方ではないだろうか。
まだまだ人生は生きて見なければわからない。
因みに瓢水の句を
「手に取るな やはり野におけれんげ草」
「さればとて 石に布団は着せられず」
二つ目は別荘買うより都会に住んでクーラー付けた方が快適というもの。
別荘はよっぽど暇で金が有り余っている人向けだ。
大人数を接待する立場の人が持つもので、庶民はホテルなどに泊まればよい。
誰が好き好んで宿泊時の食事を自分で作るというのだ。
上高地帝国ホテルに年三泊する方が快適で安くつく。
一つ目は老後は田舎で暮らしたいという人が多いが、
退屈だからやめた方がよいという意見。
著者は山形県鶴岡市の出身で、豪雪地帯の不便さ厳しさを熟知している故のアドバイスと言えよう。
都会人が田舎暮らしにあこがれて夏の北海道を見て移住したが、
冬の厳しさを知らずに渡ったものだから早々に引き揚げたという話をよく聞く。
また「田舎の人間は素朴だ」という能天気な意見もここで批判しておかなければならない。
そんなことはないと田舎者の私が断言する。
夢を見るのに、
若さは必要条件ではない。
さまざまな人生体験を経て、
知的修練を積んだからこそ
余生で見られる夢もあるのだ。
愛読する古典の人物と語り合う自分を
夢に見ることも可能だ。
むしろ、そちらの夢の方が
素晴らしいとも言えるのではないだろうか。