トトヤンの家庭菜園

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今は瞼の中の叔父

2024-08-19 15:43:56 | 日記

特殊慰安施設協会(とくしゅいあんしせつきょうかい・RAA)。戦後特集、この件にふれる内容、NHKで放送していた。連合国側のカメラマンが日本占領下で撮り続けたなかにある数枚。何千枚ある中の数枚とはいえ、予想されていた通りとはいえ、証拠事実にも当たる貴重な記録。旧内務省と米軍側の合作。それらの制度の成立過程も深く政府側の政治家かが関わっていたという具体的な証言の数々。治安安全と、性の防波堤という解釈する向きもあるが、その、一つ一つに複雑な感情で向き合わなければならないことには違いなく、なんら、変わりはない。この赤線施設を設けることで困窮世帯も助かるいわく大黒柱を無くした婦女子も多数の説明。政府黙認という、どころか、積極的にそれまでの敵国側をも巻き込んで日本側が主導していたとは。それらを覆えすほどの反証できることもなし。また、やっていたのは、日本ばかりじゃないという言い方に、与する気ももちろんない。戦争とはどこまでも愚かしいからだ。


戦後79年。戦争を知らない世代、とはいえ、親世代は、全てが戦争に関わってきている。兄らを亡くした親父にしても赤紙がきて、軍務にすでについたところにあの、玉音放送だ。

もう少しの後先によっては寸分変わることなく兄らに交わっていて一緒だったかもしれない。末っ子の親父。生きて戦地から帰ってきた長兄。真ん中の兄は中支で、戦死。すぐ上の姉は栄養失調で病死。しかしながら「君の世代なら、親世代はかろうじて南方戦線は避けられて」深くは戦争は知らないだろみたいな。言う先輩もいた。なにを知って言われてるのかは、分からなかったにしろ、自分からは、こう説明していた。親世代と言っても、自分の場合は、叔父と親父では、生まれる年の開きもあって、15歳からの歳の差もあってねと。で、そういう意味では、親父から聞けなかった戦争の影も常々、叔父のほうはしょってるなと感じてはきたこと。面と向かって語られることはなかったにしろ、多くの溶けた疑問もある。焼け野原に帰ってきた叔父が見たもの。復員遅れて、もどってきた現実はそのほかの兵隊が先に見ていたものとも違っていた。隠していた日本刀片手に、振り回そうとする長兄。身内総がかりで止めに入ってことなきを得たという大立ち回りの秘話も。なんとはなく納得したことも。

それは、放送の内容でもある、赤線、当時はパンパンと呼ばれてたそのような風潮に対して、大和撫子を守るために生命を張って戦ってきた叔父らにしてみれば。その人間を前に、なにをイチャつきやがってるんだ。しかも、敵兵だった米兵相手に。叔父から見たらその姿が、許せなかったんだろうなと、合点する他なかったのだ。

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