トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、テレビ番組、家庭菜園のブログです。

鶴瓶の家族に乾杯 オーストラリア 

2017-08-27 22:05:26 | 日記
鶴瓶の家族に乾杯 海外スペシャル▽オーストラリア・メルボルン ゲスト田中麗奈






鶴瓶さんが会われたお家も素晴らしく幸せそうで田中麗奈さんの訪問を許されたお家も、ステキな素晴らしい家族でしたよね。

それと、オーストラリアでビジネスをされている日本人にも訪ねて行かれていましたよね。一つは銭湯を営業されている日本人家族。もう一つは、メルボルンで注目されている腹話術で行うパペット落語のパフォーマー、笑福亭笑子さんに会いに。


印象に残しているのは鶴瓶さんの関西弁での問いかけに暖かいまなざしを感じましたと反応されていた、イスラエルから移り住んできたと述べていたご婦人。

鶴瓶が自身の年齢を告げると、夫人のほうも自ら年齢を明かされ、73歳ということで、しかも、仕事をつづけているということで、自宅の衣服工房にも案内されることに。(myビジネスを)仕事を持ち続けることが生きがいと述べられていたことにも合点がいきます。



それと、強烈に印象に残しているのはメルボルン在住の落語家笑福亭笑子さんのこと。




この人も、素晴らしく、幸せそうな。


夢を持っている人は強い。
ということが伝わってくるような番組でした。


幸せって、
古今東西文豪と言われた人でも、

個々の人生はどうであったかは微妙です。

本人の感じ方であって、他者がどうこうっていうことでもありませんが、トルストイは
家庭に恵まれず、真冬の最中、雪道で倒れたまま亡くなります。
幸福な家庭は似ているどの家庭も。不幸な家庭は、それぞれにない不幸を抱えているというトルストイの至言も
経験してきた人ならではの人間観察であったのかもしれないなあと。

番組に戻りますが
異国で風呂屋を営むという夢にしたって、
、ビザ取得のひとつにしたって、条件をクリアしていくなかで、
困難なことを乗り越えた後にくる、幸せ感ってものの大きさは

ちょっと、つらいことがあれば避けるばかりしている人にはわからない喜びであることには間違いないところだろうと思えました。



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戦後ゼロ年

2017-08-21 16:37:59 | 日記


国際社会全体に銃口がつきつけられている。

スペイン・バルセロナでの悲惨なテロ。車突入、運転手は逃走中 18か国以上の人が被害。

テロにみまわれた、地域からは、当たり前だった自由が多少の拘束される不自由な検問も

我慢しようとする覚悟を
決めた息遣いさえ伺える状況に。


明日に対する不安を感じずに日常を送る人でも、

すくなくとも、世界を取り巻く緊張と対立の渦が玄関先までやってきたという意識だけは
持たざるをえなくなってきたという国際状況。

ひとごとではない。

北朝鮮からの、ミサイルと核の脅威もつきつめてみれば、

テロを憎む国際社会への挑戦でもあるだろうし、一向、収まる気配はない。

どういう道筋で、
このような国難ともいえる
状況を
克服していこうとしてきたのか。

日本は国際世論を喚起するほど
味方につけてきただろうか。
国内外へのマニフェストは疑似餌だったという経験も経て。

振り出しに押さえておかなければならない。

戦後ゼロ年。

テレビ番組。見逃された方は、再放送もあるらしいので一見を。

日本が戦争に敗れて得たもの失ったもの。

気づいたこと、忘れてしまったこと。

引き継ぐべきもの、引き継がざるべきもの。

戦争孤児になにもしなかった政府。

隠匿物資をヤミに流して、のし上がった政商。

それらを、目にしてなお、庶民は生き抜いてきた。

戦争を知らない世代が如何様に、

かつての軍国主義を裁こうが、訳知顔で語られようが

生き残った、人たちのこれまでの

働きで、

ここまでたどり着いたのだと

いう軌跡は

否定されるものではない。

今を生きる人々は自らの社会や、国の外にも目を向け、建設的なメッセージを

働きがけをするには、まだ手遅れではないはず。

そういう意味からテロにひるまないぞという意思を
示した、バルセロナの市民と

サッカーグラウンドでの選手たちの一分間の黙祷のシーン見て、
まずは、自らも、その意思に
加わろうとする気分から、こういう記事を。







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夏休暇・瀞峡

2017-08-18 21:44:22 | 日記










バラバラのようでいて、こういう楽しいスケジュールには、結束するのが、よくあること。



よく遊び、よく働けよ、家族。

どちらともなく自らに言いきかせるように。



ひとり言をそれぞれの耳に。



見晴らしの良いカフェで、一休み。

帰り運転、どうする?




しばらくして、ウォータージェットの観光船のエンジン音が。

その通過を眺めながら、

次の休憩地点までは運転を。

充分、心も体も、

栄養になりました。


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戦争証言アーカイブス

2017-08-15 14:10:52 | 日記

8月15日がくれば、ふれることにしているNHK 戦争証言アーカイブス
[証言記録 兵士たちの戦争]
なかでも、フィリピン・マニラの絶望の市街戦。脱出不能な状態での撤退命令
証言を改めて聞くことで、こころ新たにすることも。



 1945年2月3日から1カ月間、フィリピンの首都マニラで繰り広げられた「マニラ市街戦」。日本軍ほぼ全滅(遺体確認1万6555名)、米軍死者1010名、フィリピン人死者10万人と1ヶ月でおよそ12万人の命が失われた。首都を廃墟にしたこの市街戦を戦った日本軍兵士たち「マニラ海軍防衛隊」。マニラ死守の命を受け、急場しのぎで結成された部隊だったという。海軍の沈没戦艦の生き残り水兵や整備士、マニラの商社に勤めていた残留邦人をかき集めた部隊は、戦闘の訓練を受ける間もなく、米軍と対峙することになる。補給も絶たれ、ビルの地下室で凄まじい持久戦を強いられ、斬り込み攻撃を繰り返すほかなかった。その抵抗は、米軍の激しい無差別砲撃を招く。そして抗日ゲリラを恐れる狂気のなかでフィリピン人に銃が向けられる。戦後数十年経て、わずかに生存する元兵士たちは、ようやくその重い口を。最近アメリカで公開された米軍戦闘報告書、「マニラ海軍防衛隊」兵士たちの日記や記録なども交えつつ、元マニラ海軍防衛隊の兵士たちの証言が記録されている。


フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~

お前たちは生きて帰れ











最後にホセ・リサール像を。東京日比谷で撮ったものです。

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サニブラウン

2017-08-11 08:09:46 | 日記
育ちのよさを感じます。
日本代表選手。
サニブラウン頑張れ、応援しています。


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