トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、テレビ番組、家庭菜園のブログです。

ライバルは1964年

2016-10-16 08:57:22 | 日記

おじいちゃんは、言っていた。
お金はそんなになかったけど、笑顔はそこらじゅうにあった。
世界とはつながっていなかったけど、近所の人とはつながっていた。

ラジオから流れる曲と♪~このようなナレーション。

きっと、いまでもできるよね。

ライバルは、1964年。

2020年に向け、日本を考えよう

acジャパン・公共広告機構のcm
聞きながら思う。

2020年に向けて、自身の目標も明確に
掲げていきたいものです。

家族の目標も含めて。

他人との比較ではなく、
昨日の自分より、明日の自分。
自身の壁を打ち破り、

乗り越えるべき坂、乗り越えて、
4年後を迎えたい。

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ゆかりの人物(故郷編)

2016-10-16 08:34:29 | 日記
2020年は近い将来としては東京オリンピックが。1964年の過去の東京オリンピックには和歌山にゆかりのある人もその実現に貢献している。
米国日系人でただひとり東京オリンピック準備招致委員会委員に選ばれ、東京オリンピック招致に奔走した日系二世の実業家、和田勇氏のことを。
ヨーロッパや中南米の国際オリンピック委員を自費で訪問、1964年の東京オリンピック開催実現に大きく貢献している。この方の父母は和歌山県の人だ。
祖国へ、熱き心を―フレッド・和田勇物語〈高杉良著)この物語は誰しもが感動したと思う。

最近では芸能界で活躍されている坂本冬美さん藤原紀香さん、小西博之さんなどが和歌山ゆかりの人として浮かぶが、地域の有名人、偉人といった観点でたどってみれば、企業人としてはパナソニック創始者松下幸之助氏がくるだろうか。

そのほかにも、和歌山ゆかりの人といえば、同時代の活躍されてきた姿を拝見したことのある作家の(故)有吉佐和子さん。
さらには、科学雑誌「Nature」に日本人として初めて論文が掲載された天才南方熊楠(みなかたくまぐす)、世界で初めて麻酔手術を行った華岡青洲(はなおかせいしゅう)。
不平等条約改正である治外法権の撤廃を成し遂げた陸奥宗光。
アメリカのニューヨーク市民が等しくその死を悲しんだという和歌山県広川町出身の濱口梧陵(ごりょう)。和歌山県議会初代議長。
英国の文豪ラフカディオ・ハーンは、氏を「A LIVING GOD」(生ける神)と評して世界に紹介され、「稲むらの火」は防災の象徴として認識されている。
津波(ツナミ)の言葉が世界共通語になったのもそのときからかもしれない。

まだまだ、たくさんの方の名前も知られてはいる。
もっと時代をさかのぼれば徳川吉宗というところか。ゆかりの人に違いない。
地域のイベントとしてはその就任300年と銘打って県も市も観光振興を呼びかけている。

故郷を離れて暮らす若い人にも、先人を、知り、誇りをもって、また、それぞれにある、今住んでいるところでの地域の先人に学んでいかれることを。






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疑似体験的読書

2016-10-09 22:58:38 | 日記

▼飢餓と病気と不安に耐えて生きることだけを目標に祖国の勝利を信じて過していた。若き日の軍隊生活をつらつら書き綴ってみたい。私は著述などまったく無縁な人生を過してきた市井の一老人にすぎない。書き綴ることが老化を防ぎこれが生き甲斐になって明日への活力になることを信じて。(前田酉一〈ゆういち〉氏著「弱兵インド洋作戦」,本文より)▼「軍隊へ入って今まで何をしておったか」「お前のような者がどうして幹候の試験に通ったのだ」私は唇をかみしめて面罵に耐えた。予期していたものの「乙幹」に落ち込む。点呼が終わり下士官連中が自室へ引き上げて間もなく、教育係の三倉軍曹から呼び出しがあった。「決まった以上は仕方がない。国家に尽くす道は甲種であれ乙種であれ変わりはない。こんな事でくじけず今後も軍務に励むことだ。分かったか。」「はい分かりました」「分かれば帰ってよろしい。」▼訓示を聞きながら、私は特別軍隊に適応するような思想の持ち主でもなく、また体力の持ち主でもないが、善良で平凡な国民の一人として正直に時局を憂え、適齢期にある身として自分は国の為に尽くさねばならぬと純粋に思った。余談
教育係の三倉軍曹のこと。原子力発電所建設に対して猛然と反発して町長に立候補して、見事当選した元上官の三倉軍曹のことが語られている。人柄の良さと教育指導のうまさ、逆になぜあれだけ出来る人が甲幹でなかったのか、不思議でならなかった。と当時のことを。▼「三倉軍曹は戦争を生き抜き、歳を経て七十歳近くなった時、突然降ってわいた地元日置川町長への立候補、そして見事当選。その強固な意思と決断力、実行力の見事さに敬服する。」(本文より)

【備考】日置川町史を検索してみる。確かにあった。   原発誘致で揺れた町、日置川町(三倉重夫さん=反原発を訴え和歌山県日置川町長に初当選)当時の『毎日新聞』1988年7月4日東京朝刊3面  三倉氏はインパール作戦への従軍経験があり、反対の立場に立ったのは「原発は命の問題」という認識が形成されたからであり、戦時の体験と戦後養った宗教観、それにチェルノブイリ事故のことも色濃く反映しているものと毎日新聞は報じている。

和歌山南部地域(紀南地域)の自治体は高度経済成長期以降は人口・ならびに税収の減少という深刻な問題を抱えている。一方で、近畿地方の都市部における電力需要は近年も増大の一途をたどっている。こうした中、関西電力は1976年に日置川町内に原発建設を前提とした用地購入を行なった。これを受けて補助金等の交付による財政の改善を謳う誘致賛成派と、誘致反対派(万一の・あるいは軽微な放射能漏れ事故を懸念する派)とに分かれ町民同士が対立するという事態が発生。反原発派の三倉重夫は1976年の町長選で選挙事務長を務め反対派の町長の当選に貢献したが、その後その町長が推進派に鞍替えしてしまったために、1988年の選挙では三倉自身が町長選に立候補し当選。三倉の意思により日置川町の長期計画から「原発誘致」の文字が無くなった。またこの「反原発」の流れはその後の町長である前義郎にも引き継がれ、そして2005年2月18日付で経済産業省の資源エネルギー庁からの通達を受け、電源開発促進重要地点としての指定が正式に日置川町から外れることに。_ページをくって気にとめたほんの数行からのはじまりがこうして。地元の原子力発電所誘致問題。過去の経緯を知っておくことも。前田氏の著作には、人の出会いと別れが記されている。三倉氏もそのひとりだったが、その他、内地で訓練に耐え切れず脱走してしまった者、戦地で自暴自棄になって手榴弾で自殺した隊員を見つける場面等々も。貴重な体験を書き残されている。淡々と、しかも美化することもなく誠実に語られていることに感銘を受けたのだった。_「弱兵インド洋作戦」私の青春、軍隊とニコバルの孤島 著者生年月日、大正10年1月16日と巻末に。

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テロは断じて許せない

2016-10-09 13:01:44 | 日記
日本人の彼とハンガリーの友人、アメリカの友人とが化学式の亀記号を駆使しながら研究の眼で、熱く語り合ったように。例えていえば、こんな感じ。

学術がそれまでの感じていた物理的距離を近しいものに。コミュニケーションの触媒は、人間を人間らしくさせるのに、一役買ってくれている。

未来に期待するのは、この種の小さな親しみ易い規模の共同体を創っていくのは決して不可能ではないことの体感。
共同でなしえたひとつの成果に国籍や文化的背景の違いは、何の障壁にもならなかったことの証。
解を説いたそのときの感激は、まるで、兄弟のように、お互いの肩を抱き合う様を見た。

思想と理想は提供されるものではないことを。飛び込んで触れ合って学び取るものなのだということを。

一行中、唯一の日本人と気付かれると、いっそう愛嬌を振りまきながら、ワインを注いでくれた。だから彼は決意する。それまでの恩を、胸にと。

彼の周りでは三人の楽師がジプシー風の踊りを奏で始める。ほろ酔い気分の彼は、フォスターの一節を歌い、大いに彼らの人気を博していた。
歌と楽曲をつくる音楽家も、人類を結び合わせていく、大切な存在として語られていく。先の楽師の音色はトルコ、インド、あるいはアラブの様式にも似ていたという。裏方のほうでもそういった国籍を超えた楽団仲間のグループの繋がりのなせる友誼なのか。その繋がりからダイアスポラという語彙が。
ジプシー風の踊りの奏者の約し方はダイアスポラは、ムスリムという語彙に変わるのかもしれない。アメリカにも、欧州にも、インドにも、東アジアにも。いたるところに。

少数かもしれないが、旧知の間柄でもなかったけれど、思想と理想を語るなかで理解し合える繋がり。音楽が言葉のカベを越えたように。

彼と彼らは、いつの日か、あらゆる人々がすくなくとも三つの社会に属する時代がくることを期待している。

まずは、世界社会の一員、世界市民として。次に、彼も含め世界都市の地域的(小区)の一つに、属する一員として。地域共同体ではお互いに知り合っている場合もある。そしてその上、第三に、彼は世界的ダイアスポラの一員となることに努めるのだ。そして、このダイアスポラ(diaspora)もお互いが個人的に知り合える程度の少人数で構成されていくのだ。程よい距離感を保ちながら。

たとえ仲間は地表各地に広く散在していても。意思の疎通は可能だと。直接顔を合わせることのある場合も、そうでない場合も。IT技術を通じての、顔を見て語り合える場合だってある。
他方で、成員同士の関係を個人的に保ちうるほど小さな共同体メンバーとして、生きながら、多くは企業人として生活し、世界市民としての発言も欠かさないという、一種、二重、三重の趣のある生き方。


今、浮かぶダイアスポラの夢、戦争とテロのない平和な世界。
網の目のような形で包み込むようにして発言し続けること。

テロは断じて許せない。許さない_と。


(アルジェリア人質事件の報に接して以降、様々なテロ事件、起こるごとに思いつづけること。)社会学上の概念としての考察。《diaspora》

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故郷カルメラ星を想う

2016-10-09 11:45:06 | 日記
そんなことをブログに載せれば怪しまれるだけではないか。言ったあいつの厳しい眼差し。
はるかかなたのカルメラ星から、この地球にたどりついた同志の眼なのだ。
多少、地球人になりきるのに疲れの出始めていた彼だ。「君から教えられた日本の歌謡曲。歌詞をかみしめて耳を澄ませて聴いてみると元気が出てきた、言うところのよさにも気付いてね。」
それはスマップのトライアングルという比較的新しい曲のことだ。
「そうかい。気に入ってくれたかい」歌詞が良かったので励ます意味でエジプトの彼にも勧めてみたのだ。
俺たちの目的はカルメラ星の遺伝子を残すこと。彼はエジプト、自分はというと日本に舞い降りた。旅立つときにはそのような国名を知る由もなく、むこうでの呼び名は別だった。
地球にたどり着いてからはお互い、交信を交わすことは禁じられてもいた。交わすときは必ずカルメラ星を経由すること。まるでゾルゲスパイ団もどき。カルメラの遺伝子の特性はたどりついたその国のアイデンティティをも吸収してしまうということなのだ。
「君はホームシックにならないんだね」それはカルメラ星に置いてきた妻子のことなのか。俺のほうはもうカルメラ星の消滅をもって一応の気持ちの整理はつけてしまっている。
もう経由すべき故里の星もないのだから。今はこうして自由に彼とひざ突き合わせてもいる。
「エジプトは政変で大変な状況でもあるだろう。十分な用心をな」
「ナセルの時代が懐かしいの声を聞くよ。」それはわかるのだ。中東アラブの盟主として多くの民衆に親しまれてもいた。ナセル大統領が突然に亡くなったときはそれはそれは大勢の慟哭の民で埋め尽くされるほどだった。
地球上にはこれだけの沢山の国があることで驚きもした。それにいたるところで戦火は絶えない。カルメラ星は2カ国だけだった。
ある国の首相なんか、バイの会談と横文字でへらへらニタニタ簡単に言ってくれるけれど、二国間の交渉ってそう簡単ではないのだ。カルメラ星でいやというほど経験している。あのときはいっぽうの北半球の冷害で片方の国の食料が全くできなくなってしまったのだ。それを切っ掛けに世界政府に移行したのだった。一時はひやりとする事態も。それは略奪が近く起こるだののデマや噂だった。
食料の枯渇は生存の危機に直結する問題。武器以上に食料が交渉事にも使われ始めていた。だがあのときは、カルメラ星はじまって以来、両首脳が粘り強く智慧をだしあって冷静に対処したうえの結果だった。
「ところで教えてくれたあの歌詞にはとてもメッセージ性を感じている。」「わかるよ、ここんところだろ、(遠い空に 誰かが祈っていたり)(僕の肌 キミの母 僕らの愛は蒼く浮かぶ ちっぽけな惑星に 舞い降りた奇蹟)(わずかな苦しみも知らぬまま 後に生まれ 生きる僕ら受け継ごうその想い 声の限りに伝えるんだ)
スマップの歌声(大国の英雄や 戦火の少女それぞれ重さの同じ 尊ぶべき生命だから精悍な顔つきで 構えた銃は他でもなく 僕らの心に突きつけられている)」「そう、このフレーズを何度もくちづさむうちにこの地球にたどり着いた初期の目的を再確認している自分がいるんだ。まさしく、ちっぽけな惑星に舞い降りた奇蹟をね。」
「君は地球にたどり着いたということに特に意味を感じている。そこが日本国ということで」「ああ、そのとおりだ」
「でもオバマ大統領の核廃絶へむけてのプラハ演説のとき、日本の明確な主張も、聞けなかったんだよな。」
「でも今ではそんなことはたいしたことではないんだ。」「ふーん」
「君に教えたこの歌詞のように、そうさ(無口な祖父の想いが父へと 時代を跨ぎ)というそこのところに気付かされる。そもそもの俺たちの目的はカルメラ星の非戦、平和の遺伝子を残すというところにもどってくるんだ。
俺も舞い降りた当初はこの国を低く見るというか自分の惑星と比べてみてもみくびっていたところもあったんだ。何故かって、そりゃ、君にも指摘されたとおり、日本での不幸といえば、幼児虐待や、高齢者をねらったオレオレ詐欺。そんな事件ばかりだからね。民度に疑問附もあった。中東と違って弱いものがさらに弱いものを襲う。まさに形を変えた経済テロじゃないか醜悪だねと君が言っていただろ。
ところがエジプトでの騒動が起こりだしてから丹念にくまなく地球上の歴史にも関心を寄せてから、それから日本のよさも認識することになったんだ。ナセルが西欧列強と角突き合わせてスエズ運河を盾にしたときその仲介役として西側の英米から頼りにされたあるカナダの外交官の半生をきっかけにね。」
ナセルは西側にとってもコワモテの相手だった。仲介役として彼ハーバート・ノーマンという男に白羽の矢があつまった。理由はその彼はその前に連合国側の一員として日本占領期には日本の民主化にも成功をおさめていたからかもしれない。
ひざを交えたアラブ・エジプトの盟主ナセルも彼にすっかり魅了されてしまうのだ。こうしてスエズの危機は彼の仲介もあってか、好転していく。そのまま学者でいけば、丸山真男らの知友を得て明治維新とか江戸期、安藤昌益論だけに限ることなく室町鎌倉期とさかのぼって刺激的な学問領域も開拓されたかもしれない人物。
しかし、象牙の塔で住まうことの許されないその後の人生。国際政治の危機に彼の力量が借り出されていくのだった。
日本占領期時代には彼は天皇制を問題視する連合国の意向の多いなかで常に擁護の側にまわったという。連合国の多くは勝った勢いから慢心で覆われているという雰囲気の中。そのなかに在って彼は日本国をどう見ていたかだ。
おお、西欧の連中よ、かつて世界史に類をみない立派な明治維新を行った国、日本国なのだぜ。わかってるいるのか。という感情。
限りなく勤皇の志士の伝統を汲む日本に尊敬の念も持ちながら、あらゆる横槍をかいくぐって日本の尊厳を損なわない形での戦後処理を模索していく西欧人だったのだ。
彼は日本の復興を信じていた。「カルメラ星人が、地球人の学者の影響を受けているってか?おかしいぜ。君はいつから主義者に?」
「俺は皇国主義者になったわけでもないよ。舞い降りたところが日本だからってなにも。今は20世紀の哲人スペインのオルテガの言葉を聴いている。」大衆ではないなにか卓越したものに奉仕するように生をつくりあげるのでなければかれにとって生は味気ない。高貴さは権利によってではなく自己への要求と義務によって定義されるものというそれだ。
カルメラ星でもそうだったじゃないか前世代達の英断の数々を俺達は見てきている。
カルメラ星、消滅までのごく前の話。消滅は想定内のこと。時計の針は生物学的死が近づいてきたようなものに過ぎなかった。大事な因子を残そうと、そして、そのタネを植える畑としての探索が続いた。私達は地球という惑星を知らされ使命を告げられた。
俺達がなぜ選ばれたかって。そりゃ、その話の可能性を信じたのが俺達だけだったからさ。
カルメラ星での高貴ある解決の歴史をこの惑星でも活かさんと。俺はスマップの曲に次いで、哲学ではオルテガに執着しているんだ。オルテガは決して歴史の絶対的な予定説を信じなかった。短絡的な発展史観などは信じなかった。(わたしは逆に、あらゆる生、したがって歴史的生は、純粋な刹那によって構成されているものであり、その一瞬一瞬はそれに先行する一瞬に対して相対的に未確定であるために、現実はその一瞬において逡巡し、-カ所で足踏みし、多くの可能性の中のどれに決めるべきかに迷うものであると信じている。この哲学的逡巡こそが、あらゆる生的なものに、まごう方なき不安と戦慄を与えている)と。
「この哲学的逡巡とは、優柔不断とは似て非なるものだと思うんだ。」(まごう方なき不安と戦慄)の緊張感の中から(善)を探り当てる力の源泉。カルメラ星での数々の成功がそうだったじゃないか。経済の悲観的な観測に左右されたり、ペシミスティック、ニヒリスティックな心象風景が続いていても、かの惑星同様この惑星でも達成は可能だと。「俺はノーマンが日本を愛し信じたように日本の可能性を改めて信じてみるよ。」

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