活動的な動きを禁じられて、久しぶりにまた、徒然草を読み返していました。短い段章からなるので、今のような状況の折に手にするのに適しているのと、若い日の所感とは異なる味わいに惹かれるものがあります。
七五調を基調とする名調子の137段は、古典の教科書に必ず登場する「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。」で始まる有名な一段で、昔も今も魅力のある段ですが、ふと、この美意識は兼好法師の独創の見解なのだろうかと思ってしまいました。
「雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほ哀れに情ふかし。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所おほけれ。」と続いていくのですが、徒然草成立の1230年頃といえば、南北朝前夜、鎌倉の北条の勢力に押され、宮廷の勢力が衰退する中にあって、一方、和歌に精進する武士や、風流に心を寄せる隠遁者たち、これらの人に、王朝以来の公家社会が培って来た伝統の美意識を披瀝したのではなかったか、ということです。
平安時代の「うつろいざかり」ほどではなくとも、物の頂点の美だけをもてはやすのではなく、、あるべき姿の想像、期待、余韻を味わうゆとり、何事にも大騒ぎしない嗜みと、程のよさこそ大切といった伝統の粋を賞賛したかったのではないでしょうか。
移盛りは、白菊の花があせてうすい紅色を帯び、さらに紫がかったのが、最も美しい時期として、古今集にも歌われ、伊勢物語でも賞美されていますが、私にもそこまでの趣味はお呼びではありません。あなたはいかがでしょう。やはり盛りの花こそ見所多けれですか。
あゝ せめて
我が身の齢 いま少し
若くしあれば 紅の
かくも気高く 香りたつ
薔薇の化身の 乙女をば
魔法を解きて 現身(うつせみ)の
滾り燃え立つ 美女となし
手を取りあいて
娶らむものを
狂おしく 咲きたるばらは 惜し気なく
散りて尽くさむ 残り香いとしき
虚庵 長歌並びに反歌