さわやかな秋の風に誘われて、門司港までドライブです。目当ては出光美術館の“仙名品展―禅画にあそぶ―”です。
自画像と題した洋梨風ののっぺらぼうの形に顔らしきものが少しだけ張り出した絵の画賛は「仙そちらむいてなにしやる」です。虎を描いて、「猫に似たもの」と書き込んでありました。
出光では、仙和尚(註1)の命日の10月7日前後の約1ヶ月間は、毎年出光コレクションの基礎ともいうべき仙作品を何かの形で展観しています。今年の秋はここ門司港の出光での名品展です。この企画は、昨年の秋、東京の出光美術館で評判になった仙展を縮小して再構成したものです。
地元の博多っ子が「仙さん」と親しみをこめて呼ぶ禅僧の自由奔放な書画には、思わず笑ってしまいます。
厳選された仙作品は、数が少ない分、たっぷり拝見に時間を掛けることができます。
かの「指月布袋」の意味する奥深い寓意を解説板から引用します。「布袋の指し示すものを見つけようとしても、何も見えない。禅の修行も同じ」つまり、指(経典)にとらわれていては、月(悟り)には至らない。といわれてみれば、おのずと、無邪気に子どもと月を楽しむ布袋と見た認識も異なってきます。
坐禅蛙の画賛の、皮肉もなかなか辛辣です。ただ坐禅さえすればいいかのような修行のあり方へ痛烈な一撃です。蛙の蹲る姿は確かに坐禅を組む僧の姿に似ています。賛にいわく「坐禅して人か仏になるならば」
いつまで経っても蛙のまま。蛙ならそのうち、ぽんと跳ねることもあろうに、上手く描こうと思ううちはまだまだと、私の作画を笑われた気がしました。
達磨の絵には「直指人心 見性成仏 更問如何 南無阿弥陀仏」と至極真面目に記した横には「達磨忌や尻の根太が痛と御座る」と洒落ていますし、花見の賛は、「楽しみは花の下より鼻の下」と読めました。
絶筆碑に「墨染めの袖の湊に筆棄てて書きにし愧をさらす白波」と記しながら依然として書き続けた人らしい処しかたです。
何度目にしても笑ってしまうのが「老人六歌仙」です。鋭い目でとらえた老い姿なのですが不思議に、六人とも穏やかに微笑んでいます。(註2)
―禅画にあそぶ―真骨頂を楽しんで見ました。お蔭様でこの日ごろの肩のコリが少しほぐれる思いです。紅葉にはまだ早い関門海峡を見下ろす山上のレストランで遅めのお昼をいただいて、潮風を窓にいれながら、帰途は高速を使わずに走りました。仙さんの余韻でしょうか、私の運転へのお小言もありませんでした。
註1 仙(1750~1837)はわが国最古の禅寺、博多の聖福寺の123世の住職だった名僧で、晩年は数多くの「画無法」とよばれる禅画を描いた。
註2 老人六歌仙
1. 皺(しわ)がよる 黒子(ほくろ)ができる
腰曲がる 頭はげる ひげ白くなる
2. 手は震う 足はよろつく 歯は抜ける
耳は聞こえず 目は疎(うと)くなる
3. 身に添うは 頭巾襟巻 杖眼鏡
たんぽ温石 尿瓶(しびん) 孫の手
4. 聞きたがる 死にともながる 淋しがる
心は曲がる 欲深くなる
5. くどくなる 気短くなる 愚痴になる
出しゃばりたがる 世話焼きたがる
6. またしても 同じ咄に 子を誉める
達者自慢に 人は嫌がる
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貝原先生のマニュアルを精読・実践されて長生きされたのでしょうね。
ところで、老害6箇条は的を得ていますが、現代の情報過多時代には聞きたがる人は少ないかも。
ネットで一人で・・。
若い子に”小さな親切”のつもりでアドバイスして
"大きなお世話”と言われるのが一番コタエマスよね。しあけんど、
当市の標語に”愛の一声 大人の責務”ってありまして、反撥を食らったら、この標語を持ち出す用意をしとります。
門司からの道は昔の西鉄電車道?助手席の旦那様との
愛の語らいは最高でしょう。
爽やかな季節が続いています。
六歌仙画賛は、読むたびに噴きだしてしまいます。殊にも4節5節は、身にしみて。
6節は、褒めるほどの子は持たぬ身には、同じ話は過ぎた日のことばかり。この頃は、腰が、膝がで、やっと人並みに話の仲間入りです。
「ネットで一人検索」できるのは、香HILLさん世代からです。アナログ世代はやはり、聞いても端から忘れてしまうのに、”聞きたがる”です。
“愛の一声、大人の責務”いいですね。我があるじが喜びそうです。”大きなお世話”どころか、”大きな迷惑”といわれても、言うべきことは言わねばなりません。もの申す人に、誠意があれば通じると思っている化石の世代です。
門司からの道は、旧西鉄電車道のほかに海岸に沿って、赤レンガの倉庫の並ぶバイパス道路ができています。アサヒビールやニッカの工場があった位置です。山の道と呼んでいる旧電車道は、曲がりくねっていて、高低差がありますので余り利用されていません。
そのほかに山手をトンネルの多い都市高速道が門司港まで延びています。香HILLさんのご存知の北九州は大分変貌しています。
少し盛りは少し過ぎていますが、週末からコスモス祭りが方々で催されています。遠賀川の河川敷も、国道3号から河口までコスモス畑が続いています。
お陰様で「奥深い寓意」を知ってありがたく思います、月は真理、経典は指先に と伺って目が覚めました。
□△○も、一瞬先の心、常に変わることを表していると。後世、仙涯のことを画家として記憶されるのをおそれたといわれるくらい上手かったのを、わざわざ下手に描くなんて。驚きました。あらためて、禅を身近にふかく捉えています。やがて 老人六歌仙…少しづつ近づいていますので、心して生きます。
本当は上手いのですね。竹の絵や、菊、そのほかの線の活き活きした絵もありましたが、画賛でくすぐっています。
こんなお坊さんがいたらゆっくり話を伺ってみたいですね。
□△○は、賛がないだけにイロイロな解釈があってこれも考えさせる絵です。真似て描いてみましたが、どうしてなかなかのものであることに気がつきました。
庭の菊を見ながら「此花はきくといえども耳もなし]と呟いています。