「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

今朝の来客

2008年08月15日 | 塵界茫々
 早朝、目が覚めたので戸は開け放って、網戸だけにしてベッドの中で本を読んでいました。
 ガサガサという小さな音に顔を上げると、ゴキブリ様のものが網戸に止まっています。起き上がって顔を近づけてみると5㎝ほどの中型のカブトムシでした。
昨年はクワガタの来訪が二度ほどありましたが、カブトムシは初めてです。
 カメラに収めて虫かごに入れ、お隣の小学校2年生の孫息子に、いるなら取りにいらっしゃいと電話しました。
 大きな網と虫かごを手にした愛らしい子が門のチャイムを鳴らしたのはものの5分も経っていませんでした。

<2枚入っています。
 
 蜂に刺されたら大変だからと夫がいうのももっともなので、私も捕虫網を持って付いて歩きました。朝のいい運動になったことです。歓声をあげて元気に駆け回る姿に、久しぶりに孫たちと過ごした遠い夏休みの日を思い出しました。
 娘たち一家は、連れ合いの兄が新盆を迎えるので、今年は山形に帰省していてお盆には帰ってきません。
 代わりに、午後も来ていいかと念を押されて、今日は小さなお客さんを待っています。

 63回目の終戦記念日を迎えました。今年は、従兄弟の集まり「御牧会」のメンバーで最高齢だった旧家の主の初盆でした。戦争体験を語り合える人がまた一人消えてしまいました、
 広い屋敷のなかを元気に駆け巡る曾孫たちを見守る笑顔の写真は、何を思っていることでしょう。

涼味

2008年08月04日 | 塵界茫々
 こう連日の猛暑にいためつけられると、外出も億劫になってしまいます。
 いただいた暑中見舞いに『涼味』を探ってみました。

 「涼」という文字は部首の氵(さんずい)が水を表し、旁の京は、高の省画に人工の丘を意味する个があわさったもののようです。水と、高い丘に吹き抜ける風に涼が代表されるというのでしょうか。暑中見舞いのハガキにも、パソコンによる画像にも、水辺や、山岳の風景が多いようです。

 食いしん坊の私は、この季節は、一仕事の後の冷えたビールに幸せと満足を味わいます。夏場はすっきりした辛口が好みです。まずは味覚が涼を招く第一です。
 単に低温であればいいわけでもなく、涼味を感じる冷たさがあり、程よい冷たさには風流の気配さえあります。
 今はみずみずしい果物類が多く出回る季節でもあり、適度に冷やされた果物の甘さは格別です。ただ、かき氷やシャーベットの場合は、氷ったしゃりしゃりした食感とスプーンでつぶす音が涼味を感じさせてくれます。

 暦の上での立秋は、あと3日でやってきますが、残暑はいよいよきびしく植物も、動物も喘ぎながら耐えています。
 空調設備を持たなかった時代の暮らしでは、この自然と調和して生きることに工夫を凝らし、知恵を働かせて来ました。
 「打ち水」「風鈴」「納涼」「朝顔棚」「金魚鉢」「夏簾」と、物理的に、あるいは聴覚、視覚からも涼をとり、それを洗練された文化にまで高めてきた先人たちの知恵と美意識にはただ脱帽です。
 どうやら、涼しさを受け止めるには、こちらのこころの風通しもよくなくては味わえないと、やっとこのごろ気づきました。

 それにしても、記録的という今年の猛暑日の連続には、「昭王の珠」をしばらくでいいから、お借りできないものかと、すぐに、だらしなくも消極的になってしまいます。みなさまもお大事に、秋冷のときまで乗りきってくださいませ。(昔、中国は燕の昭王が持っていたという、涼しさを招きよせる珠。黒い蛤が千年に一度産したもので、酷暑の日でもこれを懐にしているとたちまち涼しくなるといいます


神坂雪佳 十二ヶ月草花図 水葵

夏を暮らす

2008年08月02日 | 塵界茫々
 8月にはいり、まだまだこれからも暑い毎日でしょう。今日で33度を越す真夏日が34日連続と報じられていました。記録の更新だとか。戸外は40度を超えているようです。

 谷に臨む部屋は、開け放すと、木立を通って冷やされた風が入るので、クーラーはこの部屋にはありません。ささやかな暮らしの中で、最高の贅沢は、この冷房と思っています。夕凪の風の止まる時間帯だけは、さすがに扇風機のお世話になっています。兼好法師のいうように、「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる」を実感しています。ときどき網戸の隙間から迷惑なお客も迷い込むおまけつきです。高層住宅に暮らす涼やか、快適には縁の薄い暮らしです。

 自分の部屋でやればいいものを、この部屋に二人がそれぞれ仕事を持ち込むのでいつも散らかっています。お昼寝もこの季節は、ここが定位置になっています。
 膝を痛めている私は、正座が続かないので、テーブルに向っての手仕事や、「お絵かき」です。昼寝と読書は揺り椅子です。

 先日、夕食の仕度をしていて『あっ!』と声を挙げました。目を上げた椿谷の底の辺りが燃えているのです。木間がくれに点々と赤い火が見えます。夫も何ごとかと立ってきました。まもなく、夕焼けの光の屈折が演出したいたずらと気づきましたが、長く暮らしてきて、初めて目にする現象でした。この春、谷の櫻をはじめとする老木が伐られたせいでしょうか。
 写真に撮っておこうと、カメラを取りにいって引き返した時には、もう火は消えていました。その後、同じくらいの時間には注意しているのですが,再び火が燃えることはありません。

 夏の思い出と、目に留まったものを描いてみました。記憶の中の祇園会の山鉾と、へぎ造りの美味しいオコゼです。「何か判らん」そうですから、念のため。







祭りの後

2008年07月16日 | 塵界茫々
 半月に亘った博多祇園山笠も昨日早暁の“追い山”でフィナーレを迎えました。
 とうとう今年は出かけることなく、テレビで見ていました。
 徒然草に言うような、物事は「目のみにて見るものかは」の悟りが、あればいいのでしょうが、俗物は、「家を立ち去らでも」とは行かず、やはり目の前を全力疾走で駆け抜ける山を、勢い水のしぶきを浴びながら熱狂してこそ、祭りが果てた後の鎮めの能に、祭りの終わりの情趣もしみじみと味わえるというものです。

 山笠に気をとられている中で、大野 晋さんの訃報を遅れて知りました。
 日ごろお世話になっている岩波古語辞典、広辞苑の編集者の一人であるだけでなく、何度となく引用する岩波の「日本古典文学大系」で、万葉集1~4、日本書紀上下の頭注執筆の仕事もなさっていました。
 国語学の学者としても積極的に時代へ関わり、率直な発言をなさっていました。、
 狭山事件にも、脅迫状の鑑定で、筆跡と文章表現から、国語学者としての見
解を述べられ、再審への道を提言されていたのは、記憶に新しいところです。

 思えば、「上代仮名遣いの研究」で、万葉集の時代には、カ行やハ行、ワ行
などに二通りの発音があり、50音の今とは異なり数が多かったのを知ったのが最初の出会いでした。もう書かれていた大方を忘れていますが、面白がって、「ふぁな」(花)とか、春を、PARU-FARU。蹴るをKWERUなどと言い替えて喜んでいた記憶が蘇りました。
 近年では、180万部を超えるミリオンセラーとなり、日本語本ブームの火付け役になった「日本語練習長帳」がありました。このブログでも何度か登場しています。
「が」と「は」の使い分け始め、随分この本には教えていただき、自分の不確かな「日本語」を顧みたものでした。

 ご自分の意見を明確に主張されるため、軋轢も少なくはなかったようですが、行動する学者というイメージと、それに加えて、南インドのタミル語を日本語のルーツとする説のロマンも私好みでした。
 まだまだ、大きな仕事をなさる方と思っていたのに、惜しい方がなくなってしま
いました。導きの恩恵の深さにあらためて感謝し、ご冥福をお祈りします。

 かくて、今日は祭りの後の寂しさが一段と身にしむことです。

 櫛田入りの画像は先年撮影したものです。

夏篭り

2008年07月12日 | 塵界茫々
 今日は午後3時過ぎから、博多山笠の”追い山ならし“が行われました。
 15日早暁の”追い山“に出かけるのは無理でも、この追い山ならしは、午後の時間で、見物に出かけやすいのです。この行事は、本番に向けてのリハーサルで、距離が少し短いだけで、本番さながらにタイムを計り、勝った、負けたと盛り上がります。
 出かける予定にしていましたが、先日来の草取りと、10キロの梅干の天日干し作業が少し無理になったのか、腰に違和感があります。今日は土曜日と重なったので、人出も多いと考えてテレビで見物することにしました。
 西流れの25分というタイムに驚いていましたら、優勝常連の千代流れはさらに速い”廻り止め”入りでした。

 出かけることも、庭仕事も止めにした夏籠りを、自分の部屋で細かな針仕事です。合間には、先日の京都、細見美術館でみた若冲の鶏を、自分流に描いてみたりしています。いずれも短時間で終わるものしか出来ません。
 終りに近い半夏生も色々と描いてみましたが、1枚ずつUPします。





崩れる

2008年06月21日 | 塵界茫々
 このところ、かなりな頻度で地震がこの星を揺さぶっています。パキスタン。インドネシア・ジャワ沖地震に続く中国四川省の大地震です。
 悲惨な崩壊の現状が連日報道されていました。自然の持つ力の巨大を、畏れを抱いて傍観するのみです。

 阪神淡路の大震災の記憶もまだ鮮明に残る中で、新潟県中越沖地震が起こり、そして今回の岩手・宮城の内陸南部を震源とする地震です。
 14日の地震発生から、今日で1週間。「駒の湯」温泉の宿泊客、旅館関係者の方など生き埋めとなられた方たちの捜索が続いています。
 大きくえぐられた山肌、140mを超えて崩落した橋、土砂で塞き止められてできたダム湖などが映像を伴って報道され、二次災害も危惧されています。避難生活も、前途を思うと深刻なものがあるとお察ししています。

 この地震列島に暮らすからには、いつ何処で地震に遭遇するかわかりません。地震を経験したことのない人は少ないことでしょう。ここ福岡でも先般、予期しない地震の洗礼で、揺れる実感を充分に経験しました。
 「地震、雷、火事、親父」は古くから怖いものとされ、筆頭が地震です。4番目はとうに権威を失墜し、手押しポンプの時代とは異なり、普通の火災の拡大はかなり抑えられ、避雷針の効力もあります。残る地震のみは、予知すらままならない現状で、威力を見せ付けています。
 備えあっても、憂いはあり、今はいかんともしがたい状況です。
「なゐふる」と恐れたいにしえから、どれだけ人知は進歩したというのでしょう。

 この星の誕生ドラマを再現するかの、地の神の怒りが一日も早くおさまり、平安がいくらかでも戻ってくる日が訪れることを祈って止みません。




終わらない梅仕事

2008年06月14日 | 塵界茫々
 今年はどういうめぐり合わせになっているのか、収穫量が生り年の常の倍はあるようです。
 昨日も20キロ近く収穫がありました。最後の1本の木に、一番多く実が付いていました。この木は葉柄が赤いのです。種類もわかりませんが、丁度いい大きさの実が付きます。
 来年からのことを考えて、木に登って、直径3センチくらいの所から枝ごと鋸で切り落とすという思い切った剪定で、空が透けて見えるようになりました。

 ご近所の方で、「お宅のは、消毒をしてないから喜んで」と仰る方にはお届けし、親戚にも電話しては、送り届ける仕事がありました。

 これだけ強い切り込みでは、あと2,3年は、収穫は期待できないとなると、自家用にも少し梅干を追加しておかねばと思案中です。梅シロップだと手間いらずだし、でもそうなると総動員してしまたので、瓶を買ってこなければと、梅の山を前に、溜息をついています。剪定して落とされた枝です。

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 オン・マウスでもう1枚。Sakuraさんのソースを拝借して早速試してみました。

椿谷哀愁

2008年03月31日 | 塵界茫々

 先週から、古い2階建てのアパートの取り壊し作業が始まっているのは気づいていました。
 彼岸のお寺参りから帰宅して、裏城戸から入ろうとして、足が止まりました。見晴らしが変わって、今まで見えなかった谷の向うの家々の全景が、あからさまに目に入ってきました。一瞬目を疑いました。思いもかけなかった出来事で、桜が全部伐り倒されて、影も形も見当たらないのです。

 谷の縁に沿って、いつごろの人が植えたものか、等間隔に並んでいた二抱えもある櫻の古木が伐り倒されて、もうその姿さえもないのです。この櫻はJRの列車の中からも目印になるほどで、花見にやってくる人もありました。
 裏の傾斜地の大きな櫻も咲きはじめており、この木の足許を埋め尽くす借景の櫻が、うすくれないに煙る眺めも間もなくと、楽しみにしていました。
 お風呂に入ってこれを眺める贅沢は、何物にも換えがたいものと、花盛りの時期には朝からのお風呂が習慣でした。
 人様の地所のことで文句をつける筋合いではないのですが、せめて最後の春を、花を咲かせて見届けてやりたかったと、よしない嘆きを繰り返しています。

 これ以上の変化はないように願っていますが、ブルトーザーの動きが呪わしいことです。工事の人が帰った後、谷に下りて、未練がましく遠くから切り株を写真に収めました。椿はまだ健在です。私たちがこの地を去らない限りは。
 それでも、周辺の変化は止めるすべもなく、やがて景観もみすぼらしものに変貌するのかもしれません。
 心なしか今日の弥生尽は、いつもにまして哀愁にとらわれています。

色も香もうしろ姿や弥生尽   蕪村

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<椿谷の藪椿>

母の三回忌法要

2008年01月26日 | 塵界茫々
 24日に母の三回忌の法要を営みました。準備の段階で腰を痛めて辛い時間があった分、滞りなく済ますことが出来て、達成感があります。
 昨日は朝寝坊をして、一日ぼんやりした時間を過ごして、片付けもまだ残っています。日常が戻った目は、庭の梅が初花を開いているのを捉えました。

 仏壇の清掃に始まって、仏具を磨き、お供えの菓子果物、零膳の準備、日常は用のない来客用の座布団を出して日に干し、接待のための諸道具、茶菓の用意も、万事がのろまになって、手抜かりをしては行きつ戻りつで、忘れ物が何だったかを忘れるという体たらくでした。
 一番気を使ったのは、年寄りばかりの集まりに、寒い折から、二部屋を通しにした座敷で風邪をひくことがあっては大変ということでした。朝から空調に加えて、灯油ストーブを焚いて暖めました。これは夫が気をつけてくれました。

 法要の間、僧侶の読経に合わせて、“仏説阿弥陀経”を小さく誦しながら、経文に説かれる極楽浄土の景を肯定できない自分がいました。終わりの法話もなにか上の空で、豪勢に活け込んだ菊や百合の姿を眺めていました。

 席をあらためた料亭での会食の席で、親族、兄弟の間の話題は、次の七回忌までは、まだ兄弟の誰かが健やかで法要が出来るだろうけれど、その次の十三回忌となると、一番若いものが83歳だから、このメンバーで何人が参会できるだろうといった侘しい話になりました。

 今回の身体の不調から考え合わせても、90代の私たち夫婦が取り仕切ることはもう無理でしょう。
 私の実父は54歳で亡くなっていますので、兄弟全員欠けることなく故人にとっての曾孫までを交えて賑やかに五十回忌の法要を、先年、弟が主催して営みましたが、103歳での他界は当然ながらこういう状況になります。

 兼好が、徒然草で『思い出でてしのぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなくうせて、聞きつたふるばかりの末々は、哀れとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、はては、嵐にむせびし松も千年をまたで薪にくだかれ、古き墳はすかれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。』と述べる三十段が如実に身に迫ったことでした。


袖に時雨のかかるとき

2008年01月19日 | 塵界茫々
 来週に迫った義母の3回忌法要に備えて、庭で馴れない片付け仕事をしていました。このところ、寒さのせいか膝に違和感があるので、自転車漕ぎも休んでいます。
 お昼の用意をする時間とは思ったのですが、あと10分もすれば終わるからと続けました。この10分に手酷く思い知らされることになろうとは思ってもみませんでした。
 夕刻から、腰から下の左半身、膝はもちろんのこと、太腿に至るまで、ぐるりと鉛の袋を吊り提げているような鈍い痛みと、だるいとも、強張るとも形容しがたい辛さで、いっそ疼痛なら堪えようもありそうな不快感でした。風呂で温めると幾分苛立たしい痛みは軽くなります。湯に浸かりながら、周辺に事欠かない事例のあれこれ、痛みを抱えた友人の誰彼を思い浮かべては、考えることは悪いほうにばかり、次々と暗い想像に取り付かれていました。

 いま考えてみると、母の終末のころの苦しみを、私はどこまで受け止めていたのか、甚だ怪しいものです。
 医薬の処置で痛みは感じていなかったものの、点滴も施せなくなった状況での、辛さはいかばかりだったかと、今にして想像します、苦痛を一切口になさらないのをいいことに、通り一遍の理解で慰めの言葉を口にしていたと今頃気がつきました。

 兼好法師の言う“友とするにわろきもの”の典型であった身の程を反省するのも、今の痛みを身にしみて辛いと思うからでしょう。
 ちなみに、百十七段には「友とするにわろきもの七つあり.. 一つには高くやんごとなき人、 二つには若き人、三つには病なく強き人、四つには酒を好む人、 五つには猛く勇めるつはもの、六つには虚言する人、七つには欲深き人。」とあります。
 1、2、だけは確実に除外できますが、ここで言うのは三つめの“病なく強き人”を指しています。年間ほとんど健康保険証の出番がない私の、病を持つ人への理解に関してです。

 頭で理解していたとしても、自分の身に降りかかってはじめてその辛さと、病をもつ人の気持ちの向かう方向が解るというものです。
 女学校の同窓会に出席しても、病状報告会じみた現状報告を、内心冷ややかに聞き流して、あまり自分の病いをあげつらうのは、如何なものか。健康自慢同様に聞きずらいもの、と感じていた思い上がりを反省しました。

 折しも、投与された薬害のために、肝炎に長く苦しめられてきた人たちに、やっと灯りがみえてきたことが報じられました。せめてもの救いと、こころから喜ぶことが出来ました。