某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

月瀬の大杉

2019年05月15日 11時45分00秒 | 日記


月瀬の大杉。

長野県下伊那郡根羽村月瀬日影平地籍にある月瀬の大杉は、目通り1.5メートルの高さで、幹回り約14メートル、樹高は40メートルに達する巨木であり、全国的にも有数のものであるので、昭和19年(1944)11月国の天然記念物として指定された。樹齢は文部省調査による指定当時の1800有余年を採用している。
平成元年、環境庁の巨木調査により、長野県第一位の巨木であることが確認された。
昔から虫歯に病む者が祈願すると、霊験が著しく、また大事変の起きる時は前兆として大枝が折れると語り継がれている。
旧月瀬神社のご神木として古来から尊崇され、知区民の手で保護されてきた。
弘化元年(1844)の江戸城本丸焼失後の復興用材として、また明治41年(1908)村内神社統合の後、大杉売却の決議がなされたが、月瀬全住民の団結の力によって、保存され現在に至っている(案内板より)。








ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村



信玄塚

2019年05月15日 10時45分00秒 | 史跡めぐり


信玄塚。
     
信玄塚・宝篋印塔の由来
◆信玄塚
武田信玄は、三河国野田城(愛知県新城市)攻略中に肺肝を患い、田口、津具を経て甲斐国へ引き返す途中、天正元年(元亀4年・1573)4月12日、53歳にて、ここ「ねばね」の上村において他界された。(甲陽軍鑑より)
その折、風林火山の旗を横にしたのでこの地を横旗という。信玄公が葬られているとされる信玄塚は村史跡に指定されており(昭和56年指定)、現在の国道153号線沿いの風林火山騎馬隊の大壁画の東方国道敷に埋没されている。
     
◆宝篋印塔
寛文年間(1661~1673)の頃、信玄公百年目の遠忌に際し、供養のため、武田家ゆかりの人々によって建立されたと伝えられているが、塔の形式等から室町末期と推測されている。花崗岩製で高さ1.84m、塔身に四仏を表す梵字が刻まれており、塔の規模、様式から見て城主、大名級のものであるとされている(案内板より)。






ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

武田信玄公灰塚供養塔(長岳寺)

2019年05月15日 09時25分00秒 | 史跡めぐり


長岳寺。
     
NHKで放映の武田信玄公と当寺の関係、信玄公の死亡された所について各地に伝えられていますが、この寺は信玄公が野田城からの帰途、この駒場の山中で亡くなられましたので、当長岳寺に秘かにかつぎこまれ、こっそりと火葬にされたお寺です。境内に信玄公の灰塚供養の十三重の塔と遺品が残されています(案内板より)。
     


長岳寺は弘仁年間に伝教大師により創建、本尊は定朝作十一面観世音、また木槌山観照寺の本尊薬師如来が祀られ、縁結びの仏として最近は厄除けのひょうたんを授けています。
また武田信玄公を火葬にした寺として由緒ある寺です。武田信玄公は野田城攻め最中に肺患を得、病が重くなり三河から信州伊那を経ての帰途、元亀4年、天正元年4月12日信州伊那の郷、駒場の山中で信玄公53歳で落命されました。
当山には信玄公の義理の兄弟、下條家出身「六世裕教法印」が住職を務めていた関係で信玄公の遺骸は当山に運び入れられ、兵は影武者をたて、信玄公は生きているとし、古府中に帰る。そのあと当山を守っていた馬場美濃守、原備前、高坂弾正、下條伊豆守等の武将により、お骨にしてこっそり持ち帰られました。昭和49年4月、信玄公400年祭の折、その火葬塚より火葬灰を当山境内に移し、信玄公の供養塔として山梨県の由緒の者等及び当地の有志により、十三重塔が建立されました。
尚、昭和6年5月29日に長野県佐久郡岩村田町(現在佐久市)の古刹龍雲寺の境内にある古墓から貴重な物が発見されましたが、その中の一つの袈裟に環がありその環には、大檀越信玄公、元亀4年、天正元年4月12日於駒場卒戦時為舎利納と文字が書き込まれていたものが出てきました。当山には信玄公が使用していた兜の前立て二種類があり、鍬形台三輪菊唐草透彫三鈷柄付と大日の丸練革製朱塗が保存されています(パンフレットより)。





ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

武田勝頼首検分の処

2019年05月15日 08時55分30秒 | 史跡めぐり
 
武田勝頼首検分の処。
 
天正10年春3月14日織田信長 光秀を従え此の地に出陣
武田勝頼・信勝父子の首を検分する(石碑より)。
 
 
「信長公記」によると勝頼、信勝親子の首級は滝川左近から織田信忠へ渡り、信忠は関可平次、桑原助六に持たせて信長に届けた。
3月14日、信長は浪合で勝頼父子の首実検をし、飯田に晒し、のち京都に送って獄門にかけたという。
 
 
 
“信長が、勝頼父子の首級と対面した時の模様については、諸説ある。信長は、信忠とともに勝頼の首に向かって雑言を吐いたといい、それを嫌がって首は面を背けた。これをみた信長・信忠父子は、今度心変わりをした家臣たちをみな滅ぼしてやろうというと、首は初めて前を向いたという記述がある(「軍鑑」「理慶尼記」)。信長が勝頼の首に罵詈雑言を浴びせた逸話は、近世の軍記物に数多い。
ところが「三河物語」は「勝頼御親子之首級を信長之御目にかけけれバ、信長御覧じて、日本に隠れなき弓取なれ共、運が尽きさせ給ひて、かくならせ給ふ物かな」と述べたと記録しており、ぞんざいな扱いをした様子は見受けられず、勝頼の不運に同情していたようである。恐らく、大久保忠教が伝聞したものが実態に近いのだろう(平山優著「武田氏滅亡」より引用)”。