某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

武田信玄公灰塚供養塔(長岳寺)

2019年05月15日 09時25分00秒 | 史跡めぐり


長岳寺。
     
NHKで放映の武田信玄公と当寺の関係、信玄公の死亡された所について各地に伝えられていますが、この寺は信玄公が野田城からの帰途、この駒場の山中で亡くなられましたので、当長岳寺に秘かにかつぎこまれ、こっそりと火葬にされたお寺です。境内に信玄公の灰塚供養の十三重の塔と遺品が残されています(案内板より)。
     


長岳寺は弘仁年間に伝教大師により創建、本尊は定朝作十一面観世音、また木槌山観照寺の本尊薬師如来が祀られ、縁結びの仏として最近は厄除けのひょうたんを授けています。
また武田信玄公を火葬にした寺として由緒ある寺です。武田信玄公は野田城攻め最中に肺患を得、病が重くなり三河から信州伊那を経ての帰途、元亀4年、天正元年4月12日信州伊那の郷、駒場の山中で信玄公53歳で落命されました。
当山には信玄公の義理の兄弟、下條家出身「六世裕教法印」が住職を務めていた関係で信玄公の遺骸は当山に運び入れられ、兵は影武者をたて、信玄公は生きているとし、古府中に帰る。そのあと当山を守っていた馬場美濃守、原備前、高坂弾正、下條伊豆守等の武将により、お骨にしてこっそり持ち帰られました。昭和49年4月、信玄公400年祭の折、その火葬塚より火葬灰を当山境内に移し、信玄公の供養塔として山梨県の由緒の者等及び当地の有志により、十三重塔が建立されました。
尚、昭和6年5月29日に長野県佐久郡岩村田町(現在佐久市)の古刹龍雲寺の境内にある古墓から貴重な物が発見されましたが、その中の一つの袈裟に環がありその環には、大檀越信玄公、元亀4年、天正元年4月12日於駒場卒戦時為舎利納と文字が書き込まれていたものが出てきました。当山には信玄公が使用していた兜の前立て二種類があり、鍬形台三輪菊唐草透彫三鈷柄付と大日の丸練革製朱塗が保存されています(パンフレットより)。





ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。