「首洗池」
「首洗池」は、別名「太刀洗池」と呼ばれ、織田、徳川軍の諸将が敵の首や使用した刀や武具などの血を洗い落としたところと言われている。
「松平伊忠戦死之地」
松平伊忠(1537~1575)とは・・・
三河出身の徳川氏譜代の家臣。深溝松平家3代目。
三河一向一揆鎮圧、掛川城攻略戦、姉川の戦い、三方原の戦いなど主要な合戦へはいずれも参戦し、家康初期の功臣として活躍した。
1575年5月の設楽原の戦いでは、同月20日の夜、織田信長の命を受けた酒井忠次が率いる別働隊の一翼を担い、夜陰に乗じて鳶ヶ巣山の攻略に向かった。翌21日早朝、敵将・武田信実(信玄の弟)を討ち取るという功績を挙げる。
しかし、引き続き行われた残敵追撃戦で前線に出過ぎたために、退却する武田軍の小山田昌行から猛反撃を受けて戦死した。享年39歳。
「馬場美濃守信房戦死の地」
詰殿戦場に石碑や案内板があり、ここに車が停められます。
そこから、北へ80mほど歩くと、左手の山へ入っていく道があります。
「橋詰殿戦場」とは、設楽原合戦で総崩れとなった武田軍が、武田勝頼を無事に甲州へ帰還させるため、馬場信房や笠井満秀などが殿となって織田・徳川軍と最後の戦いを繰り広げた場所です。
馬場美濃守信房(1514?1515~1575)とは・・・
初名は「教来石景政」。武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、設楽原の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。
設楽原での織田・徳川連合軍との決戦では武田軍右翼の中核に配されるが、味方は敵の防御陣を突破できずにいた。次第に崩れだした武田軍は戦死者が増え、戦線は崩壊。大敗を喫した勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた自身は反転して追撃の織田軍と戦い、戦死した。
「信長公記」に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期だった。享年61。
寒狭川沿いの出沢の「緒巻桜」 の下で、岡三郎左衛門に自ら首を差し出し戦死した。
余談ながら、「馬場美濃守信房戦死の地」案内板近くにある、この掲示物が怖いんですが・・・。
「馬場美濃守信房の墓・馬場信春殿戦忠死の碑」
設楽原の戦いに敗れて退去する武田勝頼の殿を守り抜いて戦死した馬場美濃守信房の首を埋めたところと伝わる。
左が馬場信春殿戦忠死の碑。右が馬場美濃守信房の墓。
「山本信供戦死之地」
山本勘蔵信供(1556~1575)は・・・
山本勘介晴幸の子として甲斐国高根で生まれる。
設楽原の戦いでは武田勝頼に従って出陣し高坂昌澄らと共に長篠城監視隊として寒挟川沿いに布陣していたが、武田軍の総崩れともに勝楽寺前で20歳の若さで討死。
山本信供の墓は、川路地区と、黒田地区にある。
「織田信長戦地本陣跡」
1575年5月、織田信長は設楽原の戦いに備えて上平井の極楽寺で軍議を開き、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練ったあと、ここ茶臼山に本陣を移し、すぐ北側に位置する牛倉の「はたばこ」に羽柴秀吉を、最前線の弾正山に徳川家康を配置して総指揮をとった。
本陣跡の広場には、信長の歌碑がある。「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」
今までは茶臼山公園の方から登って来たが、新東名高速道路ができてからは長篠設楽原パーキングエリアから行けるよう道が整備されている。
確かにアクセスは便利になりましたが、茶臼山の山肌は削られ、パーキングエリアを利用するお客さんで溢れというのは、どうなんでしょう・・・。
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