某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

設楽原古戦場②

2018年05月13日 00時26分50秒 | 史跡めぐり


「首洗池」
「首洗池」は、別名「太刀洗池」と呼ばれ、織田、徳川軍の諸将が敵の首や使用した刀や武具などの血を洗い落としたところと言われている。









「松平伊忠戦死之地」
松平伊忠(1537~1575)とは・・・
三河出身の徳川氏譜代の家臣。深溝松平家3代目。
三河一向一揆鎮圧、掛川城攻略戦、姉川の戦い、三方原の戦いなど主要な合戦へはいずれも参戦し、家康初期の功臣として活躍した。
1575年5月の設楽原の戦いでは、同月20日の夜、織田信長の命を受けた酒井忠次が率いる別働隊の一翼を担い、夜陰に乗じて鳶ヶ巣山の攻略に向かった。翌21日早朝、敵将・武田信実(信玄の弟)を討ち取るという功績を挙げる。
しかし、引き続き行われた残敵追撃戦で前線に出過ぎたために、退却する武田軍の小山田昌行から猛反撃を受けて戦死した。享年39歳。











「馬場美濃守信房戦死の地」
詰殿戦場に石碑や案内板があり、ここに車が停められます。
そこから、北へ80mほど歩くと、左手の山へ入っていく道があります。

「橋詰殿戦場」とは、設楽原合戦で総崩れとなった武田軍が、武田勝頼を無事に甲州へ帰還させるため、馬場信房や笠井満秀などが殿となって織田・徳川軍と最後の戦いを繰り広げた場所です。



馬場美濃守信房(1514?1515~1575)とは・・・


初名は「教来石景政」。武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、設楽原の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。
設楽原での織田・徳川連合軍との決戦では武田軍右翼の中核に配されるが、味方は敵の防御陣を突破できずにいた。次第に崩れだした武田軍は戦死者が増え、戦線は崩壊。大敗を喫した勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた自身は反転して追撃の織田軍と戦い、戦死した。
「信長公記」に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期だった。享年61。









寒狭川沿いの出沢の「緒巻桜」 の下で、岡三郎左衛門に自ら首を差し出し戦死した。






余談ながら、「馬場美濃守信房戦死の地」案内板近くにある、この掲示物が怖いんですが・・・。





 

「馬場美濃守信房の墓・馬場信春殿戦忠死の碑」
設楽原の戦いに敗れて退去する武田勝頼の殿を守り抜いて戦死した馬場美濃守信房の首を埋めたところと伝わる。



左が馬場信春殿戦忠死の碑。右が馬場美濃守信房の墓。







「山本信供戦死之地」
山本勘蔵信供(1556~1575)は・・・
山本勘介晴幸の子として甲斐国高根で生まれる。
設楽原の戦いでは武田勝頼に従って出陣し高坂昌澄らと共に長篠城監視隊として寒挟川沿いに布陣していたが、武田軍の総崩れともに勝楽寺前で20歳の若さで討死。
山本信供の墓は、川路地区と、黒田地区にある。













「織田信長戦地本陣跡」
1575年5月、織田信長は設楽原の戦いに備えて上平井の極楽寺で軍議を開き、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練ったあと、ここ茶臼山に本陣を移し、すぐ北側に位置する牛倉の「はたばこ」に羽柴秀吉を、最前線の弾正山に徳川家康を配置して総指揮をとった。
本陣跡の広場には、信長の歌碑がある。「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」 
今までは茶臼山公園の方から登って来たが、新東名高速道路ができてからは長篠設楽原パーキングエリアから行けるよう道が整備されている。









確かにアクセスは便利になりましたが、茶臼山の山肌は削られ、パーキングエリアを利用するお客さんで溢れというのは、どうなんでしょう・・・。

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設楽原古戦場①

2018年05月12日 22時43分30秒 | 史跡めぐり



「設楽原古戦場」に行って来ました。
       
設楽原古戦場は、1575年(天正3年)5月21日、三河国長篠城をめぐって、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で行われた戦いの主戦場となった場所であり、数多くの武田家臣が戦死し、武田家凋落の始まりとなった戦いです。
        
古戦場には、武田家重臣の墓や戦死地の石碑、織田軍が築いた馬防柵(復元)などが広範囲に渡って点在しています。
もう数え切れないほど訪問した設楽原古戦場ですが、今回は初めての場所を中心に歩いてみました。


まず、連吾川周辺の激戦地に復元された馬防柵です。





天正3年(1575)「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵を再現したものである。連吾川に向かって右側の下手に徳川軍のものを、左側の上手に織田軍のものを、区別して構築してみた。両者の様式には、攻口(出入り口)の設け方に違いが認められる。
当時、天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め、その内側にあって鉄砲でねらい撃ちにするために造られたもので、延長2粁余(2km余)に及んでいた。決戦の正面となったこの連吾川沿いに三重の柵を構え、背後のの弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、さらに一重の柵を設けて万一に備えていた。
織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、逆に武田軍にとっては、勝利を阻む痛恨のしがらみとなったのである(案内板より)。




馬防柵左手には「土屋昌次戦死之地」



土屋昌次(1545?~1582)とは・・・


武田晴信の守役である金丸虎義の次男。正しくは「土屋昌続」。
「甲陽軍艦」によれば、信玄側近衆として三枝昌貞、曽根昌世、真田昌幸、甘利昌忠、長坂昌国らと共に「奥近習六人衆」の一人として信玄の傍近くに仕えた。
第四次川中島の戦いでは信玄の本陣を守り切り、それが大きく評価され甲斐の名門である土屋姓への改姓が許され、土屋氏を名乗る。信玄亡き後は家督を継いだ勝頼に仕える。
設楽原の戦いでは、織田軍が作った馬防柵からの攻撃で武田軍は次々と倒され、土屋昌次も敵の三重柵の二重まで突破したところで一斉射撃を受け戦死したという。





「柳田前激戦地」
突撃する武田軍と迎え撃つ織田徳川鉄砲隊との激戦があった場所で、連吾川を渡る橋の近くに「石碑」と「いろはかるた」があります。合戦当時、この付近は水田や泥沼地になっており、武田軍の騎馬は足を取られて思うように動けなかったようです。







「甘利郷左衛門尉信康の碑」
甘利信康(?~1582)とは・・・
甘利虎泰の子として誕生。武田信玄、勝頼2代に仕えた。
1567年に兄・信忠(昌忠)が死去。信忠の子・信頼が幼少であったため名代を務めていたとも考えられている。
「甲陽軍鑑」では左翼の山県昌景隊に「あまり衆」が属していたと記される。





丸山彭氏著「長篠合戦余話」に収録された地元の伝承によると、信康は柳田前激戦地を担当していた。武田軍が敗れ撤退を始めると、信康は織田・徳川方の防御陣地づくりに協力した柳田地区の住民を呪いつつ、庄屋の屋敷門扉に寄りかかり、立ったまま切腹したという。





「甘利郷左衛門尉信康の碑」から北へ750mほど歩くと、「丸山」という小さな独立丘があります。
この丸山には、当初、織田方の佐久間信盛が6000の兵で守備していた。
馬場美濃守信房は700の手勢を二手に分けて攻撃し、佐久間隊を落として丸山を占拠した。











丸山から東へ900mほど行った田んぼの中にある「甲田」
「長篠合戦余話」によると、設楽原合戦で武田方の敗色が濃くなり、側近や馬場信房らに退却を勧められ、とうとう武田勝頼も退却を決意し、武田家重代の諏訪法性の甲を脱いで初鹿野伝右衛門に持たせた。
伝右衛門は敵の追撃を食い止めながら退いたが、暑い日だったので疲れてしまい誤って甲を田圃に落としてしまった。これを見ていた小山田弥助は御家重代の甲でありもったいないと言ってこれを拾って持ち帰った。
このことから甲田の地名が起こったとのことです。









「真田源太左衛門尉信綱之碑・真田兵部丞昌輝之碑」
1574年5月に父真田幸隆の死去に伴い真田家の家督を継いだ信綱は、その翌年、設楽原の戦いに真田の兵を率いて参戦した。三尺三寸の陣太刀・青江貞を振って奮戦し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に戦死した。享年信綱39歳、昌輝33歳。
       
信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣の北沢最蔵と白川勘解由が甲斐に持ち帰ったといい、この「血染めの陣羽織」は上田市の信綱寺に収蔵されている。





合戦当日に信綱が着用していたという鎧。









共に奮戦した禰津甚平是広、常田図書春清、鎌原筑前守之綱の墓。



真田源太左衛門尉信綱之碑・真田兵部丞昌輝之碑。




設楽原古戦場②」へ続きます。

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榊原康政生誕之地

2018年05月06日 14時06分15秒 | 史跡めぐり


「榊原康政生誕之地」に行って来ました。

榊原康政(1548~1606)・・・
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。
徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人)、徳川三傑に数えられ、家康覇業の功臣。

    

土臭く愚直な人物が多いとされる三河武士の中にあって弁舌に長け、大樹寺で学んだ能筆家としても知られる。
性格的に余計な一言が多かったため「減らず口の小平太」と呼ばれ、「家康に過ぎたるものが二つあり、平八の槍と小平太の口」という落書も読まれている。
    
尚、康政生誕地は、ここから300mほど離れた天道院にも建てられており、誕生した場所ははっきりしない。

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三方原古戦場

2018年05月04日 19時43分50秒 | 史跡めぐり




上洛を目指した武田信玄は元亀3年(1572年)10月3日に2万5000の軍勢を率いて甲府を出発、同年12月22日には浜松城の北側に広がる三方原に進出してきた。徳川家康は家臣の反対を押し切って1万1000(徳川軍8000と織田信長の援軍3000)の軍勢を率いて浜松城を出発、武田信玄の軍勢に迫った。
徳川軍はいつでも攻撃できるような鶴翼の形をとり、家康の陣形を確認した武田信玄は魚鱗の陣形を取った。
戦いは日暮れに近いころ、ここ三方原の根松付近で開始されたが、徳川軍は武田軍の前に惨敗、総崩れとなって浜松城に退却した。(案内板より)
   
なお、正確には三方原の戦いの主戦場はわかっておらず、小豆餅付近説、祝田坂上説、大谷東坂上説等がある。


「元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖」(歌川国綱画)

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