某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

特別展ミイラ 「永遠の命」を求めて

2019年12月12日 17時30分00秒 | 史跡めぐり


国立科学博物館で開催中の“特別展ミイラ「永遠の命を求めて」”に行って来ました。

ミイラには多くの人々を惹きつける力があり、その根源にあるものは、遠い昔に亡くなった人の「姿」がそのまま残っていることに対する驚きではないでしょうか。
自然にミイラとなったものから人工的につくられたミイラまで、南米、エジプト、ヨーロッパ、オセアニア、日本のミイラが一堂に介することで、それぞれの背景にある死生観や文化の違いを知ることができます。
さらに、昨今の科学技術の進歩によって、ミイラから引き出すことのできる情報も飛躍的に多くなり、学問的な関心も高まっています。本展は、最新科学によって明らかになったミイラの実像、ミイラの文化的・学術的な価値、そして人類がもつ多様な死生観と身体観を紹介するこれまでにない“ミイラを科学する”展覧会です・・・という企画展。



今回のお目当ては、「弘智法印 宥貞(こうちほういん ゆうてい)」の即身仏。

弘智法印 宥貞とは・・・
1591年に出雲国、現在の島根県に生まれ、幼名を貞作と言いました。幼い頃より仏教に惹かれ、元服すると出家して仏道へ進みたいと両親に懇願します。その意志は、反対を押し切るために断食をするほど強いものでした。
1614年、23歳で讃岐国、現在の香川県の松尾寺の住職宥昌和尚ものとで出家し、宥貞と改名。仏門修行に励みますが、27歳の時、師匠である宥昌和尚が亡くなると、ひとり諸国行脚へと旅立ちます。陸奥国を巡って、出羽三山のひとつ、湯殿山に立ち寄った際には、衆生救済のための捨身成仏の風習に触れ、生涯にわたり強い影響を受けたと考えられています。
その後、高野山金剛三昧院にて真言密教を修学して小僧都となり、さらに江戸深川の永代寺の住職となります。1683年に再び旅に出て、磐城の国、現在の福島県いわき市に入り、赤井岳常福寺の住職、棚倉町観音寺の住職を経て大草堀川の観音堂に移り住みます。その23年後、最後の信仰の地となった浅川町で小貫東永山観音寺の住職となり、村人のために加持祈祷を行う日々を過ごしますが、この時期、悪病が流行して多くの村人が苦しんでおりました。そこで、宥貞は、1683年12月8日、弟子の宥林に寺を継がせ、村人を集めて薬師如来十二大願の説法を行った後、自らを悟り入定。

「我将に三七、二十一日に入滅するなり」と告げ、こう言い残しました。
「我身を留めて薬師如来たらん」

この言葉を残し1683年12月23日に92年の生涯を閉じたと伝えられています。
全国に即身仏は現在20数体ありますが、弘智法印 宥貞のように疫病治癒祈願という人々のために薬師入定した例は、国内では類がないと言われています(浅川町のホームページより)。


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