某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

浮野古戦場

2020年02月15日 14時00分00秒 | 史跡めぐり


浮野古戦場。
    
永禄元年五月二十八日 二千余騎をひきいた織田信長は 岩倉城主織田伊勢守信安を攻撃のため浮野へ陣を進めた
この日は小競合いの瀬踏み程度に終ったが つづいて七月十二日犬山城主織田十郎左衛門が千騎ばかりを従えて馳せ加わったので総勢三千余騎が浮野を中心に争い 死闘二刻に及び首級九百余を討ち取った これを浮野合戦と呼び この首級を埋めた地(通称浮剕首塚)に建碑した(碑文より)。
  



 
「信長公記」によると、
    
「浮野合戦の事」
一、七月十二日、清洲より岩倉へは三十町に過ぐべからず。此の表、節所たるに依つて、三里上、岩倉の後へまはり、足場の能き方より浮野と云ふ所に御人数備へられ、足軽かけられ候へぱ、三千計りうきうきと罷り出で、相支へ候。
一、七月十二日午の剋、辰巳へ向つて切りかゝり、数剋相戦ひ追崩し、爰に浅野と云ふ村に、林弥七郎と申す者、隠れなき弓達者の仁体なり。弓を持ち罷り退き候ところへ、橋本一巴、鉄炮の名仁、渡し合ひ、連々の知音たるに依つて、林弥七郎、一巴に詞むかけ候。「たすけまじき」と、申され候。「心得候」と申し候て、あいかの四寸計りこれある根をしすけたる矢をはめて、立ちかへり候て、脇の下へふかぶかと射立て候。もとより一巴もニツ玉をこみ入れたるつゝをさしあてて、はなし候へぱ、倒れ臥しけり。然るところを、信長の御小姓衆・佐脇藤八、走り懸かり、林が頸をうたんとするところを、居ながら大刀を抜き持ち、佐脇藤八が左の肘を小手くはへに打ち落す。かゝり向つて、終に頸を取る。林弥七郎、弓と太刀との働き比類なき仕立なり。
 さて、其の日、清洲へ御人数打ち納れられ、翌日、頸御実検。究竟の侍頸かず千弐百五十余りあり。




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