某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

武田勝頼首検分の処

2019年05月15日 08時55分30秒 | 史跡めぐり
 
武田勝頼首検分の処。
 
天正10年春3月14日織田信長 光秀を従え此の地に出陣
武田勝頼・信勝父子の首を検分する(石碑より)。
 
 
「信長公記」によると勝頼、信勝親子の首級は滝川左近から織田信忠へ渡り、信忠は関可平次、桑原助六に持たせて信長に届けた。
3月14日、信長は浪合で勝頼父子の首実検をし、飯田に晒し、のち京都に送って獄門にかけたという。
 
 
 
“信長が、勝頼父子の首級と対面した時の模様については、諸説ある。信長は、信忠とともに勝頼の首に向かって雑言を吐いたといい、それを嫌がって首は面を背けた。これをみた信長・信忠父子は、今度心変わりをした家臣たちをみな滅ぼしてやろうというと、首は初めて前を向いたという記述がある(「軍鑑」「理慶尼記」)。信長が勝頼の首に罵詈雑言を浴びせた逸話は、近世の軍記物に数多い。
ところが「三河物語」は「勝頼御親子之首級を信長之御目にかけけれバ、信長御覧じて、日本に隠れなき弓取なれ共、運が尽きさせ給ひて、かくならせ給ふ物かな」と述べたと記録しており、ぞんざいな扱いをした様子は見受けられず、勝頼の不運に同情していたようである。恐らく、大久保忠教が伝聞したものが実態に近いのだろう(平山優著「武田氏滅亡」より引用)”。
 

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