某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

賤ヶ岳合戦と七本槍

2018年10月28日 19時15分00秒 | 史跡めぐり



長浜城歴史博物館で開催中の企画展「賤ヶ岳合戦と七本槍」に行って来ました。

賤ヶ岳合戦は天正11年(1583)4月21日から22日にかけて、長浜市木之本町の賤ヶ岳から余呉町の柳ヶ瀬までの地域を中心に繰り広げられた戦いです。織田信長の死後、後継者をめぐって羽柴秀吉と柴田勝家が争い、秀吉の勝利に貢献した秀吉子飼いの小姓たちが後の世に言う「賤ヶ岳七本槍」でした。
若かりし日に秀吉のもと、一時期をともに過ごした同世代の若者たちが、その後どのような道を歩んでいったのか。賤ヶ岳合戦を振り返るとともに、福島正則、脇坂安治、加藤嘉明、加藤清正、平野長泰、片桐且元、糟谷武則ら7人の武将たちの足跡をたどります・・・という展示会。




脇坂安治が賤ヶ岳合戦で使用したと伝えられる「十文字槍」、同じく脇坂安治所用と伝わる「縹糸威布袋菖蒲蒔絵仏胴」、そして、あまりに簡略化された「紙本著色賤ヶ岳合戦屏風」など57点の資料を展示。

やはり、福島正則や加藤清正などの有名どころは資料も多い。
そして、平野長泰や糟谷武則など、その後歴史に名前の埋もれた御仁の資料は少ない。
これが世の常ですね・・・。



会期は11月25日(日)まで。

少し足を延ばせば、姉川古戦場、小谷城など、見どころ満載です。

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高天神城址

2018年10月25日 21時45分00秒 | 史跡めぐり


静岡県掛川市の「高天神城址」に行って来ました。
武田、徳川両家が鎬を削った舞台であり、「高天神を制するものは遠州を征する」と言われた遠江における重要拠点。
標高132メートルの鶴翁山の地形を巧みに活かした高天神城は「難攻不落の名城」と呼ばれていたが、家康の兵糧攻めに遭い落城した。





【高天神城の略歴】
元亀2年3月
武田信玄2万5千騎を率いて来攻、城門を襲ったが難攻不落と見て包囲を解いて退却した。
天正2年5月
武田勝頼2万騎を以って来攻包囲猛攻、6月18日武田勢内藤昌豊、山県昌景の精兵城門に突入、城兵必死の防戦、大石久未、川田真勝以下城兵死傷75名、武田勢死傷253名に及んだ。
天正8年10月
徳川家康1万騎を以って当城包囲猛攻、23日本田忠勝城門に迫ったが部下袴田源左ヱ門城兵と戦い討死した。
天正9年3月22日
夜半城兵総突出に際し、徳川方武将松平康忠城門を破って突入し、追手門櫓門を焼き落した。
(看板資料より)




搦手門址。



城の裏門に当り、城南から出て来る者を搦め捕る意味からこの名がある。
元亀から天正2年にかけて、渡辺金太照が大将として城兵250余騎を率いて守備した所である。
(看板資料より)




大河内幽閉の石風呂(石窟)



天正2年6月
武田勝頼来政包囲、28日激戦酣となった。城主小笠原長忠遂に叶わず武田方に降り城兵東西に離散退去したが軍監大河内源三郎政局独り留まり勝頼の命に服さず勝頼怒って政局を幽閉した。武田方城番横田尹松政局の義に感じ密かに厚く持て成した。
天正9年3月
徳川家康城奪還23日入城し、城南検視の際牢内の政局を救出した。足掛8ヶ年、節を全うしたが歩行困難であった。家康過分の恩賞を与え労をねぎらい津島の温泉にて療養せしめた。政局無為にして在牢是武士道の穢れと思い剃髪して皆空と称した。後年家康に召されて長久手に戦い討死した。
(看板資料より)

土嚢が詰め込まれているのは、東日本大震災の爪痕だそうです。



石窟から臨む景色。
大河内政局も見たのかしら・・・。




本丸跡。
高天神城北駐車場から、徒歩で約20分ほどです。



元亀2年3月
武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠2千騎を以って籠城、本丸には軍監大河内政局、武者奉行公渥美勝吉以下5百騎と遊軍170騎が詰めた。
天正2年5月
武田勝頼当城包囲猛攻6月28日激戦、7月2日休戦、9日開城。城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去。武田方武将横田尹松城番として1千騎を率いて入城した。
天正7年8月
城兵交代、武田方猛将岡部丹波守真幸(元信)城代として1千騎を率いて入城した。
天正9年3月
徳川家康来攻包囲10ヶ月、城中飢に瀕し22日夜半大将岡部真幸、軍監江間直盛以下残兵8百、二手に分かれて城外に総突し檄斗全滅した。23日家康検視、武者奉行孕石元秦誅せられた。城郭焼滅廃成となる。
(看板資料より)




甚五郎抜け道。



天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より西方約千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った。この難所を別名「犬戻り猿戻り」とも言う。
(看板資料より)

横田甚五郎尹松はその後、天正10年に家康と織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡すると、家康の家臣となり、使番・軍監に任じられた。
江戸幕府開幕後は旗本として5000石を領し、大身となり、大坂の陣に参陣した。寛永12年(1635年)7月5日に死去。享年82。




堀切跡。
戦いの城であった遺構が数多く残されているところも、高天神城の見どころの一つです。




二の丸 堂の尾曲輪址。





天正2年5月、武田勝頼来攻、包囲、6月28日猛撃、二の丸主将本間八郎氏清、部下300騎を率いて此所の物見櫓に上り、城兵を指揮した。同日卯の刻(朝6時)、武田方穴山梅雪の部下西島七郎右ヱ門、朝日に輝く氏清の武装を狙い、鉄砲を撃った。氏清、首の近くを撃たれ、本丸に運ばれ介抱を受けるも10時、行年28歳を以って絶命した。弟、丸尾修理亮義清兄に代り櫓にて指揮中、同日午の刻、狙撃により胸部を撃たれ即死した。行年26歳であった。墓碑は後裔本間惣兵衛が元文2(1737)年に建てたものである。
(看板資料より)




「信長公記」
高天神城干殺し歴々討死の事
遠江国高天神城では籠城していた兵たちの過半が餓死に及んでいた。かろうじて生き残った兵は3月25日亥刻に柵木を破って討って出てきたが、徳川家康勢はこれを迎え撃って各所で戦闘し、敵兵数多を討ち取った。

その首数は以下のごとくであった。
首数百三十八、鈴木喜三郎・鈴木越中守討ち取る。十五、水野国松勝成。十八、本多作左衛門重次。七、内藤三左衛門。六、菅沼次郎右衛門。五、三宅宗右衛門。二十一、本多彦次郎。七、戸田三郎左衛門。五、本多庄左衛門。四十二、酒井忠次。十六、石川長門守。百七十七、大須賀五郎左衛門康高。四十、石川伯耆守数正。十、松平上野守。二十二、本多平八郎忠勝。六、上村庄右衛門。六十四、大久保七郎右衛門忠世。四十一、榊原小平太康政。十九、鳥居彦右衛門元忠。十三、松平督。一、松平玄蕃允。一、久野三郎左衛門。一、牧野菅八郎。一、岩瀬清介。二、近藤平右衛門。

総数六百八十八にのぼった。このうち惣頭の首は、
駿河先方衆
岡部丹波守・三浦右近・森川備前守・朶石和泉守・朝比奈弥六郎・進藤与兵衛・由比可兵衛・由比藤大夫・岡部帯刀・松尾若狭守・名郷源太・武藤刑部丞・六笠彦三郎・神応但馬守・安西平右衛門・安西八郎兵衛・三浦雅楽助
栗田氏の主立った者及び信濃衆
栗田刑部丞・栗田彦兵衛・同弟二人、勝俣主税助・櫛木庄左衛門・水嶋某・山上備後守・利根川雅楽助
大戸氏家老
大戸丹後守・浦野右衛門・江戸右馬丞
横田氏家老
土橋五郎兵衛尉・福嶋木目助
与田能登守家老
与田美濃守・与田木工左衛門・与田部兵衛・大子原・川三蔵・江戸力助

以上であった。武田勝頼は徳川・織田の武威を恐れるあまり、高天神で甲斐・信濃・駿河三ヶ国の歴々衆が数をも知れず干殺しにされてゆくのを眼前にしながら後詰もせず、天下の面目を失った。
この戦果は信長公の御威光あってのものではあったが、同時に家康殿の武略の成果でもあった。


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信長・秀吉・家康と美濃池田家-大御乳・池田恒興・輝政の戦い-②

2018年10月24日 18時30分00秒 | 史跡めぐり


岐阜県博物館で開催中の特別展「信長・秀吉・家康と美濃池田家-大御乳・池田恒興・輝政の戦い-」に行って来ました。
会期中、2回目の訪問。
1回目はこちら→【2018年09月15日
  


今回のお目当は、「紙本金地著色関ケ原合戦図」【左隻】



1600年~1612年頃に制作されたと言われ、その絵師は土佐光吉、狩野光信とも言われている。
武者姿や画一的な人物の動きなど、決して上手いとは言えない合戦図ですが、徳川家康が作成に直接関わったとも言われ、歴史的な価値は十分。本物の持つ迫力に、ただただ圧倒されます。


(岐阜県博物館のTwitterより借用)

そして、今回も、長久手の戦いで、森長可が戦死した際に着用していたという「黒糸素懸威伊予札丸胴(首なし胴)」は衝撃的!
    
会期は11月11日(日)まで。


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DEEP PURPLE/広島上野学園ホール公演(2018年10月20日)

2018年10月20日 23時45分00秒 | LIVE


10月15日(月)、DEEP PURPLE、「The Long Goodbye JAPAN TOUR 2018」
広島上野学園ホール公演に行って来ました。
   
本ツアー2回目。
そして、恐らく最後のDEEP PURPLE。
「一瞬たりとも見逃すまい」
「全部の光景を目に焼き付ける」
そんな気概を持ってのライヴ参戦。
   


ちなみに本日の会場。
昔々、「広島郵便貯金ホール」と呼ばれていた頃、BLACKMORE'S NIGHTの来日公演(1997年11月6日)を見にきたのよね。
21年も前のことなのに、会場の横を流れる川、会館の外装、そして、終演後、道に迷い、タクシーも捕まえられず、半べそで広島市内を彷徨ったこと・・・それらは案外覚えているもの。
   

              
本日のセットリスト・・・
01.Highway Star
02.Pictures Of Home
03.Bloodsucker
04.Strange Kind Of Woman
05.Sometimes I Feel Like Screaming
06.Uncommon Man
07.Lazy
08.The Surprising
09.Birds of Prey
10.Time for Bedlam
11.Keyboard Solo
12.Perfect Strangers
13.Space Trukin’
14.Smoke On The Water
<アンコール>
15.Hush
16.Black Night
      
全16曲、1時間40分の公演でした。
       


名古屋では、恐ろしいくらい声が出ていないギランさんでしたが、今日はほどほどに出ており、一安心。
とは申せ、73歳の歌い手に、20代の頃の高音スクリームを再現せよとは酷な話。
     


一方、楽器を演奏する他のメンバーは、ほぼ遜色なし。
特にイアン・ペイスの素晴らしさは白眉。
心地よいリズム、絶妙なタムさばき。楽曲を盛り上げるフィルインのタイミング・・・「たまらない!」と思った瞬間が何度あったことか。

今日は余韻に浸って過ごそう・・・。
   


さてさて、この日は日帰り。
タクシーで広島駅へと考えていましたが、タクシーが見つからない!
とりあえず駅近くまで歩けば、何とかなる。
・・・結局、何ともなりませんでした。
21年前の再現。そして、全然成長していない自分に情けなくなった・・・。


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広島

2018年10月20日 14時30分00秒 | 日記


原爆ドーム。

昭和20年8月6日 史上はじめての原子爆弾によって破壊された旧広島県産業奨励館の残骸である
爆弾はこの建物のほぼ直上約600メートルの空中で爆発した
その1個の爆弾によって20万をこえる人々の生命が失われ 半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃墟と化した
この悲痛な事実を後世に伝え人類の戒めとするため 国の内外の平和を願う多数の人々の寄付によって補強工事を施しこれを永久に保存する
昭和42年8月6日  広島市



いつ来ても、そのインパクトたるや・・・



10ヶ月ぶりに、ニャンコともご対面。





続いて、広島城へ。
原爆ドームから徒歩で約20分。



1591年に、毛利輝元が入城。
江戸時代初頭に入城した福島正則の増築以降に、城域となった外堀までの約90万平方メートルの範囲のうち、現在の史跡としての広島城は広島市中央公園内の内堀を含む本丸跡と二の丸跡の範囲で、広さ約12万㎡と三の丸跡の一部が残る。
大坂城や岡山城らと共に初期近世城郭の代表的なもので、また名古屋城、岡山城と共に日本三大平城に数えられる。日本100名城の一つに選定されている。

江戸時代では西日本有数の所領となった広島藩42万6000石の太守浅野家12代の居城となり、江戸時代中期に書かれた『広島藩御覚書帖』で知るところでは、5重と3重の大小天守群以下、櫓88基が建てられていた。

近代は日清戦争時に、本丸に大本営が置かれるなど軍都広島の中心施設であった。アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下の際には破壊目標地点となり、現存していた天守や櫓、城門が倒壊した。近年の研究で天守は原爆による爆風で吹き飛ばされたのではなく建物の自重により自壊したことが判明している。現在の天守は鉄筋コンクリート構造による外観復元天守である(Wikipediaより)。



今回初めて天守閣に入りました。
お値段は370円。




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DEEP PURPLE/名古屋センチュリーホール公演(2018年10月15日)

2018年10月15日 23時40分00秒 | LIVE


10月15日(月)、DEEP PURPLE、「The Long Goodbye JAPAN TOUR 2018」
名古屋センチュリーホール公演に参戦。
  
来日メンバーは、
Ian Gillan(Vo)・・・73歳
Steve Morse(G)・・・64歳
Roger Glover(B)・・・72歳
Don Airey (Key)・・・70歳
Ian Paice(Dr)・・・70歳
平均年齢69.8歳。
  

      
意味深なツアー・タイトル。
最後とも噂されるワールド・ツアー。
        
 
  
本日のセットリスト・・・
01.Highway Star
02.Pictures Of Home
03.Bloodsucker
04.Strange Kind Of Woman
05.Sometimes I Feel Like Screaming
06.Uncommon Man
07.Lazy
08.The Surprising
09.Birds of Prey
10.Time for Bedlam
11.Keyboard Solo
12.Perfect Strangers
13.Space Trukin’
14.Smoke On The Water
<アンコール>
15.Hush
16.Black Night
全16曲、1時間40分の公演でした。
       




イアン・ギランの声が恐ろしいくらいに出ていない・・・。


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安城ゆかりの大名 家康を支えた三河石川一族

2018年10月12日 15時30分30秒 | 史跡めぐり



安城市歴史博物館で開催中の特別展「安城ゆかりの大名 家康を支えた三河石川一族」に行って来ました。

戦国期、石川一族は真宗門徒の多い西三河の各地に一族を輩出しました。由緒によると蓮如との関係を持って三河に来歴したとあります。一族の惣領家は、小川(市内小川町)に居た石川家でした。16世紀中頃には、惣領の忠成(清兼)が家康の祖父清康・父広忠の重臣となりました。
石川一族の中で特に活躍したのは、家康に仕えた石川数正と石川家成です。数正は忠成の孫にあたり家成は忠成の子で、数正の叔父にあたります。永禄6、7年(1563、64)の三河一向一揆では、石川一族の多くが家康方と一揆方に分かれて争いましたが、数正・家成はともに家康方につきました。
その後、家康の重臣として活躍した家成は掛川城に赴任し、武田氏の滅亡まで、最前線を守備しました。本能寺の変後、家康は領国を拡大し、後に豊臣秀吉と対立します。数正は家康と秀吉の取次でしたが、対立が明確になるに及んで、岡崎城から秀吉の許へ出奔しました。
秀吉の天下統一後、数正と二代三長(康長)は松本城主(長野県松本市)となり、また家成の子康通も関ケ原合戦後、美濃大垣城主(岐阜県大垣市)となり、城の普請や城下町づくり、領国経営にあたりました。
この展示では、門徒武士としての石川一族や、家康を支えた数正・家成とその息子たちが活躍した時代を中心に紹介します・・・という展覧会。



第1章 三河石川一族のはじまり
第2章 数正と家成
第3章 数正出奔
第4章 松本城主石川数正・三長
第5章 大名になった石川家
第6章 その他の一族

6つの物語で構成された約70点の資料を展示。

今回は、「石川数正の出奔!」
この謎に少しでも迫ることができたなら・・・。
そして、近年の研究成果に期待をして出掛けましたが、結局、謎は謎のまま・・・。



石川数正の出奔とは・・・
天正13年(1585年)11月13日、突如として家康の下から出奔し、秀吉の下へ逃亡した。
「三河物語」や「松平記」からは天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのがわかる。
数正が出奔したことは家康を大きく動揺させ、以後、徳川軍は機密漏えいに対応するため三河以来の軍制を武田流に改めることになったともされているが、出奔の理由には諸説あって定かではない。
秀吉との外交関連
・次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。
・秀吉得意の恩賞による篭絡に乗せられたとする説。
・対秀吉強硬派である本多忠勝らが数正が秀吉と内通していると猜疑し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。
松平信康関連
・信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていたという説。
・信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったという説。
その他
・父・康正が家康と敵対して失脚すると、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、数正はその功績にも関わらず父の一件ゆえに傍流に甘んじざるを得なかったからとする説。
・家康と示し合わせ、徳川家の為に犠牲となった形で投降したふりをしたという説。
(ウィキペディアより引用)

生涯の大半を徳川家のために尽くしてきた54歳(?)の重臣が、主家を捨て、裏切り者の汚名を着せられてまで、秀吉になびいた理由は?
本人が語った言葉も、出奔の理由を書いた書状等もなく、ただただ推測するしか術はなし・・・。



会期は11月4日(日)まで。
福井県立歴史博物館所蔵の「姉川合戦図屏風」も展示中(但し、10月15日以降は複製を展示)。

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