静岡県掛川市の「高天神城址」に行って来ました。
武田、徳川両家が鎬を削った舞台であり、「高天神を制するものは遠州を征する」と言われた遠江における重要拠点。
標高132メートルの鶴翁山の地形を巧みに活かした高天神城は「難攻不落の名城」と呼ばれていたが、家康の兵糧攻めに遭い落城した。
【高天神城の略歴】
元亀2年3月
武田信玄2万5千騎を率いて来攻、城門を襲ったが難攻不落と見て包囲を解いて退却した。
天正2年5月
武田勝頼2万騎を以って来攻包囲猛攻、6月18日武田勢内藤昌豊、山県昌景の精兵城門に突入、城兵必死の防戦、大石久未、川田真勝以下城兵死傷75名、武田勢死傷253名に及んだ。
天正8年10月
徳川家康1万騎を以って当城包囲猛攻、23日本田忠勝城門に迫ったが部下袴田源左ヱ門城兵と戦い討死した。
天正9年3月22日
夜半城兵総突出に際し、徳川方武将松平康忠城門を破って突入し、追手門櫓門を焼き落した。
(看板資料より)
搦手門址。
城の裏門に当り、城南から出て来る者を搦め捕る意味からこの名がある。
元亀から天正2年にかけて、渡辺金太照が大将として城兵250余騎を率いて守備した所である。
(看板資料より)
大河内幽閉の石風呂(石窟)
天正2年6月
武田勝頼来政包囲、28日激戦酣となった。城主小笠原長忠遂に叶わず武田方に降り城兵東西に離散退去したが軍監大河内源三郎政局独り留まり勝頼の命に服さず勝頼怒って政局を幽閉した。武田方城番横田尹松政局の義に感じ密かに厚く持て成した。
天正9年3月
徳川家康城奪還23日入城し、城南検視の際牢内の政局を救出した。足掛8ヶ年、節を全うしたが歩行困難であった。家康過分の恩賞を与え労をねぎらい津島の温泉にて療養せしめた。政局無為にして在牢是武士道の穢れと思い剃髪して皆空と称した。後年家康に召されて長久手に戦い討死した。
(看板資料より)
土嚢が詰め込まれているのは、東日本大震災の爪痕だそうです。
石窟から臨む景色。
大河内政局も見たのかしら・・・。
本丸跡。
高天神城北駐車場から、徒歩で約20分ほどです。
元亀2年3月
武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠2千騎を以って籠城、本丸には軍監大河内政局、武者奉行公渥美勝吉以下5百騎と遊軍170騎が詰めた。
天正2年5月
武田勝頼当城包囲猛攻6月28日激戦、7月2日休戦、9日開城。城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去。武田方武将横田尹松城番として1千騎を率いて入城した。
天正7年8月
城兵交代、武田方猛将岡部丹波守真幸(元信)城代として1千騎を率いて入城した。
天正9年3月
徳川家康来攻包囲10ヶ月、城中飢に瀕し22日夜半大将岡部真幸、軍監江間直盛以下残兵8百、二手に分かれて城外に総突し檄斗全滅した。23日家康検視、武者奉行孕石元秦誅せられた。城郭焼滅廃成となる。
(看板資料より)
甚五郎抜け道。
天正9年3月落城の時、23日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より西方約千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った。この難所を別名「犬戻り猿戻り」とも言う。
(看板資料より)
横田甚五郎尹松はその後、天正10年に家康と織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡すると、家康の家臣となり、使番・軍監に任じられた。
江戸幕府開幕後は旗本として5000石を領し、大身となり、大坂の陣に参陣した。寛永12年(1635年)7月5日に死去。享年82。
堀切跡。
戦いの城であった遺構が数多く残されているところも、高天神城の見どころの一つです。
二の丸 堂の尾曲輪址。
天正2年5月、武田勝頼来攻、包囲、6月28日猛撃、二の丸主将本間八郎氏清、部下300騎を率いて此所の物見櫓に上り、城兵を指揮した。同日卯の刻(朝6時)、武田方穴山梅雪の部下西島七郎右ヱ門、朝日に輝く氏清の武装を狙い、鉄砲を撃った。氏清、首の近くを撃たれ、本丸に運ばれ介抱を受けるも10時、行年28歳を以って絶命した。弟、丸尾修理亮義清兄に代り櫓にて指揮中、同日午の刻、狙撃により胸部を撃たれ即死した。行年26歳であった。墓碑は後裔本間惣兵衛が元文2(1737)年に建てたものである。
(看板資料より)
「信長公記」
高天神城干殺し歴々討死の事
遠江国高天神城では籠城していた兵たちの過半が餓死に及んでいた。かろうじて生き残った兵は3月25日亥刻に柵木を破って討って出てきたが、徳川家康勢はこれを迎え撃って各所で戦闘し、敵兵数多を討ち取った。
その首数は以下のごとくであった。
首数百三十八、鈴木喜三郎・鈴木越中守討ち取る。十五、水野国松勝成。十八、本多作左衛門重次。七、内藤三左衛門。六、菅沼次郎右衛門。五、三宅宗右衛門。二十一、本多彦次郎。七、戸田三郎左衛門。五、本多庄左衛門。四十二、酒井忠次。十六、石川長門守。百七十七、大須賀五郎左衛門康高。四十、石川伯耆守数正。十、松平上野守。二十二、本多平八郎忠勝。六、上村庄右衛門。六十四、大久保七郎右衛門忠世。四十一、榊原小平太康政。十九、鳥居彦右衛門元忠。十三、松平督。一、松平玄蕃允。一、久野三郎左衛門。一、牧野菅八郎。一、岩瀬清介。二、近藤平右衛門。
総数六百八十八にのぼった。このうち惣頭の首は、
駿河先方衆
岡部丹波守・三浦右近・森川備前守・朶石和泉守・朝比奈弥六郎・進藤与兵衛・由比可兵衛・由比藤大夫・岡部帯刀・松尾若狭守・名郷源太・武藤刑部丞・六笠彦三郎・神応但馬守・安西平右衛門・安西八郎兵衛・三浦雅楽助
栗田氏の主立った者及び信濃衆
栗田刑部丞・栗田彦兵衛・同弟二人、勝俣主税助・櫛木庄左衛門・水嶋某・山上備後守・利根川雅楽助
大戸氏家老
大戸丹後守・浦野右衛門・江戸右馬丞
横田氏家老
土橋五郎兵衛尉・福嶋木目助
与田能登守家老
与田美濃守・与田木工左衛門・与田部兵衛・大子原・川三蔵・江戸力助
以上であった。武田勝頼は徳川・織田の武威を恐れるあまり、高天神で甲斐・信濃・駿河三ヶ国の歴々衆が数をも知れず干殺しにされてゆくのを眼前にしながら後詰もせず、天下の面目を失った。
この戦果は信長公の御威光あってのものではあったが、同時に家康殿の武略の成果でもあった。
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