某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

キトラ古墳

2018年09月22日 23時15分30秒 | 史跡めぐり


キトラ古墳は、高松塚古墳に続き日本で2番目に発見(1983年)された大陸風の壁画古墳。
   
7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測されている。
この頃の古墳は終末期古墳と呼ばれ、古墳時代前期の巨大な前方後円墳から円墳や方墳へと形が変わり、古墳そのものが小さくなった。

    

名前の由来は、中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説。
古墳の南側の地名「小字北浦」がなまって「キトラ」になったという説。
またキトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎) から「亀虎」と呼ばれていたなどの諸説がある。
   
2000年に国指定史跡に指定され、続いて特別史跡に指定された。
 

   
被葬者は、天武天皇の皇子である高市皇子。
高官であった百済王昌成。
古墳周辺一帯が「阿部山」という地名であることから右大臣の阿部御主人など、色々な人物が想像されている。


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高松塚古墳

2018年09月22日 22時30分45秒 | 史跡めぐり


高松塚古墳。

直径18m、高さ5mの小さな円墳。
昭和47(1972)年3月、石室内に彩色壁画(国宝)が発見され、戦後最大の発見として大きな注目を集めた。



石槨内部には古代中国道教の影響を受け、東壁には青龍と日像、西壁には白虎と月像、北壁には玄武、東西の両脇には人物像、天井には星宿図が描かれている。
被葬者は7~8世紀の皇子とみられる長身の男性とされるが、詳細は分かっていない。


余談ながら、「高松塚古墳の呪い」として、こんな話があります。

・昭和47年5月21日、明日香村の観光課長のM氏が死亡した。
M氏は高松塚古墳の発掘事業を推進してきた一人であったが、3月21日の発掘からちょうど2ケ月後の5月21日に死亡した。M氏の死因は肺がんであったが、その日突然苦しみだして死亡している。21日という日付が関係者を戦慄させた。
・同年8月21日の朝、高松塚古墳の付近に住み、発掘の手伝いをしたKさんも急に苦しみだし、2日後に死亡した。
これまた21日の日付がからんでいるのだ。
・さらに翌年の8月21日、高松塚古墳のある上平田地区の総代MSさんが交通事故で死亡した。
・そして4人目の犠牲者Nさんは高松塚古墳に最初のひと鍬を入れた発掘関係者であった。日頃から悪夢にうなされていたNさんは物置小屋で農薬を飲んで自殺している。
・昭和49年1月4日、壁画を修復するため模写していた画家のWさんが交通事故で亡くなった。
Wさんはちょうど壁画に描かれていた3人の貴婦人を模写している最中であった。


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飛鳥寺

2018年09月22日 22時10分15秒 | 史跡めぐり


飛鳥寺。
596年、蘇我馬子が発願して創建された日本最古の寺院。
法興寺・元興寺ともよばれた。現在は安居院(あんごいん)と呼ばれている。
  

   
創建時の飛鳥寺は、塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し、その外側に回廊をめぐらした伽藍配置だった。
寺域は東西約200m、南北約300mであった。
百済から多くの技術者がよばれ、瓦の製作をはじめ、仏堂や塔の建設に関わった。
瓦を製作した集団は、この後豊浦寺や斑鳩寺の造営にも関わっていく。さらに、これらの技術を身につけた人たちやその弟子たちが全国に広がり、各地の寺院造営に関わるようになった。


蘇我入鹿首塚。
飛鳥寺の境内を西に抜けたところに立つ五輪塔。



飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らに暗殺された蘇我入鹿の首がこの地まで飛んできた(その距離約600m)とも、襲ってきた首を供養するためにそこに埋めたともいわれる。



五輪塔自体は鎌倉時代または南北朝時代の建立と考えられている。
高さ149cmの花崗岩製で、笠の形の火輪の部分が大きく、軒に厚みがあるのが特徴。


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伝飛鳥板蓋宮跡

2018年09月22日 22時00分30秒 | 史跡めぐり


伝飛鳥板蓋宮跡。
大化の改新(乙巳の変)の舞台。
   


蘇我入鹿は、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変によって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害された。
享年は一説に35歳とも。
天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。



ガイドブックによると、「飛鳥訪問の誰しもが訪れる人気の場所」とありましたが、誰もいない・・・。


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石舞台古墳

2018年09月22日 21時45分30秒 | 史跡めぐり


石舞台古墳。

6世紀の築造。
巨石30個を積み上げて造られた石室古墳。その規模は日本最大級を誇る。盛土が失われて、露出した天井石の上面が平らなことにちなんで、石舞台と呼ばれる。
    


墳丘は1辺50mの方墳で、周囲には幅8.4mの濠がめぐる。
石室の長さは19.1m、玄室は高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6m。
石の総重量は推定2,300t、古墳最大の巨岩である天井石は、南側が約77t、北側約64tもあるという。



この巨大古墳が誰の墓なのかは不明であるが、付近に蘇我馬子の庭園があったことから、馬子の墓ではないかとの説が有力である。
また、石室が露出しているのは、馬子の横暴な態度に反発した後世の人が封土を取り除いたためともいわれている。


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天武・持統天皇陵

2018年09月22日 21時30分00秒 | 史跡めぐり


国営飛鳥歴史公園
をあとにして、次に目指すは「天武・持統天皇陵」。

今日の相棒は、飛鳥駅前で借りたレンタサイクル。




天武・持統天皇陵。
壬申の乱(672年)で大友皇子を倒した大海人皇子(即位後に天武天皇)とその皇后である持統天皇の合葬墓 。

     

直径50m、高さ6.36m。
円墳とも八角墳ともとれるこの古墳の石室は八角形で、金銅製の蔵骨器がのっている。
天武天皇は古代律令国家体制の基礎を築き、持統天皇がその志を継いだ。また、持統天皇は天皇として初めて火葬された人物としても知られる。

     
 
本古墳は1235年に盗掘にあい、大部分の副葬品が奪われた。その際、天武天皇の棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。
持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺は奪い去られ、中の遺骨は近くに遺棄されたという。


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平成30年度 国宝高松塚古墳壁画修理作業室の公開(第23回)

2018年09月22日 21時15分00秒 | 史跡めぐり


本日より開催の「国宝高松塚古墳壁画修理作業室の公開」
今年も「何が何でも見なくてはならない」と、電車を乗り継いで、奈良県高市郡明日香村へやって来ました。
   


高松塚古墳は、昭和47年に極採色の壁画が発見され、昭和49年、国宝に指定。
    
壁画は平成19年に墳丘から取り出され、現在、古墳近くの仮設修理施設で保存・修理が進められています。
平成20年からは、毎年この修理作業室を公開し、今年で23回を迎えるという企画展。
    

   
お目当てはなんといっても、「西壁女子群像」
完全予約制。それなりの警備の中で、一グループわずか10分の見学でしたが、1350年前に描かれた本物が目の前に!
何度見ても、とてつもない感動で満たされます。
   


被葬者は、忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子、百済王禅光?
被葬者の人骨はなぜ頭蓋骨が欠けていた(斬首の痕跡はなし)?
江戸時代の頃より、いわくつきの塚とされ、木を伐ると祟りがあるとされ、なぜ忌み嫌われていた?
土地の登記番地が、明日香村上平田444番地ということで、「死番」と読んで誰も手をつけず、国有地のまま放置されていたのはなぜ?
興味は尽きません。
     
 

僕は本当にこういうのが好きなんだよね~。
限りある人生。本当にやりたいことをやらなくっちゃね。


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信長・秀吉・家康と美濃池田家-大御乳・池田恒興・輝政の戦い-

2018年09月15日 17時25分40秒 | 史跡めぐり


岐阜県博物館で開催中の特別展「信長・秀吉・家康と美濃池田家-大御乳・池田恒興・輝政の戦い-」に行って来ました。
  
岐阜の地は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人が統一権力を形成していくなか、重要な役割を果たした。ほぼ10年にわたり岐阜に本拠地をおいた信長。美濃攻略をはじめとして、美濃を基盤に台頭の糸口をつかんだ秀吉。関ヶ原の戦いで政権の帰趨を決した家康とそれぞれの「天下人」にとってこの地は画期となる場所であった。今回美濃に関わりの深い戦国大名池田氏(大おち・恒興・輝政)を軸として全国各地に所在する「天下人」に関する文化財を展示し、織豊政権・徳川政権の形成にこの地が果たした役割を探る・・・という展覧会。
  


大御乳養徳院・池田恒興・輝政に関する画像、文書、武具などとともに、信長・秀吉・家康という三人の天下人との関わりを示す約70点の資料を展示。
戦国好きには、たまらない展示品が盛り沢山。
   
津軽屏風とも称される「紙本金地著色関ケ原合戦図」【右隻】
(→左隻は10月16日~11月11日まで展示)。
そして、長久手の戦いで、森長可が戦死した際に着用していたという「黒糸素懸威伊予札丸胴(首なし胴)」は衝撃的!
    

(岐阜県博物館のTwitterより借用)

会期は11月11日(日)まで。
この特別展以外にも、見どころ満載の岐阜県博物館です。


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