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幸福感とは

2013-12-30 10:37:59 | 日記
最近、気になるのは、幸福とは何かということ。人生80年そこそこで、一体どれだけ幸福感を感じられるだろうか。最も多く生きた人は、最も長生きした人だと、考える節がある。しかし、これには賛成出来ない。生を最も感じた人が最も多く生きた人ではないか。最も多く感じるには、充実感がなくてはならない。苦しみを感じたり、目標に向かって進んでいると意識したり、美を感じたりすることだろう。
今、私を含めてほとんどの人はテレビを見たり、インターネットをしたりして、何か面白いことはないか、と探しているのではないか。我々が言ったりする言葉はマスコミを通じてなぞっているのにすぎない。自分独自の流儀で話したり、言葉を練ったりする人はほんのわずかだろう。みんな退屈を脱したいので目を鱗にして探しているうちに虚しく一日が終わってしまうのではないか。しかし、待って欲しい。変化や発展は何も旅行したり、探検に出かけたり、新流行を追ったりしなくてはならないのだうろか。決してそうではない。本当は驚きの材料は目の前に満ちているはずだ。それを感じられなくなっているのだ。少し、心を鎮め、心の眼を曇らせている習俗や実利的なものから目をそらせれば、回りの自然や人間も、たちまちその様子が変わるはずだ。じっと眺める眼、細かく感じる心さえあれば、一生同じだ所に住んでいようが、退屈しないでいられる。精神世界が豊かであれば、そこでの活動を激しくすれば、退屈しないですむ。
その例としあげよう。視力を失った人で足の不自由な人は一日中ベッドで横たわっている。そのため、耳が活発に働き、窓外の鳥の鳴き声や人々の動きに敏感になるという。自分の内面に心の眼をやり、そこから出る歌や俳句を作る人もかなりいると聞いている。また、死刑囚は多くの短歌や俳句、他の創作活動をしている人もかなりいるらしい。これらの人は自由が制限されているから、できるのではないか。
現代、多くの人が自由から痛い目にあっているのではないか。何でもできるということは、何も一つのことが出来ないのではないか。
今、年末年始で学校、会社も休みだが、家にいるのが退屈で旅行をする人はやスキーに出かける人がいる。しかし、実際行ってみると、電車はなかなか来ないわ、寒さが予想以上で感じる心をなくしたり、ホテルに泊まっても、部屋で家の中でいるのと同様、テレビを見たりして後で、結局は「馬鹿な出費をして無駄な事をした」と帰宅するのではないか。土産物だけを買って、満員電車に乗せられて。ゴールデンウイークもそう。盆休みもそう。そうして、あっという間に一年過ぎ、三年過ぎ、あっという間に人生終わり。自分の人生は何だったのかと考える時間もなく、習俗に従って、死へ確実に進んでいく。

人は自分が世話になった人よりも世話をしてやった人をこころよく思う。だから、親は子供に感謝しなければならない。ペットでもそうだろう。犬をなぜ飼うのかというと、世話をする喜びがあるからだろう。だから、親は子供に対して、「あの頃こんなにしてやったのに」という愚痴をこぼしたり、恩を返せと要求するのは醜い行為ではないか。
今が当たり前と思うのもおかしいのではないか。日々、夜になると、布団に入って寝るが、平和だから寝ることが出来るのだ。もし、戦争中なら、飛行機の爆発音を気にして寝られない。身近で言えば、台風がきたり、雷がなっても熟睡できない。中には若い人でもガンにかかって余命幾ばくもない人がいる。遺伝でなったり、食べ物でなったりいろいろ理由はあるが、なぜ、自分でなく、彼らがなるのだろう、という問いがある。自分がなっても全く不思議ではないのだ。彼らが私達に変わって病んでいるのだ、と言っても言い過ぎではないだろう。だから、本当は自分は好運なのに、普段、深く考えない。自分の死を見つめるのが怖いからだ。はっきり言って、人間すべては死刑囚と同じだ。死を見ないためにいろいろなことで気をまぎらそうとする。葬式で不思議に思うことがある。葬式の後や通夜の後、人々は思いの他、愉快そうに飲み食いすることだ。今まで泣いていたいた人があっという間に笑い声に変身するのだ。今の時代を反映しているいい例だと思う。こうなるのはテレビがかなり影響しているようだ。テレビはある番組では肉は健康に良いと放映したかと思うと、一週間後には肉は石がたまり毒だと同じ番組で言い出す。その後、すぐにハムの宣伝が入ったりすることがある。全く意思統一がないのだ。こんな物を毎日見ていると確実に人格破壊が起こるのではないか。

プルーストというフランスの作家は、「現実以上に豊かに充実させるのは記憶と想像力だ」と言っている。今見ている物を大事にしたい。