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ブログタイトルを変更しましたが特に意味はありません。

2013 マレーシア旅行 その7 マレーシア――マラッカの夕日

2013年05月11日 23時08分50秒 | 旅――海外




言うまでもなく「マラッカの夕日」に興味を持ったのは、沢木耕太郎の『深夜特急』を読んでのことである。
12~3年ほど昔の2度目か3度目かのメキシコ旅行中、ビーチや安宿での寝しなの友として『深夜特急』を読み耽るなか、香港の街の熱気に「私」が魅了されていく様子、マカオの船上カジノでの一六勝負、タイに魅了されない「私」、カルカッタの売春宿で目の当たりにした“異形”の娼婦、パキスタン・ラワール・ピンディの屋台での『グルダ』という臓物料理の調理描写、“Youth to Death”と描かれたアジア大陸終盤のヒッピーバス、イスタンブールのゲンチャイ女史、そしてポルトガルの最西南端サグレス・サン・ビセンテ岬の最果ての宿で説かれた茶にまつわる“C”と“T”の法則性などといったエピソードと並び、強く印象に残ったのが「深夜特急2 マレー半島編」の「マラッカの夕日」だった。

「マラッカ海峡に沈む夕陽はとてつもなく大きく赤い、と聞いた事があった」
(深夜特急2 マレー半島・シンガポール編」P145より)

そんな仄聞を頼りにマラッカを訪れ、実際に「私」は日没ギリギリに水平線が一望できる堤防まで走り、その夕日を目の当たりにする。

「巨大な夕陽が、水平線と、はるか向こうの地平線をかたちづくっている岬との間に、落下するように沈んでいった」
(深夜特急2 マレー半島・シンガポール編P146より)

描写としては拍子抜けするほどに淡白である。というより「私」の心情が描かれていない。
もしかしたら、仄聞ほど感動を覚える光景ではなかったのかもしれない。事実「私」のマラッカ滞在はごく短いものである。
だが、俺は「とてつもなく大きく赤い夕日」という言葉に強く惹かれる。
ガキの頃、『野生の王国』などでよく見た、アフリカのサバンナの地平線に沈んでゆく、蜃気楼による空気のゆらぎを伴う巨大な夕日。あれに漠然とした憧憬を持っており、もしかしたらマラッカの夕日はそれに近いものなのではないか、とこのエピソードを読んだ時に感じたのだ。以来、「マラッカの夕日」は「ナポリを見て死ね」と並んで旅の心を掻き立てるキーワードの一つとなった。

残念ながら太陽がもっとも大きく見える季節にはまだ早いが、果たしてマラッカから見る夕日は本当に大きく赤く、そして何らかの戰きを感じるもなのか。また、海原に没してゆく巨大で真っ赤な夕日は、ある種の終末的光景を感じさせてくれるものなのか。ぜひ、そんなものを確認しておきたいと思った。



リトルインディアを抜けるとすぐに世界遺産地区。
これまでの旅でいくつ世界遺産を訪れたことになるんだろう。国内を除いたとしても20箇所以上は訪れたはず。
今度、時間があるときに数えてみよう。



ポルトガルのコロニーだった場所ならばお約束の聖フランシスコ・ザビエル教会。
意外なことに、道行く観光客はほとんど足を止めない(我々も)。



マラッカ歴史遺産地区の中心地、スタダイス広場(通称オランダ広場)に近づいてきた。
「スタダイス」と聞いて連想するのは中田英と確執のあった元ボルトンのアラダイス監督。さらにかつて小林大悟が所属していたノルウェーリーグのスタベイクIF。ちなみに「スタダイス」はオランダ語で「シティホール:市庁舎」のこと。正面中心やや右に、スタダイス広場名物のクロックタワーが見える。



1511年にマラッカを征服したポルトガルを1641年に駆逐し、新たな支配者となりこの地を統治したオランダ。それだけに運河の雰囲気などにかつてのオランダ統治の名残を感じることができる。ちなみにマラッカ海峡を挟んで対岸のインドネシア(当時のジャワ)も、1602年の東インド会社設立から約350年間もの間、オランダの統治下に置かれた国である(マレーよりもむしろこちらのほうが有名か)。1942年、大東亜解放政策による日本軍のジャワ上陸によりオランダは降伏。350年間にもおよぶ搾取の歴史に終止符が打たれた。その後、日本軍による3年間の統治を経て、ついにインドネシアはムルデカ(=独立)を勝ち取ることになる。



ここがマラッカ観光のハイライトとされるスタダイス広場。中国からの観光客によって埋め尽くされている。これは“群れ”が退いた一瞬を見逃さずに切り撮ったカット。奇跡的に開けた状態でムラカ・キリスト教会を写すことができた。



マラッカ名物“トライショー”。メルセデスのエンブレムが実に微笑ましい(笑)。
自転車を漕ぐマレー人のおじさんも、客席の子どもたちも幸せそう。マレーの子どもたちは本当に可愛い。
ちなみに観光客向けに、パキスタンのバスに勝るとも劣らないデコラティブな電飾仕様のトライショーもある。夜になると大音量のヒップホップとともに、煌々と電飾を灯らせながら街を行き交う。毒々しいネオンの輝きはちょっとした見もの。


きらびやかなモールやシェードはもちろん、旧式のコンポを中核に据えた手作りのサウンドシステムなど、それぞれの乗り手の拘りがいかんなく反映されている車体。たのしい。



スタダイス広場の裏には『TAMAN MERDEKA』(独立公園)という公園が。マレーシアの歴史と発展を語る上で欠かせないマレー鉄道が展示されている。ちなみにこの気動車は日本製とのこと。



手前にの石碑は戦没者記念碑。そして背後の飛行機はスコティッシュ・アビエーション社のツインパイオニアFM1004。マレーシア軍の軍用機である。
公園の隅に、帽垂布の付いた戦闘帽にゲートルという南方戦線スタイルの日本兵のコスプレをしたマレー系の男性が直立不動で立っていた。軍刀を帯刀しているところを見ると将校クラスらしい。そして一定の間隔を置いて「ヤマシタ!」と声を上げている。
「ヤマシタ」とは、まず間違いなく“マレーの虎”の異名を持つ山下奉文中将(最終的には陸軍大将)であろう。マレー・シンガポール作戦で大英帝国と闘いながらマレー半島を進軍、英・豪・印連合軍と華僑抗日義勇軍13万に打ち勝ち、敵将パーシバル将軍を降伏させたあのマレーの虎。この勝利が結果的に英国領だったマレーシア、シンガポールの独立へとつながってゆくと同時に、先のオランダ軍撃破によるインドネシア解放へとつながっていくことになる。
その山下奉文を演じているマレー系の男性だが、「独立記念公園」という、マレー人にとって特別な場所で演じていることや直立不動の姿勢、炯々とした眼光などから、見世物的感覚でやっているのではないことは明白だ。もしかしたら来る日も来る日もこうやって日がな一日独立公園の隅に立ち、鬼気迫る雰囲気を発しながら山下中将を演じることで敬意、あるいは感謝の意を表しているのかもしれない。だとしたらその本意を理解し、日本人として歴史を再考・再検することが一つの報謝となるのではないか、と考える。これまで豊田穣の戦記モノを中心に、主に海戦の視点から描かれたマレー戦線の文献を読んできたが、いずれも戦術や攻防の描写に重きが置かれており、実はあまりマレー半島解放後の市井の変化に迫った文献には目を通してはいなかった。こんなことなら、事前にもっとマレー・シンガポール解放について勉強してくるんだった。アジアにかぎらず旅は常に歴史を考えさせられる。そしてそこを旅する我々は歴史に立ち返らなければならない。



こうして街中のモニュメントを背景に、結婚式のスチール撮影を行なう光景を何度も見た。ベトナム、香港、マカオでも同様の光景を見たっけ。美しいお嫁さんで羨ましい限り。



まだ日没までには2時間ほどある。ということで歴史遺産地区を抜け、ビーチ方面へ。ここいらまで来るとほとんど観光客の姿はない。





マラッカ海峡を通過中のタンカー。ここは我が日本にとっても極めて重要な海上交通路である。なぜならば日本に輸入される原油の実に80%がここを通るタンカーによってもたらされるからだ。そしてここはアジアと中近東・ヨーロッパを結ぶ国際的な海上交通の要衝であることから、ソマリア沖と並んで海賊が多いことでも知られている海域。近年は国際海事局(IMB)の主導による、インドネシア、マレーシア、シンガポールの沿岸三ヶ国連携による監視・警備体制の強化により、「劇的」とも呼べるほどに被害件数は減少しているらしい。ソマリア・アデン湾での主要各国の海軍派兵による、圧倒的武力をもっての警備活動と比べるとあまりに平和的な対策だが、それに匹敵するほどの効果をあげていることは興味深い。



遥か彼方に美しいモスク。あそこまで行ってみたいがもうすぐ日没。そして行く方法もない。仮に行くとしたらタクシーをチャーターするしかなさそうだ。



熱帯雨林気候で有名なマレーシアだけに、ビーチなども透き通る青い海と白い砂浜、またはマングローブが生い茂るジャングルリバーなどを思い浮かべがちだが、それはペナン島やランカウイ島、東マレーシアのコタキナバルなどの風景。ここマラッカのビーチはやや寒々しい。



続々と建設中のリゾートマンション。この近くのショッピングアーケードでも、販売窓口を設けて投資用リゾートマンションのプロモーションを行なっていた。100平米近い部屋が2,500万円也。中国などとは異なり着実な成長率に安定したインフレ率を維持し続けるマレーシアだけに、いい買い物だと言えるのではないか。



ビーチで時間を潰してもまだ日没までには時間がある。そしてあまりに暑いこともあり、ショッピングアーケードへ避難。wi-fiに接続できるカフェでジョッキ入りレモネードとフライドカラマリでひと涼み。生き返る。



30分ほどカフェで涼んだ後、代表的な夕日のビューポイントであるセントポールの丘へ。キャット氏たちに「チッス」と挨拶して階段を登ってゆく。



まだ日没までは時間があるので、セントポール教会礼拝堂史跡を見学。我々日本人にとって、もっとも馴染み深いキリスト教宣教師である聖フランシスコ・ザビエルが迎えてくれる。このセントポール教会礼拝堂だが、ファサードを残してすべてが焼け落ちてしまったマカオの聖ポール天主堂跡よりは形がしっかりと残っており、在りし日の姿を偲ぶことができる。しかし俺的に「ザビエル(Xavier)」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、シャビ(Xavi)・エルナンデスであり、シャビ・アロンソである。



まだ日は高いものの、うっすらとマラッカ海峡に没してゆく夕日が見える。残念ながら日は厚い雲の向こうにあり、海原に飲まれてゆく巨大な夕日の全貌は拝めそうにない。まぁ、こんなもんだろう。



マカオのセントポール天主堂は焼け落ちてあのような姿になってしまったが、こちらは自然がもたらす風化によりこのような形になってしまった。それはそのまま最初の統治国であるポルトガルと次の統治国であるオランダ、イギリスの関係を表しているとも言える。言うまでもなくポルトガルとザビエルはカトリック(イエズス会)の布教に努め、このセントポール天主堂もカトリック教会として建設されたものである。対してオランダ、イギリスともにプロテスタント(カルヴァン派、英国国教会)の国であり、オランダはスペインからの独立をかけてプロテスタントが蜂起し80年戦争を戦ったこと、イギリスは16世紀にヴァチカンと決別して英国国教会を樹立した経緯により、両国にとってカトリックの象徴とも言えるこの教会は保護・保全の対象とはならかったのである。保守を受けずにマラッカ海峡からの潮風に晒され、400年間もの歳月を経ればこのような姿になってしまう。そこには我々日本人が是とする“滅びの美学”があるが、歴史遺産として考えればマカオのものも含めてもう少し保存状態が良くあってほしいとも思う。





思ったよりも広い教会堂内部。全員同じ色のランニングシャツを着た中国人とおぼしきティーンの女子たちが奇声を挙げて踊ったり、奇妙なポーズで記念撮影をしていた。偶然だが、背後の補強用のアーチと同じ配色となった。





修復中のものだろうか。レリーフがいたるところに立てかけられている。



暮れゆくマラッカの海。この時間帯でもタンカーの往来が頻繁であり、アジア経済の活況ぶりを感じさせてくれる。対岸のインドネシアに渡ってみたいいう気持ちが強くなる。



そしてマラッカの夕日。依然として日は厚い雲の向こう側にある。巨大な火球が海原に没してゆくあの光景を見られないのは残念だが、これもマラッカの夕日が見せる“貌”の一つ。そう捉え、セントポールの丘を下りることにする。



夕暮れのスタダイス広場。中国からの団体観光客が去ったこともあり、ずいぶんと静かになった。



日が落ちると電飾仕様のトライショーが幅を利かせ始める。イルミネーションのみならず、さまざまな音色のホーンや音楽を轟かせながら歴史地区を行き交い、見ていて楽しい。さて、カレーでも食いに行くか。






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