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ブログタイトルを変更しましたが特に意味はありません。

2013 マレーシア旅行 その9 マレーシア――デビル・カリーを求めて(マラッカ)

2013年06月08日 21時51分24秒 | 旅――海外




マレーシアの名物と言えば、魚の頭が煮込まれたフィッシュヘッドカレーやラクサ(カレー麺)、サテ(マレーシア風焼き鳥)などが筆頭に思い浮かぶ。しかし、ここマラッカには、ここでしか食べられない“ご当地カレー”が存在するのだ。

それが「チキンカリー・デビル」。マラッカを支配したポルトガル人の末裔によって生み出されたカレーであり、その悪魔的な辛さを表して「デビル」の名が冠されたという、誠もって興味をそそられるカレーである。

実はポルトガルとカレーの関係は非常に深いものがあり、たとえばついぞ50年ほど前までポルトガル領だったインド・ゴアには、「ポーク・ヴィンダールー」というポルトガル由来のカレーがある。愛読書である辛島昇著『インド・カレー紀行』(カラー版)によれば、「ヴィンダールー」という名前はポルトガル料理の「カルネ・ヴィーニョ・エ・アリョス」の“ヴィーニョ・エ・アリョス”の部分がインド風になまったものであり、ポルトガルならではのワインビネガーと豚肉をインドの香辛料および大量のニンニクで煮込んだ風味豊かなカレーは、その風変わりな美味さが噂を呼び、インド各地に広まっていった、とある(幾分俺の意訳も入ってます)。
日本でもいくつかの“本格派”を謳うインド料理店のメニューにその名があるのを確認しているし、俺自身も西荻窪の『CAFE オーケストラ』という店で「ポークビンダーロ」を食ったことがある。自宅近くにあるインド料理店を初めて訪店したときは、その聞きなれない名前に惹かれてマトン・ヴィンダーロを頼んだっけ。
そして1887年の葡清北京条約に基づきポルトガル領とされたマカオにも、そんなポルトガルおよびインド・ゴアの影響を受けて生み出された「カリー・クラブ」という蟹を使ったカレー料理があり、アフリカン・チキン(これもポルトガル由来の一種のカレー料理か)と並ぶマカオ名物として、多くのレストランで供されている。

ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見にはじまり、16世紀に本格化したポルトガルのアジア進出は、インド・ゴアを起点に、コロニーとした国々に自身の食文化とインドの食文化とを融合させた、独自のカレー文化という“残滓”を残していった。ここマラッカの「チキンカリー・デビル」もまた、そんなポルトガル統治時代の残滓の一つ。このカレーを味わうことは、マラッカ訪問をより意味あるものへと昇華させることであり、西洋列強国によるアジア植民地化時代を感じることでもある。ちょいとばかし風呂敷を広げすぎてしまったが、とにかくこれを食わずしてマラッカを去ることはできない。つーことで、今日はコイツを食いに行ってみようじゃねえか。



おお、今日は客船が寄港するようだ。
昨晩はしっかりと眠ったことで怠さや熱っぽさは消え、身体も幾分軽くなった。相方はホテル内のブッフェで朝飯。俺はいつものように朝食抜き。習慣なのだ。



ポルトガル人の末裔によって生み出された料理だけに、この「チキンカリー・デビル」にありつくには、マラッカ東端のポルトガル人居住区である「ポルトガル村」まで行かなければならない。長い歳月を経て混血が進み、アジア人化しつつあるポルトガル人の末裔が静かに生活を営む村だけに、かなり行きたい気持ちが強い。
が、行く手段がない。流しのタクシーは皆無だし、徒歩だと5km。日本ならば歩ける距離だが、この酷暑で5kmを歩き通せる自信がない。バスが出ているらしいが、バスターミナルまで行くのにこれまたタクシーをつまえなければならない(帰りの分も含めて半日分のチャーターが必要)。そもそもマラッカは海辺の街にもかかわらず、海辺まで行くのにやたらと苦労する。真剣にポルトガル村を観光するには、往復の交通手段を確保の上、一日かけるつもりで赴く必要がある。帰国してから調べたところによると、マラッカの主要観光名所をバスで巡る1dayツアーがあり、その中にポルトガル村も含まれているとのこと。近いうち、インドネシアにも行きたいと思っているので、そのタイミングでこちらまで渡り、ツアーに参加するしかないだろう。
ということで、今回は残念だが、ポルトガル村はパス。代わりにジョン・カーストリートの「ある」ホテル内のレストランにて「チキンカリー・デビル」を供しているとの情報を得たので、そこに行ってみることにする。



歩いていると、いい感じの道教寺院を発見したので入ってみることに。「天后庵」という文字が確認できることから、海の守り神である「媽祖」が祀られた寺院のようだ。海の近くで華僑の多い街であれば、必ずといっていいほど見かける媽祖廟。マカオはもちろん、台湾・基隆や横浜中華街にもこうした媽祖堂や媽祖廟がある。実はシンガポールにも、チャイナタウン内に「ティエン・ホッケン・テンプル」という阿媽を祀った福建寺院があり、同国最古の中国寺院として地元華人たちの信仰の拠り所となっているそうだが、今回はモスク見学を優先したため未訪。



堂内には大小さまざまな媽祖像が祀られている。いろいろな表情や顔立ちの媽祖像があって面白いので、夢中でカメラに収めたのだが、なぜかそれらの写真はことごとく手ブレに見舞われてしまっていたり、大きくピンを外したりで使い物にならず。腕が未熟だということにしておこう。
堂内には地元の老華僑が数人。地域のお年寄りの社交上となっているようだ。我々も自分たちの旅の安全をお祈りしておく。



先を急ぐことにしよう。晴天とは言い難いが、昨日よりははるかにカラッとしている。無茶苦茶暑いことには変わりないが。



昨日とはやや離れた場所からフランシスコ・ザビエル教会を望む。今日はいくらか見学客がいるもよう。



そしてまたまたやってきたぜ、ジム・カーもとい、ジョン・カーストリート。昨晩の喧騒が嘘のように落ち着いた風景。そうやって通りを隅々まで見渡してみて気付かされたのは、思った以上に通りの幅が狭いこと。そこを当たり前のように地元のクルマが通行する。ちょっとしたカオスがある。



福建会館。県人会のごとく、華僑の出身地域ごとにこうした寄合所があるのだろうか。福建と言えば福建土楼。いつか行ってみたいと思っている。



そしてここが本日の目的地『Hotel Puri Melaka』。ホテルとしての創業は1840年。建物自体は1822年からあるもの。軒先だけを見れば小さな安ホテルにしか見えないが(失礼!)、中はコロニアル様式となっており、その門構えからは想像できないほどに広い。公式ページによれば入り口から最奥の厨房までは約100m(!)もの奥行きがあるとのこと。そして事前調査で得た情報によれば、この中に『カリー・デビル』を供しているレストランがあるらしい。



ホテルのロビーを突っ切り、そのままを歩を進めれば緑と採光豊かな中庭が現れる。そこにはいくつものテラス席があり、その中央にメニュースタンドがある。メニューを覗いてみるが、「CURRY・DEVIL」の名前は見当たらない。近くにいた給仕係の青年に「カリー・デビルある?」と尋ねると「おお、あるぜ」との答え。ビンゴ!



適当なテラス席に座を確保し、まずはマンゴージュースで一息吐く。ランチタイムを外れた13:00過ぎという時間帯だからか、テラス席には先客の姿なし。ややあって欧米の年配男性が本を片手にアフタヌーンティーを喫しにきただけである。



このホテルも含め、ジョン・カーストリート周辺にある建物の多くは、マレー、西洋、中国の文化が混ざり合ったプラナカン文化が色濃く反映されており、独特の風情がある。この「プラナカン文化」だが、『ホテル・プリ マラッカ』のHPによれば、
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(プラナカンとは)「マレーシアに移り住んだ華人の子孫で、元々の自分たちの言語を忘れ、マレーの習慣を身につけ、地元のマレー人と婚姻関係を結んでいった人々を総称して、元来はインドネシア語で“プラナカン”と呼んだのです」
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とあり、マレーシアやシンガポールの下町特有の情緒ただよう雰囲気は、このプラナカン文化が源となって醸しだされていたものだということが判った。
プラナカンの建築の特徴は明るいパステルカラーにあるとされており、その建物群にはネオゴシック様式やバロック様式などの西洋建築のスタイルが取り込まれている。そこにマレー・ジャワやインド、中国のエッセンスが加わることで多文化のせめぎあいが生じ、その果てに特異な様式が確立されることとなった。花鳥風月や古雅といったものとは対局にある、増殖のエネルギーに満ちた“妙趣”だが、それでいてシンガポールの町並みなどを見ていると、きちんと秩序や調和が保たれているのが面白い。
そんなプラナカン文化が色濃く残るホテルの中庭で、ここをかつて統治したポルトガル人の末裔が生み出した独創性溢れるカレーを食う。実は「マラッカの夕日」などよりも、これがマラッカ訪問におけるハイライトなのではないかと思ってしまう。



待つこと40分近くかかってやってきた『チキン・カレー・デビル』。別府の「血の池地獄」を思わせる鮮烈な赤色。なるほどこれは辛そうだぜ。否が応にもカレー好きとしてのボルテージはMAXに。



テイストとしてはマレーシアカレーというよりも、少し濃度のあるタイカレーといった感じである。程よい酸味が感じられ、こうした酷暑の中で喰らうにピッタリのカレーだと思う。そして肝心の「辛さ」だが、日頃のカレー食べ歩きによって鍛えられているせいだろうか、正直なところ「悪魔的な辛さ」は感じなかった。確かに辛いし、普段こうした食べ物を口にしないような方にとっては悶絶するレベルにあるとは思うが、俺的には楽勝。この10倍位上の刺激を想定していたので、やや肩すかしを喰らった気分だ。もっとも辛さと味わいのバランスは申し分なく、カレーとしては十分に美味い。もしかしたらシェフが日本人である我々に合わせて意図的にマイルドめに仕上げてくれたのかもしれない。



館内にはこのホテルの歴史を紹介するミュージアムなどもあり、創始者のプロフィールやかつてここに宿泊した賓客の写真などが展示されている。歴史あるホテルだけに建物そのものが展示物のようなもので見ていて楽しい。おかげでなかなかに有意義な時間を過ごすことができた。料理がサーブされるまでやたらと時間がかかったこともあり、結果的に1時間半近くの時間をここで過ごすこととなった。



ホテル・プリの正面にある洋城。同ホテルのHPによれば、「チー家先祖伝来の家」とある。これはプラナカン様式ではなく、完全に西洋様式によって築城されたものだろう。チ、チーさん、俺を住まわせてくれ。



ジョン・カーストリートの出口には小じんまりとした教会が。ファサードには「TAMIL METHODIST CHURCH」とある。ここに移り住んだタミル人のキリスト教徒の教会だろうか。



そしてこちらが本日第二の目的地、カンポン・フル・モスク。18世紀初頭に建てられたマレー最古のモスク。タマネギ型のドームが載るアラビアン様式とは一線を画す、オリエンタル色の強いモスクである。ミナレットが無ければ南伝仏教の寺院にしか見えない。見学が可能とのことでここまでやってきたが、門は堅く閉ざされ、おそらく礼拝時間外だと思うのだが、人の気配も皆無。しばらく正門周辺で待ってみたが、関係者らしき人間が現れないので、泣く泣く諦めることにする。



地元華人のボディビルターだろうか。世界大会かなんかで好成績を残したことを記念してのミュージアムなのだろう。どこか木村政彦を思わせる風貌、というか髪型だ。ザキヤマっぽくもある。



「猛暑」といって差し支えないほどの暑さだ。歩く人間をほとんど見かけない。日が高い間は日光を浴びず、室内で過ごすのが南国の正しい生活パターンなのだろう。しかし我々は旅人である。歩かない訳にはいかないのだ。



あまりの暑さに、ズボンのベルトの染料が溶け出し、ズボン生地を汚しているのに気づく。ということで道すがら発見したスーパーに入ってナイロン製のベルトを購入。長年使ってきたスウェードのベルトだったが、まさかこのようなダメージを被るとは。



あまりにも暑く、全身汗まみれ。一旦ホテルに戻ることにした。



ホテルへの帰路にある漢方薬局で美味そうな冷茶を供していた。「清涼可口」とのコピーに惹かれて八宝茶をもらう。



カウンターに座らせてもらい茶を喫す。美味い。生き返る。一瞬で飲み干した。



キンキンに冷えた茶ではなく、適度に温めなのでゴクゴクと飲み干せる。「冷たいものは胃腸に負担をかける」との理由により、中国の冷茶は温めが基本。



今度は「四季解熱」という効能を持つ王老吉をもらう。に、苦ぇ!
この王老吉(ワンラオジー)茶だが、調べて見たところによると中国本土では缶飲料としても発売されており、国内市場No.1の売り上げを誇っているという。身悶えする苦さだが、クローブやメティシードの苦さにも通ずるものがあり、消炎効果や消化機能増強など、スパイス好きが高じてその効能にまで理解が及ぶようになった身としては「これぞ良薬!」という気分で味わえるから不思議なものである。実際、飲み終わって数分もすると身体の火照りがスーッと引いていく。おかげで再び炎天下の街に飛び出していく元気が湧いてきた。



んでもってホテルへ帰還。寄港していた客船が出航してゆく。
相方はプールへ。俺はシャワーを浴びて昼寝だ。1時間ほど昼寝して、また街へ出て行くことにする。


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