上村愛子選手モーグル4位‥納得いかない。
自分が審査員なら金か銀の滑りだった。
採点競技の妙と言うのか、解せなく納得のいかないところである。
隔靴掻痒の思いで力が抜けてしまった。
でも上村選手、ソチオリンピックお疲れ様。
インタビューを聞いていて、彼女同様にすがすがしい気持ちになれた。
競技人生もこのオリンピックが最後なのかも知れないが、これまで応援させてもらった自分がいた事を嬉しく思う。
本当に . . . 本文を読む
園児の時にかけっこが早い園児は生涯足は早いと思う。
いつも園庭や講堂の中を走り回って遊んでいた友達は、小学校や中学校でも足は早かったし、これは球技でも言えるのかな、ボール遊びが上手かった友達は同様に小学校や中学校でも球技が上手かった。
人間の持つ才能は生まれた時に決まっているが、子供をスポーツ選手で大成させたいならその見極めは絶対に園児の時だと思う。
園児の時にいろいろなスポーツをやらせてみれば、 . . . 本文を読む
ボクの通った、『こひつじ幼稚園』の園庭には、ジャングルジムと砂場、そして犬小屋しかなかった。
半世紀前の幼稚園や保育所は、どこもそんな感じだったのかも知れない。
犬小屋は園児が中に5~6人は余裕で入れる、犬小屋の形をした建物なのだが実際に犬も飼われていた。
名前はコロと言い、人なつっこい犬で誰も吠えたのを聞いた事のないおとなしい犬だった。
それがボクに対していきなり吠えだし、ボクを追いかけ回した事 . . . 本文を読む
もともとボクは子供の頃は余り眠らない子供だった。
そのボクがノイローゼになり更に眠れなくなった事がある。
3才のボクが幼稚園から帰って来て外遊びを一人でしていた時の事だ。
マメパッタを飛ばして遊んでいたのだが、このマメパッタと言うのはちょうど1円玉の大きさで厚さもちょうどそのくらいで、紙で出来た丸い小さなメンコなのだが、ボクの地方ではメンコをパッタと言いミニと言う小さい事を表す事をマメと言っていた . . . 本文を読む
タイトルの夢は寝ている時に見る夢の話で、ボクが三才の頃に将来の夢を持ったと言う話ではない。
某出版者の編集者からブログで、「50年前の日記を書いてみて下さい」と頼まれたので書き始めたのが、『三つ子のたましい』シリーズだ。
現在ボクは54歳だから4才前後の話と言う事になる。
今日で4話目だ。
ボクは今でこそ激睡(爆睡)タイプの人間だが、子供の頃は普通の子供に比べ絶対的に寝ていなかったはずだ。
ボク . . . 本文を読む
ボクの家は両親が共働きだったので、幼稚園は3年保育に入れられた。
『こひつじ幼稚園』と言うカトリック系の幼稚園なのだが、年少は雪組、年中は花組、年長は星組と宝塚ばりに組の名前がつけられている。
ただし一年保育の組もあり、宝塚を意識した組なら月組か宙(そら)組だろうに、そこだけは何故かみどり組だ。
ボクは3年保育なので雪組からのスタートになるのだが、この組だけは極端に人数が少なく12名しかいなかった . . . 本文を読む
ボクが三才の時に弟が出来た。
公務員だった母は臨月まで働いていたのだが、その頃と言えばボクの生まれ育った福島県は会津の小さな山間の町には救急車などなく、しかもタクシーすらなかったから出産予定日の前には陣痛が来ていなくとも入院をするのが一般的だった。
助産婦を呼び自宅で出産も珍しくなかった時代である。
いつも、おばあちゃんと二人だけだったのが、母が入院をすると朝から晩まで母の病室で遊んでいられるのが . . . 本文を読む
ボクの記憶の始まりは2才だ。
ボクの両親は公務員で共働きだったので、ボクはおばあちゃんに育てられた。
いわゆる、おばあちゃん子だ。
3才年下にボクの弟がいるのだが、その弟が産まれる前年にボクはおばあちゃんから、「来年はオマエもお兄ちゃんになるんだから、靴下も自分で履けるようにならないとね?」と2才児のボクに過酷な試練を与えたのだが、いつも靴下を履かせてもらっている事を思い出しながら、『出来る!』と . . . 本文を読む