私自身が使っていたランドセルには、然したる想い出はない。
玄関先に放り投げるだけのモノでしかなかったし…(苦笑)。
だいぶ以前になるが、確か、『幼なじみの想い出』と言うタイトルでこのブログで書いた事があるのだが、私には幼稚園の時によく遊んでいた、さとみちゃんと言う幼なじみがいた。
幼稚園の卒園式で、卒園者代表の挨拶をしたくらいだからとても優秀な子だった。
私は、福島県は会津地方の小さな田舎町で育った。
小学校は、クラスに生徒が15人と言う分校だ。
その小学校の入学式に、さとみちゃんの姿が見えない。
何クラスもあるわけではないし、ましてや分校だ。
同級生になるはずの子がいなければ直ぐにわかる。
入学式が済んで、私は自宅の玄関にランドセルを放り投げると、一緒に入学式に行っていた母親の、「どこに行くの?」と言う呼びかけにも耳を傾けず、さとみちゃんの家に向かっていた。
そして、さとみちゃんの家の玄関の入口を開けるやいやな、「さとみちゃ~ん」と甲高い声を出して叫んだものだ。
玄関に出てきたのは、さとみちゃんのお母さんだった。
私は、「おばちゃん、さとみちゃんは?さとみちゃんはどうして学校に来なかったの?」と訊くと、さとみちゃんのお母さんは、「さとみはね、遠いところへ行ってしまったの。残念だけどさとみにはもう会えないの。でも写真があるから会っていってくれる?」と言われ通されたところには祭壇があって、そこにはさとみちゃんの写真が飾られてあった。
小学校に入ったばかりの私には、その写真が遺影だと言う認識は確かなかったはずだ。
ただ、さとみちゃんのおかあさんが言った、「さとみにはもう会えないの」と言われた事がとても悲しくて、写真を見ながら泣きそうになっていたものだ。
さとみちゃんは小学校に入学する直前に、猩紅熱と言う病気にかかりこの世を去ってしまっていたのだ。
その遺影の横に飾られてあった、真っ赤なランドセルが私の目にはとても鮮やかにいつまでも写っていた。
私は零れそうな涙を目に一杯に溜めて、「おばちゃん、さとみちゃんが遠いところから戻って来る事があったら僕を呼んでね?絶対だよ!」と震える声で絞り出すように言うと、さとみちゃんのお母さんは嗚咽しながらコクリと頷いていたのを覚えている。
とても切ない幼なじみの想い出だ。
普段ではランドセルの事など思い出したりはしないのだが、ここのところ伊達直人と名乗る人物が児童養護施設等にランドセルを贈っている。
その度に思い出すのが、さとみちゃんの遺影の横に飾られてあった真っ赤なランドセルだ。
さとみちゃんのご両親も、既にさとみちゃんのもとへと旅立たれている。
あの真っ赤なランドセルは、いったいどうなったのだろう?
そんな事を、伊達直人のニュースが流れる度に過ぎってしまう。
それにしても、あれから40数年の月日が流れているわけだが、ランドセルだけはその形を変えることなく小学生に背負われ続けている。
目に焼き付いたランドセルは、その記憶にも鮮明に残ってしまうものだとつくづく思ってしまう。
玄関先に放り投げるだけのモノでしかなかったし…(苦笑)。
だいぶ以前になるが、確か、『幼なじみの想い出』と言うタイトルでこのブログで書いた事があるのだが、私には幼稚園の時によく遊んでいた、さとみちゃんと言う幼なじみがいた。
幼稚園の卒園式で、卒園者代表の挨拶をしたくらいだからとても優秀な子だった。
私は、福島県は会津地方の小さな田舎町で育った。
小学校は、クラスに生徒が15人と言う分校だ。
その小学校の入学式に、さとみちゃんの姿が見えない。
何クラスもあるわけではないし、ましてや分校だ。
同級生になるはずの子がいなければ直ぐにわかる。
入学式が済んで、私は自宅の玄関にランドセルを放り投げると、一緒に入学式に行っていた母親の、「どこに行くの?」と言う呼びかけにも耳を傾けず、さとみちゃんの家に向かっていた。
そして、さとみちゃんの家の玄関の入口を開けるやいやな、「さとみちゃ~ん」と甲高い声を出して叫んだものだ。
玄関に出てきたのは、さとみちゃんのお母さんだった。
私は、「おばちゃん、さとみちゃんは?さとみちゃんはどうして学校に来なかったの?」と訊くと、さとみちゃんのお母さんは、「さとみはね、遠いところへ行ってしまったの。残念だけどさとみにはもう会えないの。でも写真があるから会っていってくれる?」と言われ通されたところには祭壇があって、そこにはさとみちゃんの写真が飾られてあった。
小学校に入ったばかりの私には、その写真が遺影だと言う認識は確かなかったはずだ。
ただ、さとみちゃんのおかあさんが言った、「さとみにはもう会えないの」と言われた事がとても悲しくて、写真を見ながら泣きそうになっていたものだ。
さとみちゃんは小学校に入学する直前に、猩紅熱と言う病気にかかりこの世を去ってしまっていたのだ。
その遺影の横に飾られてあった、真っ赤なランドセルが私の目にはとても鮮やかにいつまでも写っていた。
私は零れそうな涙を目に一杯に溜めて、「おばちゃん、さとみちゃんが遠いところから戻って来る事があったら僕を呼んでね?絶対だよ!」と震える声で絞り出すように言うと、さとみちゃんのお母さんは嗚咽しながらコクリと頷いていたのを覚えている。
とても切ない幼なじみの想い出だ。
普段ではランドセルの事など思い出したりはしないのだが、ここのところ伊達直人と名乗る人物が児童養護施設等にランドセルを贈っている。
その度に思い出すのが、さとみちゃんの遺影の横に飾られてあった真っ赤なランドセルだ。
さとみちゃんのご両親も、既にさとみちゃんのもとへと旅立たれている。
あの真っ赤なランドセルは、いったいどうなったのだろう?
そんな事を、伊達直人のニュースが流れる度に過ぎってしまう。
それにしても、あれから40数年の月日が流れているわけだが、ランドセルだけはその形を変えることなく小学生に背負われ続けている。
目に焼き付いたランドセルは、その記憶にも鮮明に残ってしまうものだとつくづく思ってしまう。
このブログを書いた後で、思わず昔のアルバムを引っ張り出して見てみたのですが、二人並んで縁側に座っている写真を見て、「あっ、この情景は覚えている」なんて思って感慨深く眺めていました。
その写真を載せようとかなとも思いましたが、私が余りにも情けない洟垂れ小僧に写っていたものですから恥ずかしくて…。
それにしても切ないお話ですね。
実は先日、昨年久し振りに同窓会をした小学校の担任から悲しいメールが来ました。
中学まで一緒だったクラスの女子生徒が乳ガンで亡くなったとのこと…
彼女は校内でもちょっとワルのグループにいて周りの生徒から一目を置かれた存在でした。
でも、そんな彼女も私に対してはなぜか逆の目で見ていたようで。そういえば、一緒にコックりさんをやった記憶があります。
今年は正式なクラス会を予定していたので、なんだか残念な思いです。
詳細が分かれば、もう一人先立ったヤツがいるんで、いつかは2人の墓前にお参りしたいと思っていますが。
でも母親同士が友人でしたので、写真にはよく一緒に写っていました。
さとみちゃんの葬儀を、母は私に内緒にしていました。
私も親だったら、言わなかったと思います。
それにしても加齢と共に入って来る知らせは、悪い知らせばかりになりますね?
私は既に親友を2人亡くしています。
その内のひとりは自殺でした。
悲しみに加え、余りのショックに呆然としたものです。
次は自分の番でいいと、本気で思ってしまいます。
活字で今、表現しようとしたら難しいです。小学生にあがったばかりの目黒さんが、どのように感じ、どのように受けとめ、どのように消化しようと努めたか、涙がこぼれそうです。
私は“さとみちゃんの母”の立場の経験があります。目黒さんを囲む皆様がお優しくてそれが伝わり私も心を揺さぶられました。
今、はっきり思うことは、さとみちゃんの祭壇に戸惑いながらも心底!心を尽くして向かいあっていた六才の目黒さんがあった!ということです。
母親にとって、言葉では表せきれない感情を、仲良くしていた我が子のお友達が、遺影と対面してくれたことは、どんなにか心癒されたことでしょう。
幼少ながらに、お辛い経験をされましたね。
もしかしたらそれが、幼い旅立ちであった事が何となくはわかっていたのかも知れません。
私が通った幼稚園は街中にある大きな幼稚園でしたから、その中で分校へ行くのは3人だけでした。
幼稚園の卒園式で、これが友人達との別れなんだなと言う事もわかっていました。
悲しいと言う実感がなかったですから、さとみちゃんとの別れが特別なものなんだと言う感じがしたから悲しかったんだと思います。
それよりも明美さんに、“さとみちゃんの母”の立場を経験された事があったのは初めて知りましたが、それは言葉では言い尽くせない程お辛かったと察します。
さとみちゃんのお母さんは、嗚咽したまま祭壇の前で伏せてしまい私を送り出す事も出来なくて、私自身が戸惑ったのも覚えています。
自分より先に子供に先立たれるのが最大の親不孝とは言いますが…。