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永江朗のオハヨー!日本語 ~広辞苑の中の花鳥風月

短期集中web連載! 手だれの文章家・永江朗が広辞苑を読んで見つけた自然を表す言葉の数々をエッセイに綴ります。

ぎょううん【暁雲】

2013年05月10日 | か行
あかつきの雲


『広辞苑』を読んでいて痛感するのは、日本語は耳で聞いただけではわからない言葉が多いこと。漢字を思い浮かべてようやくわかるのだが、同音異義語も多いから、どの漢字をあてるべきかは文脈で判断しなければならない。視覚的言語なのだと思う。昔からこうだったのか、それとも近代(明治)からなのか。あるいは、一般庶民は使わない特
殊な言葉なのか。

「暁」は訓読すれば「あかつき」。「あかつき」の項を読むと「夜を三つに分けた第3番目。宵、夜中に続く。現在では、やや明るくなってからをさすが、古くは、暗いうち、夜が明けようとする時。よあけ。あけがた」とある。

「暁月」は「夜明けに残る月」だから、「暁日」は明け方の太陽かと思いきや「あけがた。あかつき」だそうだ。「暁」の一字で十分なのに、「日」つけ足したところがおもしろい。明け方の太陽は「暁光」のほうが近い。『広辞苑』は「あけがたの光」と説明する。「暁光」とおなじ「ぎょうこう」という読みでも、「暁行」と書けば「あけがた
に行くこと」。「暁更」は「夜明け方、まだ暗い頃。あかつき」だそうだ。どれも日常会話ではつかいそうにない言葉だ。

きたまどひらく【北窓開く】

2013年05月09日 | か行
春になり、冬の間閉め切ってあった北側の窓を開く。


「北窓塞ぐ」という言葉もあって、「冬に寒い風が入るのを防ぐため、北側の窓を閉じ、板で塞いだり、目ばりをしたりする」と書かれている。

 北海道では、1970年代ごろまで見られた風景だ。北側のまどだけでなく、あらゆる窓を塞いだ。さすがにぼくが子どものころは、板ではなく透明なビニールシートをつかったけれども。ビニールがなかったころは、昼間でも暗かっただろう。

 父は秋が深くなるとこの作業をして、雪がとけるころにビニールを外した。秋、父を手伝いながら「もうすぐスキーや雪遊びができるぞ」と冬が来るのが楽しみだったし、春は春で「自転車に乗れるぞ」とワクワクした。

 でも、「北窓開く」「北窓塞ぐ」という言葉は、『広辞苑』を読むまで知らなかった。

 80年代になると二重になったペアガラスが普及して、ビニールシートで窓を覆う家は少なくなった。建物の気密性が高まり、目ばりの必要もない。床暖房やスチーム暖房の家も増えて生活はどんどん快適になり、季節を感じさせる物は住宅から少しずつ消えていった。

きくのえん【菊の宴】

2013年05月08日 | か行
陰暦9月9日、宮中で催された観菊の宴。


「菊の節会」とか「重陽の宴」、「菊花の宴」、「九日の宴」とも呼ぶとある。

「重陽(ちょうよう)」は「陽の数である九が重なる意」で、中国ではこの日、丘に登る行楽の行事があるという。

 日本で菊の宴が行われるようになったのは奈良時代からというから驚く。この日、邪気を払うために、茱萸嚢(しゅゆのう)というものを腕や柱に掛ける。茱萸嚢とは、呉茱萸(ごしゅゆ)の実を入れた赤い袋だそうだ。

「菊の露」の項を読むと、「菊にやどる露。飲むと長生きをするといわれた」と書いてある。これってビジネスにできませんかね。いまは「長生きできる」といえば何でも売れる時代。菊についた露を集めて小さな瓶に詰めて「紫式部日記でも歌われた不老長寿の秘薬」とかなんとかいって。

 書籍のサイズに「菊判」というのがある。A5判よりもちょっとだけ大きい。どうして菊判と呼ぶのだろうと思っていたが、「初めて輸入されたとき、菊花の商標があったからいう」のだそうだ。文芸書などに多い四六判は4寸2分×6寸2分という大きさから。菊判も四六判もJISの規格外。

きしずかならんとほっすれどもかぜやまず【樹静かならんと欲すれども風止まず】

2013年05月07日 | か行
孝行をしようと思っても、その時まで親は生きていてくれない。親の在世中に孝行せよといういさめ。


『韓詩外伝』という本に出てくる詩だそうだ。「子養わんと欲すれども親待たず」の対句になっているそうで、この後半部分がついてないと、語釈にあるような意味だとはわからない。

 詩の前半部だけのほうが、納得できる。静かにしていたいと樹木は思っているのに、風はいっこうにやんでくれない、という嘆きである。

 この詩をつくった人は、ぼんやりと樹を眺めていたのだろう。太陽の光を浴びてすくすく伸びた樹はうらやましいぐらい。しかしよく見ると、呑気そうな樹もたえず風に枝を揺らせている。「あいつだって、たまにはじっとしていたいだろうに」と同情したに違いない。そして、我が身を樹に重ねてみた。世の中、思い通りにはいかないもの。まったくだ、まったくだ、と。それが、思い通りいかない代表例が親孝行か……。

 同じく樹木を使った変な言葉に、「木の股から生まれもせず」というのがある。「だって人間の股から生まれたんだもん」という意味かと思いきや、ちょっと違っている。『広辞苑』によると、「人は、木石とは違い人情を解するものだということ」だそうだ。そりゃそうだけど……。

きか【季夏】

2013年05月06日 | か行
(1)夏の末。晩夏。
(2)陰暦6月の異称。


 どうして「季夏」が晩夏のことなのか。不思議に思って漢和辞典を引くと、「季」には「すえ」「わかい」「ちいさい」「とき」などの意味があるそうだ。

「とき」の意味でつかう代表例は「四季」。四季の、それぞれの終わりの月もまた「季」であらわすので、ちょっと混乱しそう。春の最終月は「季春」で陰暦3月、冬なら「季冬」(陰暦12月)。春夏秋冬のそれぞれの、後ではなく前に「季」とつけるところがおもしろい。

「わかい」「ちいさい」は、たとば3人兄弟の末っ子、みたいな意味でつかうからか。

 そういえば、博覧強記の独文学者でエッセイスト、種村季弘さんの名前は「すえひろ」と読むのだった。

 陰暦6月は新暦の7月から8月ごろだから、これを夏の末というのはちょっと早い。いや、そう思うのは現代人の感覚だろうか。それとも昔は7月の末ぐらいから、もう夏の終わりを感じさせたのだろうか。最近は9月になってもまだまだ暑い日が続く。地球の回りかたが500年前、1000年前と変わってるんじゃないかと思うのだけど。