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永江朗のオハヨー!日本語 ~広辞苑の中の花鳥風月

短期集中web連載! 手だれの文章家・永江朗が広辞苑を読んで見つけた自然を表す言葉の数々をエッセイに綴ります。

しょこう【曙光】

2013年06月30日 | さ行
夜明けのひかり。暁光。

「暗黒の中にわずかに現れはじめる明るいきざし。前途に望みが出はじめたことにいう」ともある。

 この字を見てリヒャルト・シュトラウスの交響詩、『ツァラツストラはかく語りき』を連想するのは、シュトラウスがニーチェの同名の本からインスピレーションを受けて曲を作ったからであり、ニーチェには『曙光』というアフォリズム集があるからだ。さらにいうなら、キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』の冒頭のところでシュトラウスのこの曲が使われている。

 シュトラウスの曲の始まりはなんとも大げさでドラマチックだ。とても景気のいい気分になる。ところが1曲丸ごと聴くと、派手なのは始まりだけで、あとはわりと地味なのでちょっとがっかりする。

 現実の曙光も同じで、夜明けの太陽は神々しい感じがするが、しかし昇ってみれば昨日と同じお天道さんで、ありがたいことには違いないけれども、そうそうドラマチックな1日が待っているわけでもない。明けない夜はないというが、昇った日も必ず沈むと思うと、嬉しさも半分ぐらい。

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しょうふうろうげつ【嘯風弄月】

2013年06月29日 | さ行
天然自然の風景を愛賞し、風流韻事に心を寄せること。


「風にうそぶき、月をもてあそぶ」という意味だそうだ。

「うそぶく」も「もてあそぶ」も、あんまりいい意味に聞こえない。

 でも、「うそぶく(嘯く)」のページを読むと、「そらとぼける」とか「大きなことを言う。えらそうなことを言う」という意味は後ろのほうで、「口をつぼめて息を大きく強く出す。また、口笛を吹く」や「鳥や獣が、鳴き声を上げる」、そして「詩歌を口ずさむ」という意味がある。だから「嘯風」は風の音をまねたり詩歌をくちずさむことだろう。

「もてあそぶ」も、「人をおもちゃにしやがって」なんてフレーズが思い浮かぶけれども、「手に持って遊ぶ」「寵愛する」という意味がある。「弄月」は月を愛でるぐらいの意味だろうか。

 嘯風弄月もけっこうだけれども、似合う年齢というものもあると思う。10歳ぐらいの男の子が「月を眺めるのもいいものですな」なんていうのはちょっと不気味で、怪獣のフィギュアで遊んでいるほうがほほ笑ましいというか安心する。


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しょうふうすいげつ【松風水月】

2013年06月28日 | さ行
松に吹く風や水に映る月影。すがすがしいもののたとえ。

 なんだか和菓子の名前みたいな言葉。というか、こういう言葉から和菓子の名前を選ぶのだろうけど。

 松に吹く風といってもいろいろある。静かにささやかに吹く風もあれば、大木をゆさゆさ揺らす強い風もある。大人になって仕事が忙しくなると、日常のなかにふと生まれた空白の時間に、ぼんやりと樹を眺めるようなことが、とても大切に感じる。風に揺れた松と松の葉が触れ合って立てる音に耳を澄ます。すると気持ちが落ち着いてくる。さっきまでのイライラした気持ちがおさまる。

 水に映る月影もそうだ。ふつう、月を見るというと、夜空を見上げる。でも、足もとの水にも月は映る。貴族の庭園の池の水面でも、昼間降った雨でできた路地の水たまりでも、映る月は同じだ。

 こう考えると、松風水月がすがすがしいのではなく、松風水月を味わう気持ちがすがすがしいのだとわかる。そのためには松と風がたてる音に気づき、耳を澄ませなければならないし、夜空ではなく足もとの水面を見る心の余裕が必要だ。

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しゅんむ【春夢】

2013年06月27日 | さ行
春の夜の夢。


「しばしば人生のはかないさまのたとえに用いる」と『広辞苑』には書かれている。

 人生の折り返し点をすぎてしまうと、「人間の一生なんてほんの一瞬だなあ」とつくづく思う。一眠りしている間に見る夢にたとえる気持ちはよくわかる。

 とはいえ、どうしてそれが春の夢なのだろう。夏や秋や冬でないのはなぜ?

 春眠暁を覚えず、なんていうぐらいで、春の寝床は気持ちよく、いつまでも眠っていたい。ということは、春の夢はほかの季節の夢よりも、心地よくて長いという意味だろうか。

 しかし夢がいつも楽しいとは限らない。悪夢もある。ぼくが長い間悩まされているのは、何かを飲み込んでしまう夢だ。今まで飲み込んだのは、梅干しの種、CD、カミソリの刃、針金など。先日は団子の串を飲み込んだ。夢の中で「大変なものを飲み込んでしまった」と慌て、口に手をつっこんで吐き出そうとする。たいていそこで目が覚める。医者にも相談したが、原因はよく分からないという。

 梅干しの種を飲み込んで苦しむ人生なんていやだ。

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しゅんいんしゅうだ【春蚓秋蛇】

2013年06月26日 | さ行
字配りがまずく、字が曲がりくねって見苦しいこと。書のつたないたとえ。

 よくいう「ミミズの這ったような字」のことである。

 春のミミズと秋のヘビとの意からだそうだ。出典は『王羲之伝』から「行行として春蚓のくねるがごとく、字字として秋蛇のたわむがごとし」。

 ぼくのためにあるような言葉だ。

 字を覚えて半世紀ぐらいになるだろう。仕事がら、字を書くことが多い。原稿はワープロが登場した20代のころからキーボードを使って書いているが、それでもゲラの手直しや取材の礼状など手書きする機会は多い。それなのに、ちっとも字がうまくならない。ずっとへたなままだ。

 ほかのこと、たとえば楽器にしてもスポーツにしても、50年もやっていれば上達するだろう。ところが字に関しては5歳のときから進歩がない。不思議だ。脳の中で字を書くことをつかさどる部分だけ特殊なのだろうか。

 若いころは字がへたなのがコンプレックスだった。ところが中年になるとそうでもなくなる。ポイントは堂々としていること。堂々とへたな字を書けばいい。ミミズであろうとヘビであろうと、読めればいいのである。


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