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永江朗のオハヨー!日本語 ~広辞苑の中の花鳥風月

短期集中web連載! 手だれの文章家・永江朗が広辞苑を読んで見つけた自然を表す言葉の数々をエッセイに綴ります。

ぬえ【*・鵺】 *は偏が「空」で旁が「鳥」

2013年03月28日 | な行
(1)トラツグミの異称。

 もちろん語釈の(2)には、「源頼政が紫宸殿上で射取ったという伝説の怪獣」とある。頭がサルで、胴がタヌキ、尾がヘビで、手足はトラという怪物である。もっとも、実際に異種混合の生物がつくりだされることがあって、たとえばヒョウとライオンから生まれたレオポンだとか、ライオンとトラから生まれたライガーだとか、ヤギとヒツジから生まれたギープだとか。いずれも自然界で生まれたのではなくて、人工的にかけ合わせてつくった。生まれた動物たちより、そんなことをする人間のほうが怖いと思うけど……。

 ぼくが驚いたのは、伝説の怪獣の名前や、その比喩(「鵺みたいなヤツだね」など)としてしか知らなかったけど、トラツグミを鵺と呼ぶということである。「ぬえこどり【鵼子鳥】」の項には、トラツグミだけでなく、「一説に、夜鳴く鳥の総称とし、フクロウ・ミミズクなども含む」とある。

 笑っちゃったのは「鵼鳥の」という枕詞。「片恋」などにかかるのだが、「その鳴き声が物悲しく、人を恋うるように聞こえるからいう」のだそうだ。不気味でもあり、物悲しくもあり、ということか。

にわたずみ【潦】

2013年03月27日 | な行
雨が降って地上にたまり流れる水。行潦。


 語釈にある「行潦」は「こうろう」と読み、路上の水たまりのこと。

『広辞苑』では「ニワは俄か、タヅは夕立のタチ、ミは水の意というが、平安時代には「庭只海」と理解されていたらしい」と語源について書かれている。雨が降ったら庭が急に海になった、という小学生の感想のような表現がかわいい。

 子どものころすごした田舎町は、まだ舗装されていない道路も多く、雨が降るとあちこちに水たまりができた。学校の帰り、水たまりを避けてジャンプしながら歩いたり、逆に長靴でじゃぶじゃぶ入りながら歩くのが面白かった。水たまりと水たまりをつなぐ水路を作ったりもした。猛スピードで自動車が通り、頭から泥水をあびたこともある。

 写真に興味を持ちはじめたころは、水たまりにうつる雲をよく撮ったものだ。道路に空と雲という取り合わせがシュールで、かっこいいと思った。

 どこもかしこもアスファルトで固められ、水たまりなんてめったに見かけなくなった。ゲリラ雷雨なんてあると、すぐ洪水になるのは、その副作用だろう。

にどのつき【二度の月】

2013年03月26日 | な行
八月十五夜の月見と九月十三夜の月見。ともに江戸吉原遊廓の紋日で、この日に遊女を揚げる客は、片月見(どちらか一度だけですますこと)になるのを忌んだ。


 二度寝してひと晩に月を2回見ることかと思いきや、こんな意味だったとは。

 会社員だったころ、下町育ちの先輩がいた。同じ店に一度しか行かないのは縁起が悪いといって、必ず日をおかずにもう一度行った。「裏を返しに行くぜ」などといいながら。

 ぼくはキャバクラをはじめ女性がサービスしてくれる酒場に行ったことがないのだけど、その方面が好きな友人は、夕方になるとお誘いの電話がひっきりなしにかかってきてたいへんだと(うれしそうに)嘆いていた。こういうのは現代版・二度の月なのだろうか。

「紋日」の項を見ると、遊廓で遊女が休むことを許されない日だったとある。五節句(1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日)、毎月の1日と15日など。どうしても休む遊女は、自分で揚代を負担しなければならなかったという。いまなら労働基準法違反。というか、売春そのものが違法だ。

 吉原の紋日はともかく、十五夜と十三夜の月見はぜひ復活させたい。ときどき月をぼんやり眺めるような心の余裕が必要だと思う。

にそ【二鼠】

2013年03月25日 | な行
白と黒との2匹の鼠。仏教で、昼夜または日月にたとえていう。


 どうして白黒の鼠が昼夜や日月のたとえなのだろう。浄土真宗本願寺派総合研究所(西本願寺)のサイトにその答が載っていた。『仏説譬喩経』、『衆経撰雑譬喩』という本に出てくる説話だそうだ。

 旅人が広野を歩いていると、悪い象が追いかけてきた。旅人は空井戸に身を潜めようと、垂れている木の根を伝う。空井戸の底には毒龍と4匹の毒蛇。白黒の鼠が出てきて、かわるがわる木の根をかじっている。しかも外では野火が広がっている。旅人は絶体絶命。ところが旅人は、木の根にある蜂の巣から落ちてきた蜜を5滴飲んでうっとり。もっと飲みたいと、自分がしがみついている木の根を揺する。

 象は無常、空井戸は人生、木の根は生命のたとえ。龍は死、野火は老病、そして蜂蜜は欲望のたとえだそうだ。欲望に心をうばわれ、生死を忘れている、ということ。

「二鼠藤を噛む」という言葉もあって、これは白と黒の鼠が藤=木の根をかじっていること。「現世は無常で、刻々に死地に近づくことをいう」のだそうだ。同じようなことを西洋では、メメントモリ(死を忘れるな)といった。

にじゅうしせっき【二十四節気】

2013年03月24日 | な行
太陽年を太陽の黄経に従って24等分して、季節を示すのに用いる語。中国伝来の語で、その等分点を立春・雨水などと名づける。二十四節。二十四気。節気。


 春分・夏至・秋分・冬至は知っているけれども、ほかはあまりよくわからない。ときどき天気予報で「暦の上では立春ですが、まだまだ寒さが続きます」なんていうのを聞くぐらい。

『広辞苑』には表が載っている。これによると1年を春夏秋冬の4つに分け、さらにそれぞれを7つにわける。

 清明とか穀雨とか、寒露とか霜降とか、こういう言葉を知っていると、手紙を書くときに便利そうだ。手紙は時候の挨拶からはじまるのが定型。

 若いころは定型なんていう考え方をばかにしていた。型にはまったものなんて、知恵がないだけじゃなく、心もこもっていないんじゃないか、と思っていた。個性的であることが、とても価値あることだと信じていた。

 でも、中年をすぎて初老になって、定型の良さ、前例踏襲の良さも感じるようになった。個性的であることは、むしろ周囲にとってけっこう迷惑かも、と思うようになった。また、個性的であろうとすることが自己目的化すると見苦しい。

 定型というのは、多くの人の間で型が共有されているもの。「大暑をすぎました」と書けば、それだけで季節感を共有できる。定型はすぐれたコミュニケーションツールだ。