goo blog サービス終了のお知らせ 

永江朗のオハヨー!日本語 ~広辞苑の中の花鳥風月

短期集中web連載! 手だれの文章家・永江朗が広辞苑を読んで見つけた自然を表す言葉の数々をエッセイに綴ります。

なくせみよりなかぬほたるがみをこがす【鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす】

2013年09月08日 | な行
口に出す者よりも、口に出さない者の方がかえって心中の思いが切であるの意。


 うまいこというねえ。都々逸なんかに出てきそうな言葉だ。前半を省略して「鳴かぬ蛍が身を焦がす」だけ使うこともあるそう。

 少女マンガにはよくあるパターンだ。「好き、好き」と大騒ぎしている子よりも、教室の隅からじっと見つめている子のほうが……。純文学でも、忍ぶ恋がよく題材になった。

 感情は、言葉にしてしまうと、ほんとうのこととは少しズレて、うその部分ができてしまう。ほんとうの気持ちは言葉にできない。

 そもそもよくしゃべったり、自分の意志や感情を積極的に示すことは軽薄だとみなされていたのだ。「沈黙は金、雄弁は銀」とか、「巧言令色鮮(すくな)し仁」とか、西洋でも中国でも、おしゃべりでポジティブな人間は、沈思黙考型の人間に比べて劣るとされてきた。

 ところが最近はどうだ。経営者は強いリーダーシップを求められ、就職活動では明るく積極的で自己アピールのうまい学生ばかりが内定をとる。鳴く蝉が受ける時代なのだ。鳴かぬ蛍の情熱は誰もわかってくれない。


このブログが本にまとまりました! 

ながしお【長潮】

2013年09月07日 | な行
小潮近くの、干満の差が小さく、動きがゆるやかに感じられる潮。


 潮が干たり満ちたりを潮汐(ちょうせき)という。潮汐は月と太陽の引力によって生じる。メカニズムを調べると、たいへんおもしろい。

 月と地球は、たがいの引力と回転による遠心力でつりあっている。でも、地球は球体なので、場所によって月までの距離と方向が違う。月に近いところでは引力が大きく、海水が月の方に引っ張られる。その反対側は遠心力が大きいので、海水は月と反対側に膨らむ。つまり月に近いほうとその正反対のところでは海水面が盛り上がる。満潮だ。そして中間のところは凹んで干潮となる。地球はバスケットボールよりもラグビーボールに近い。

 潮汐に影響しているのは月だけじゃない。太陽も関係がある。でも太陽はうんと離れているので、影響力(起潮力という

)は月の半分以下だ。月と太陽が同じ方向か正反対にあると潮汐は大きくなり、地球から見て直角に並んでいると潮汐は小さくなる。これが大潮と小潮だ。

 海が盛り上がったり凹んだりするくらい月と太陽の影響力は大きいのだから、人間だっていろんなところで影響を受けて不思議はないと思うのだけれど。


このブログが本にまとまりました! 


ながめ【長雨・霖】

2013年09月06日 | な行
長く降り続く雨。和歌などで多く物思いにふける意の「眺め」にかけて用いる。


「長雨(ながあめ)の約」なのだそうだ。「五月雨(さみだれ)の称」とも書かれている。

「長雨(ながあめ)」は「幾日も降り続く雨。淫雨。霖雨」。「五月雨」は梅雨のこと。

「眺め」を見ると、「ながめること。つくづくとみつめて物思いにふけること」とあり、『大辞泉』では用例として「花の色は移りにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに」が引かれている。小野小町の歌だ。

 しとしとと降る雨を、縁側からぼんやりと見ている美女の姿が目に浮かぶ。つまらないことで思い悩むうちに、人生のピークは過ぎてしまった。容色の衰えを自覚し、嘆いてみても、いまさら遅い。

 内向的な女性の歌だと思っていたけれども、そうではないのかもしれない。「花の色は移りにけりな」なんて、流行りものに次々と飛びついたバブル時代みたいだし。「さんざん浮かれて遊んでいたら、私もすっかりオバサンになっちゃったわ」みたいな感じかも。


このブログが本にまとまりました! 

ねのひのあそび【子の日の遊び】

2013年06月19日 | な行
正月初子の日に、野に出て小松を引き若菜を引いて遊び、千代を祝って宴遊する行事。小松引き。


 その年の最初の子(ね)の日に、野原で小松を引っこ抜いたり、若菜を摘んで宴会をした、ということか。平安時代のピクニックである。しかし初子といえば真冬である。寒いのである。よくアウトドアで遊ぶ気になるものだ。平安時代にはヒートテックもダウンジャケットもない。それとも、小松を引き、若菜を摘むのと、宴会をする場所は別か。室内に引いてきた小松を飾り、摘んできた若菜で鍋でもやったのだろうか。

 小松を引くのも、若菜を摘むのも、見方を変えると野良仕事、労働である。それが「遊び」と名づけられると、なにやら楽しい気がしてくる。しかも「千代を祝う」という重要な行事になるのである。宗教的な行事でもあると同時に、政治的な行事でもある。

 これを現代に応用するとどうか。労働だと思うからげんなりする。「働かされている」という気分になる。そこで、すべての労働を「遊び」と呼び変えてはどうか。掃除・洗濯は「掃除の遊び」「洗濯の遊び」と呼ぶ。「今日は朝から晩まで外回りの営業の遊びをした」といえば、「疲れちゃったけど、楽しかったなあ」とならないか? やっぱり、ならないか。

のちのひな【後の雛】

2013年03月29日 | な行
春の雛祭に対して、秋の9月9日(菊の節句)、または8月朔日に飾る雛。秋の雛。

 雛祭の秋バージョンがあったとは。春が桃の節句なら、秋は菊の節句。どうして人形業界は「雛祭は春だけじゃなくて秋にもありますよ」とアピールしないのだろう。秋用の人形を商品化すれば、孫にお金をかけたくてしかたないおじいちゃん・おばあちゃんが、買ってくれると思うのだけど。狭いマンションに住む若いおとうさん・おかあさんにとっては大迷惑だが。

 そういえば秋には菊人形がある。菊人形というと、そのときどきの話題の人を模したものが新聞やテレビのローカルニュースで取り上げられたりする。なんとなく安っぽくて時代おくれなものというイメージがある。『広辞苑』の「菊人形」の項を見ても「菊の花や葉で飾りつけた人形の見世物。多く歌舞伎狂言に取材。明治時代には東京団子坂・国技館(両国)のものが有名。菊細工」としか書いていない。もしかして、あのルーツは後の雛なのか。

 菊の節句は重陽(ちょうよう)ともいい、五節句のひとつ。他の4つの節句(1月7日、3月3日、5月5日、7月7日)にくらべていまひとつマイナーだ。「重陽の節句を盛り上げよう」キャンペーンでもやろうか。