鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

岐阜から犬山へ

2010-09-12 | 鉄道の旅


2 0 1 0 年 9 月 5 日 ( 日 )

午 前 9 時 2 0 分

岐 阜 公 園



岐阜城を登城して体力の限界を感じた私は、ロープウェイで山を下りました。
公園で一休みしたあと、岐阜駅前に戻ることとしました。


戻りは、行きと同じ路線バスです。
バスの終点はJR岐阜駅北口でしたが、とりあえずきちんとした食事をしたかったので、店の少ないJR岐阜駅までは行かず、そのひとつ前のバス停・名鉄岐阜駅で降りることとしました。
名鉄岐阜駅近くのマクドで朝マックを食し、次の目的地・犬山城へ向かいます。



午 前 1 0 時 3 5 分

J R 岐 阜 駅


犬山城の最寄駅・犬山遊園駅へは、名鉄岐阜駅から名鉄各務原線で一本で行けます。
ですが私は、18きっぷを有効活用すべく名鉄は避け、近くにあるJR岐阜駅まで徒歩で移動。

岐阜駅からJR高山本線を利用します。

乗り込む列車は、10時46分発普通列車・多治見行きです。
途中の美濃太田駅から太多線に直通する列車です。
しかし今回はそこまでは行かず、岐阜駅から5駅目の鵜沼駅で下車します。

ここからは名鉄を利用します。
JR鵜沼駅と同じ建物内にある名鉄新鵜沼駅からは、名鉄犬山線に乗り換え。

新鵜沼駅は、名鉄犬山線の終点であると同時に名鉄各務原線の起点でもあり、両者は直通運転しています。
なので名鉄岐阜駅から新鵜沼、そして1駅先の犬山遊園までは電車1本で来られます。

ともかく11時19分発の急行電車に乗り込んで、犬山遊園駅へ。

新鵜沼を出ると、木曽川を渡り・・・わずか1分で犬山遊園駅へ。
名鉄の乗車時間はわずか1分に終わってしまいました(^_^;)




午 前 1 1 時 2 2 分

愛 知 県 犬 山 市

犬 山 遊 園 駅 を 出る


暑い。

この当時の岐阜県は、日本一暑かったのです。
岐阜県東部の多治見市では気温40度を超え、最高気温の日本記録を塗り替えていたというときのこと。

前日風呂に入りそびれてしまったこともあり、水風呂に入りたい。


そのようなことを思いながらも、犬山城を目指します。

犬山遊園駅から木曽川に沿って歩くと、画になる犬山城の姿が目に入ってきます。



木曽川のそばにそびえ、木曽川を天然の要害とする犬山城。
同じく長江のほとりにそびえる白帝城になぞらえられています。


木曽川のほとりを歩いていると、「犬山温泉」の文字も目に入ってきました。
しかし見たかぎりでは、ひとっぷろというところはなさそうです。


風呂に入りたい・・・




午 前 1 1 時 4 0 分

犬 山 城 に 到 着




入浴への渇望を心に持ちながらも、犬山城の登城口へと到達しました。

まずは、登城口のそばにある観光案内所に入ります。
もちろん風呂の在り処を問うために。

そこの親切な職員の方が、「さらさくら」という施設があることを教えてくれ、またその所在を身振り手振り教えてくれました。
登城の後で行くこととしましょうか。


さらに登城の前に、昼食をとることにしました。

犬山城登城口の向かいにある「ことぶきや」さんに入店。
ファミレスやファストフードばかりで食事していた私は、この旅で初めてご当地グルメを食することにしました。



味噌煮込みきしめん、うまい!
八丁味噌の少し焦げたような風味が香ばしいです。


味噌煮込みを食べて、冷房の効いている店で休んで、体力を取り戻すことができました。
次はいよいよ犬山城へと突入します。



【今回の乗車記録】

岐阜バス 岐阜公園歴史博物館前 9時36分発
N80系統 JR岐阜駅行き
名鉄岐阜駅 9時46分着

【移動距離】3.4Km  【運賃】200円


JR岐阜駅 10時46分発
高山線 普通 太多線直通 多治見行き
鵜沼駅 11時07分着

【移動距離】17.3Km  【運賃】18きっぷ使用(通常は320円)


名鉄 新鵜沼駅(IY17) 11時19分発
(IY)犬山線 急行 知多新線直通 内海(KC24)行き
犬山遊園駅(IY16) 11時20分着

【移動距離】0.7Km  【運賃】160円

※運賃は乗車当時のものです。



日本100名城登城の旅・第10話へ続く。


朝駈けの岐阜城

2010-09-11 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 5 日 ( 日 )

午 前 5 時 4 9 分

J R 岐 阜 駅 北 口



夜行列車の移動で、早朝に岐阜駅にやってきました。
岐阜で下車した目的は、岐阜城【国指定史跡】の登城。

事前に調べたところによると、岐阜駅から岐阜城までは3Kmほどの距離があるようです。
寝不足の中、3Kmの行軍はなかなかキツいものがあります。
空腹の状況下、周囲には開店しているような飲食店も見当たりません。
初めて訪れた街で、駅のバスプールを離れるような冒険はせず、ひたすら始発のバスを待つこととしました。


岐阜城へと向かう岐阜バス・高富行きの車に乗り込み、6時18分に出発。




午 前 6 時 3 1 分

岐 阜 公 園 に 到 着


岐阜公園に着くと、市民の皆さんがラジオ体操をされていました。
その横を申し訳なさそうに通り過ぎ、岐阜城の天守閣を目指します。



今いるところから、山のてっぺんまで歩くというわかりやすい構図。
只今より城攻めをする足軽のごとく、胸が高鳴ります。

ただ、登山道が見当たりません。
登山道を探して岐阜公園内をさまようことに。



公園内に立っている板垣退助の銅像。
板垣は岐阜で遊説中に暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死なず」という名言を残したとされています。
・・・が、このセリフはどうもフィクションであるといわれています。



信長居館跡は、発掘調査中。
工事用のビニールシートで覆われていました。



山頂へはロープウェイで一気に登ることができるのですが、早朝からは動いていません。



公園内をうろうろすること数分、ようやく「馬の背登山道」を見つけました。
この道は、途中で「瞑想の小径」という登山道に分かれているようです。



さあ、このまま山頂にある天守めざして進もうと勇んでいると・・・



木々がうっそうと茂って、ほんとにいのししが出そう・・・
なにせ「美濃のマムシ」の城だから、マムシなんか出たらいやだな・・・
人通りも少ないし・・・

ここは勇気ある転進あるのみ。

別の登山道を探してみます。
岐阜公園の外れのほうにも登山道があるようなので、そちらを進むこととしました。



公園を出て住宅街に入ったところにある「七曲登山道」へ。
「七曲」とは、天守に行くまでにカーブが七つあるということらしいです。
事前に調べたところでは、この登山道が一番ラクだといいます。



はじめは傾斜が急な土の坂。



そのうち石段に変わっていきます。
この石段が意外とキツイ。

もう汗ダックダクでヒィヒィゼィゼィいいながら登ります。
風呂も入ってない、朝飯も食べてない私に、地元民は涼やかな挨拶を交わして下りていきます。


寝不足&空腹の私は、ロープウェイからの合流地点あたりであっさりと体力の限界を迎えてしまいました。
ちょうど休憩するスペースがあったので、ここで休憩をとることに。
セブンティーンアイスの自販機から、本日最初の食事をいただき、再出発。




天守に近づくにつれ、石段の一段がきつくなってきます。





登り始めてから約1時間、ついに天守が見えてきました。


岐阜城は、もと稲葉山城といい、鎌倉時代に築城されたとされています。

戦国時代、「美濃のマムシ」と称された齋藤道三が主君を追放して乗っ取り、城下を整備しました。
また道三は、娘を隣国・尾張国に嫁がせました。
この娘・帰蝶(きちょう)の夫が、のちの織田信長です。

齋藤道三は、嫡男・義龍(よしたつ)と争って敗死。
義龍は、信長の侵略をことごとく防いでいましたが、若くして急死してしまいます。
義龍の嫡男・龍興(たつおき)が継ぎましたが、度量は父に遠く及ばず、美濃国、稲葉山城はほどなく信長のものとなりました。

信長は、稲葉山城の縄張りを変更して新たに城を築きました。
また、この地を「岐阜」と改名し、居城を尾張・小牧山城から岐阜城に移しました。
この地より「天下布武」を掲げ、天下盗りに名乗りを挙げたのです。



天守に入れるのが9時からということで、山頂で休憩。
ときおりスズメバチが飛んでいるのが見えます。

山頂でたたずむ地元の翁の会話を聞くと、
「馬の背(登山道)にもスズメバチいるなぁ」

・・・あの道通らなくてよかった。


9時になったので、天守に入りました。
天守は鉄筋コンクリート造りで、内部は撮影禁止なので、画像はとくにありません・・・

ですがてっぺんからのながめは格別!!





戦国時代には、遠く那古耶(名古屋)のほうまで見えたといいます。
齋藤軍は織田軍の動きがよくわかったことでしょう。


すぐそばの資料館で100名城スタンプをもらう。

 撮影地:岐阜城ロープウェー休憩所

39番、岐阜城! 天下ニ武ヲ布ク!!


休憩所で枝豆ソフトクリーム(300円)を食す。うまい。
そして下山。別のルートで帰ろうかと思いましたが・・・



「無理です」と断言されるとは。
スズメバチも出るっていうので・・・金銭面の憂慮をすることなく、ロープウェーでの下山を即決しました。


帰りのロープウェーは私の他に乗客はなく、女性アテンダントひとりのみ。
その女性は元モーニング娘。の後藤真希に似ててなかなかかわかったのですが、無駄口は一切なくただただ淡々とガイドをするだけ。
ガイドお決まりのセリフが一瞬途切れたので、「終わりですか?」と声をかけたのですが、無言で手を2度ほど振って、また淡々とガイドを始めました。

ガイドが終わったところで、ちょうど到着・・・。



最後の最後でなんだかモヤっとしたものを心に抱えながら、岐阜城を後にしたのでした。



【今回の乗車記録】

岐阜バス JR岐阜駅バスプール・11番乗り場 6時18分発
N80系統 高富行き
岐阜公園歴史博物館前 6時30分着
【移動距離】3.4Km  【運賃】200円


【今回の下山記録】

岐阜観光索道 金華山頂駅 9時10分発
金華山ロープウェー 下り
金華山麓駅 9時13分着
【移動距離】全長 599m 高低差 255m  【運賃】600円

※運賃は当時のものです。



日本100名城登城の旅・第9話へ続く。


ムーンライトながら

2010-09-10 | 鉄道の旅


2 0 1 0 年 9 月 5 日 ( 日 )

午 前 0 時 0 1 分

神 奈 川 県 小 田 原 市

小 田 原 駅 改 札 口




小田原駅前のネットカフェで1時間半ほど時間をつぶし、ふたたび小田原駅に戻ってきました。

時刻のほどは、日付が変わって午前0時。



1日乗り放題の乗車券である青春18きっぷを有効活用すべく、日付の変わる時間を見計らって改札口を通ります。



乗り込む列車は、0時31分発の快速ムーンライトながら81号 大垣行き。
ですが今回は大垣までは行かず、途中の岐阜駅で下車します。



東海道線ホームの待合室で待つこと約20分、くだんの列車はやってきました。



生まれてはじめての撮り鉄に挑んだのですが、失敗。
停まっている列車の方向幕しか撮れませんでした。
撮り鉄は難しいのぅ。



ここで補足説明。

「青春18きっぷ」 キング・オヴ・割引きっぷ 5日分11,500円(現在は11,850円)
JR線のすべての普通電車が(快速、特快なども)乗り放題という貧乏旅行には欠かせない切符。
5日分で1枚のため、1日あたり2,300円(現在は2,370円)という破格の安さ。
ただし、新幹線や特急に乗るときは、18きっぷさんはまったく使えず、特急料金だけでなく乗車料金も取られてしまいます。

「ムーンライト」  夜行の普通電車
全車指定席ですが、指定席券は510円(現在は520円)とお安い。
18きっぷと組み合わせれば、東京から北九州の小倉まで2,810円(現在は2,890円)で行くこともできてしまいます。
そのため、特にムーンライトながらは、指定席券が完売になりやすく、繁忙期では販売開始1分で完売ということすらあったりします。

ムーンライト号は現在3路線2路線走っています。
 ・ムーンライトながら 東京~大垣<東海道線>
 ・ムーンライトえちご 新宿~新潟<高崎線・上越線・信越本線>(北陸新幹線開通を契機に事実上の廃止状態となっています)
 ・ムーンライト信州  新宿~白馬<中央線・篠ノ井線・大糸線>

ここで、ムーンライトながらに乗車する場合、東京駅の発車が23時10分。
なので東京駅で18きっぷを提示してしまうと、18きっぷを2回分使ってしまうことになります。
これはもったいないことです。
そこでながらに乗車する場合は、日付が変わって最初の駅である小田原から乗るのがベターとされています。

ちなみにムーンライトえちごは高崎、ムーンライト信州は立川が日付変更後の最初の駅です。



小田原城登城から約7時間、待ちに待ったムーンライトながらに乗車します。

押さえた指定席は通路側です。
指定席券は完売となっているため、理論上空席はありません。そして実際空席はなかったようです。

座席の並びは、【2席-通路-2席】となっています。ありていに言えば、せまい。
隣には人が座っています。隣人とぶつかる蓋然性大。
通路側の座席。
リクライニングは30度くらいしか倒れません。
車内の照明は防犯のため消えません。
なにより、5時間という微妙な乗車時間。

絶対眠れねぇな。
てか絶対寝させてくれねぇな。


さらに隣の席の男が、眠りながら徐々に体を寄せてくる始末。

睡眠を半ばあきらめて、「ケータイ国盗り合戦」で「国盗り」しながら時間をつぶすこととしました。


初めて知ったのですが、途中の浜松駅とかで30分くらい停車するのです。
おそらくは貨物を通過させる措置なのでしょうか。
なのに、乗降客の多い名古屋駅には5分くらいしか停まりません。


名古屋に着く頃には、すっかり夜が明けていました。
乗客のほとんどは、名古屋駅でぞろぞろ降りていきました。




午 前 5 時 4 4 分

J R 岐 阜 駅 に 到 着


岐阜駅で下車した人はごくわずか。
早朝の駅は、中も外も閑散としていました。



閑散とした駅前に、やけに輝く黄金の織田信長像。
JR岐阜駅北口には、バスプールが整備されててはいますが、朝飯が食べられそうな店は見当たりません。
寝不足と空腹という状況で、信長が城主であった岐阜城に挑もうということになりそうです。



【今回の乗車記録】

JR小田原駅 0時31分発
東海道線 快速 ムーンライトながら81号 大垣行き
岐阜駅 5時44分着

【移動距離】326.1Km  【運賃】乗車券 青春18きっぷ使用(不使用の場合は5,460円) 指定席券 510円

※運賃は乗車当時の金額です。




日本100名城登城の旅・第8話へ続く。


夜の小田原

2010-09-10 | お散歩


2 0 1 0 年 9 月 4 日 ( 土 )

午 後 5 時 0 0 分

神 奈 川 県 小 田 原 市

小 田 原 駅 西 口



小田原城【国指定史跡】の登城を終え、小田原駅前に戻りました。

このあとのこの日の予定は・・・なし。
いや、正しくは、小田原駅から列車に乗って西へ向かいます・・・0時31分発の列車で。

というわけで、約7時間半のあいだ、小田原の地で待機することに。



時間をつぶすべく、小田原駅周辺をぶらり。



駅西口に立っている北条早雲公像

北条早雲は、本名を伊勢盛時といい、もとは京都に住まう幕府の役人であったといいます。
彼自身は「北条」姓を名乗ったことはありませんでしたが、本稿では「北条早雲」と称します。
早雲の叔母は今川家に嫁いでおり、伊勢家と今川家はほぼ同等の家柄であったそうです。

今川家に家督相続問題が生じたとき、早雲は京より下向して問題に介入し、叔母の子である今川氏親を当主に据えることに成功しました。
早雲はこのときに駿河東部にある興国寺城を与えられました。

その6年後、隣国伊豆に攻め入り、堀越公方(伊豆堀越に御所を構えた室町将軍家の一族)足利茶々丸を滅ぼし、伊豆を制圧しました。
伊豆を本拠地とした早雲は、細かい税を撤廃するなどの手厚い民政を施したといいます。
また早雲は、一国の統治者でありながら「守護」を名乗らなかったため、彼が最初の戦国大名であるとされています。


そしてこの銅像は、老齢となった早雲が「火牛の計」で小田原城を乗っ取ったシーンをモチーフとしているようです。

伊豆を制した早雲の野望は尽きず、その矛先を相模へ向けます。
相模の要衝・小田原城の城主は大森藤頼

まず早雲は、藤頼に贈り物をするなどして親しく付き合いました。
藤頼が警戒心を解いてきたところで、早雲は国境付近で狩猟を催します。
鹿が逃げて国境を越えたため、早雲は藤頼に対し「鹿が境を越えたので、勢子(狩猟などで獲物を追い立てる役目の者)を入れさせてもらいたい」と依頼し、藤頼は承諾しました。

早雲が何度も狩猟し、そのたびに勢子を入れる。
藤頼はすっかり油断してしまいました。

そのときを見計らって、早雲はいつもどおり勢子を越境させます。
しかしこのときは、勢子に扮した足軽だったのです。
早雲は小田原城下に攻め込みます。
さらに、牛の角にたいまつをつけ、大勢の兵士が迫り来るかのように見せたのです。
慌てた藤頼は、小田原城を捨てて逃亡したのでした。


実際は、早雲の独断で小田原を攻め取ったのではないようです。
大森藤頼が、盟主の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏から離反したため、早雲は扇谷上杉氏の要請を受けたという説が有力となっています。

攻め取った小田原城は、嫡男の氏綱に守らせます。
小田原城は北条氏の本拠地となり、代がかわるごとに拡張し、上杉謙信武田信玄も落とせず、22万の軍勢をもった豊臣秀吉も櫓ひとつ落とせなかった天下の堅城となっていきます。

さて早雲はさらに東へ。
このころになると扇谷上杉氏の勢力は衰えていました。
三浦半島の三崎城に立て籠もる三浦義同(よしあつ)は、3年もの間抗戦しましたが、

討つものも 討たるる者も 土器(かわらけ)
くたけて後は もとの土くれ


豪勇で知られた義同は、それにふさわしい辞世を詠んで最後の決戦に臨み、豪勇ぶりをあらわして自害。三崎城は落城しました。
水族館のある油壷という地名は、このときの城兵が流した血が油のようだったことからついたのだそうです。


ともあれ、早雲は一代で伊豆、相模を制しました。
早雲のあとを継いだ氏綱は姓を「北条」と名乗り、伊勢盛時は「北条早雲」と呼ばれています。




早雲公像から歩き、長居のできるファミレスを探します。
そして最初に見つけたのは、中華ファミレスのバーミアン

ここに着くたった3時間前、やはり中華料理の餃子の王将で昼食をとったので、あまり気乗りがしなかったのですが・・・このままうろつくのも暑いので、入店しました。
長居の口実としてはおなじみのドリンクバー、それととりあえずW焼餃子と唐揚げを注文して・・・・・・待機。

日本100名城の本を読んで、翌日のプランを考える。
TOEIC対策の単語の勉強。
買った絵葉書の鑑賞。
パンフレットの参照。

ひま。

この日は夜行列車に乗るため車中泊、当然お風呂には入れません。
そこで携帯の地図サイトで銭湯の場所を調べて、銭湯に入ってこようと思い立ったのでした。




午 後 9 時 4 0 分 ご ろ

バ ー ミ ア ン を 出 る


バーミアンを出て、調べた銭湯へ向かって歩き出しました。
しかしこれがこの旅しばらく続く苦難の始まりだったのです。


その銭湯は、小田原駅から約2キロのところにありました
近くに「万葉の湯」なる入浴施設があったのですが、入場料2,400円をケチり、遠くの銭湯を選択。


その途上、道を間違え、意外と人通りのない夜道にビビり、調べておいた銭湯に着いたのは午後10時25分。
銭湯の扉を開けるや、番台の翁は開口一番、

「終わりですよ」

どうしても銭湯に入りたい私はなおも食い下がったのですが・・・
さっさと寝たいであろうこの老人は聞く耳を持ちません。

さらに話を聞と、どうやらこのあたりの銭湯は午後10時でおしまいだというのです。

風呂抜きで夜行に乗りたくねぇよ~

そうだ、まだネットカフェがあった!
シャワーつきのところならば・・・!


携帯の地図で「ネットカフェ」「まんが喫茶」を検索するも、出たのは1件だけ。
さらにそこへ行っても、それらしい店舗が見つかりません。

ならば駅前をしらみつぶしに探すことにして、雑居ビルの看板を注視しながら散策。
そしてようやく1軒のネットカフェを見つけ入店。しかし、

「シャワーはありません」

これで1日目は風呂なし確定。



仕方なく、トイレに籠もる。
全身をギャツビーのペーパーボディタオルでぬぐって、不潔な体をごまかす手段をとるしかなかったのでした。





小田原城

2010-09-08 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 4 日 ( 土 )

午 後 3 時 0 0 分

神 奈 川 県 小 田 原 市

小 田 原 駅 前



小田原の「餃子の王将」で遅めの昼食を餃子を賞味し、店を出ました。
このあとは、この旅二つ目の城・小田原城【国指定史跡】に向かいます。


その前に、近くにあった北条氏政公・氏照公墓所へ寄りました。



小田原の街中から細い道に入ったところにある墓所。
繁華街のなかにポツンと残されたかのようでもありますが、となりはなんとラブホテルだったりします。


北条氏政は北条家4代当主で、「相模の獅子」と称された北条氏康の長男。

氏康が隠居し当主となると、弟の氏照氏邦氏規らの補佐をうけて版図を着実に拡大し、北条家の最盛期を築き上げます。
のち隠居し、子の氏直に当主の座を譲ったのちも、実権を握り続けました。

しかし、隣国の真田昌幸との紛争(名胡桃城攻撃)が生じてしまい、このときに事後処理を誤ってしまいます。
関白・豊臣秀吉は、自身が発した惣無事令(私戦禁止令)に反したという口実で、北条家の征伐(小田原征伐)に乗り出しました。

氏政や氏照、氏直らは、難攻不落の小田原城に籠城。

秀吉は、周辺の城砦をひとつずつ落としていき、小田原城は次第に孤立。
大軍で城を取り囲み、海上には水軍を展開し、周囲との交通を完全に断ちます。
さらに小田原城を見下ろすかたちで石垣山城を築きました。
小田原を落とすまでは、いつまでも軍を留める意思を明らかにしたのでした。

ついに小田原城の開城へ・・・。
氏政と氏照は、敗軍の責を負い切腹。
氏直は、高野山へと追放となり、関東に覇を唱えた北条家は滅んだのでした。

しかし北条家の民政はきわめて優れたものであり、小田原の民衆は江戸時代になってからも北条家の治世を懐かしんだといいます。



北条公墓所から小田原駅にもどり、さらに歩くこと約10分、小田原城址公園に到着。
いよいよ登城開始。

 

まず第一の門・馬出門を難なく通過。



第二の門・銅門(あかがねもん)まで到達。
門の装飾が銅板でできていたことから、その名が付いたといいます。

銅門を抜けると、歴史見聞館がありますが、とりあえず天守の攻略を優先するため、パスさせていただきました。

本丸への門・常盤木門



「常盤木」とは、年中緑を絶やさない常緑樹のことで、ここではそばにある松の大木になぞらえて名付けられています。

常盤木門をくぐると、本丸。いよいよ天守が現れます。


本丸では、甲冑や打掛けの衣装を貸してくれるところがあります。
1回200円と思いの外安いのですが、暑さと汗にやられている私にはなんとも無用の長物・・・やめとこう。


そして天守へ。



天守の脇、付櫓から天守に入れます。
入場料は、大人400円(中・小学生150円)。
歴史見聞館の共通券は、大人600円(中・小学生200円)。

ここでは400円の天守閣入場券を購入し、歴史見聞館はパス。
時間がなかったための措置であり、決して入場料をケチったわけではありませんよぉ~(^_^;)

小田原城天守閣は、鉄筋コンクリート造りであるので、城内部の撮影はなし。
いや、もともと撮影禁止なんですがね。

内部では、刀剣・甲冑・古道具などの展示や、小田原城の城主についての資料、とくに早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直の北条5代の治世を紹介する資料が並びます。
あと、和菓子のういろうも小田原が発祥だそうで、その資料もありました。
ちなみに私は、ういろうがあまり好きではないのです・・・。

最上階に到達。



東京ではあれだけ晴れていた空も、小田原に着いてからは雲がひろがってきました。
相模湾越しに伊豆大島が見えるそうだが、この日は見えませんでした。

それでも、涼風はとても心地よかったです。



最上階のおみやげ屋で絵葉書を買いました。

そして、100名城スタンプを探す。
スタンプ帳には、天守1階にあるとのことだが・・・

ない!どこにも置いてない!

お掃除のおばちゃんに尋ねてみると、「入口の受付でもらってください」
というので、入口の受付に戻ってみると、

受付の淑女がいねぇぞ!!

入口で20分近く待っていると、さっきのお掃除のおばちゃんが通りかかったので、スタンプを求めました。
おばちゃんは、受付にしまってあったスタンプを出してくれたのでした。

 撮影地:バーミヤン小田原店

23番、小田原城!

最後に、天守の撮影スポットを探して歩きましたが、成果なしで終了。
午後4時半ごろ、小田原城を後にしました。





地下から小田原へ

2010-09-08 | 鉄道の旅


2 0 1 0 年 9 月 4 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 2 0 分

東 京 都 千 代 田 区

和 田 倉 噴 水 公 園



大手門より皇居東御苑(江戸城三の丸)を出ました。

この日は晴天。
さわやかな晴天・・・とは程遠い、体力を奪われそうな暑い暑い日でした。

 

大手門から近い和田倉噴水公園に立ち寄って休息。
噴水の水しぶきから、わずかな涼をとりました。



さてこのあとは、小田原城【国指定史跡】で2度目の登城をする予定でした。

そして小田原までの移動計画は・・・

まず、徒歩で東京駅へ戻る。
東京駅からは、中央線新宿駅へ行き、駅ナカまたは駅周辺で昼食をとる。
その後、小田急線小田原駅へ向かうというものでした。


しかし、厳しい暑さの前に、計画は頓挫。


和田倉噴水公園から東京駅までは、およそ400メートル。
東京駅に向かって歩いたのですが・・・

途中にある東京メトロ二重橋駅の下り階段を発見するや否や、あっさりと地下へもぐってしまいました

(そういえば丸の内線から新宿に行けたな・・・)

こうして、東京駅に行くのをあっさり取りやめ、丸の内線のホームに向かって歩き始めました。
しかし案内標識を見ると、丸の内線まで400メートル以上もありそうでした。
別の標識を見ると・・・

千代田線は近いな・・・)

千代田線は、代々木上原から先は小田急線に直通運転しています。
そうなれば千代田線に乗って行こう。
だったら最初から二重橋駅から乗ればよかったのですが、丸ノ内線方面に地下道を歩き回ったため、二重橋駅の隣の大手町駅にたどり着いていました。


大手町駅より、千代田線に乗車。
途中新百合ヶ丘駅相模大野駅で電車を乗り換えて、一路小田原へ。14時30分小田原駅に到着しました。




午 後 2 時 3 0 分

神 奈 川 県 小 田 原 市

小 田 原 駅 に 到 着


小田原に着いてまずしたことは、小田原城の位置確認・・・
ではなく、手ごろな飲食店の検索。

小田原に行く前に昼食をする予定でしたが、移動経路を変更したために食事をとりそびれていたのでした。
そして見つけたのが、駅の近場にあった「餃子の王将」。
そこで餃子・チャーハン・唐揚げ・サラダのセットをいただきました。



「餃子の王将」を出て、いよいよ2城目・小田原城に向かいます。



【今回の乗車記録】

東京メトロ・大手町駅(C11) 12時37分発
(C)千代田線 多摩急行 小田急線直通 唐木田(OT07)行き
小田急・新百合ヶ丘駅(OH23) 13時18分着

小田急・新百合ヶ丘駅(OH23) 13時20分発
(OE)江ノ島線直通 各駅停車 藤沢(OE13)行き
相模大野駅(OH28) 13時31分着

小田急・相模大野駅(OH28) 13時32分発
(OH)小田原線 急行 小田原(OH47)行き
14時30分着

【移動距離】88.4Km  【運賃】990円



日本100名城登城の旅・第5話へ続く。


江戸城・後編~本丸へ

2010-09-07 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 4 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 5 5 分

東 京 都 千 代 田 区

江 戸 城 大 手 門



日本100名城をできるだけ回るという今回の旅。
幸先よく江戸城のスタンプをゲットした私は、そのまま江戸城の登城を敢行し、本丸をめざします。

しかし時節は9月の初頭。
気温は確実に上がり始めていました・・・




さてさて私は本丸へ向かうべく、大手門【再建】をくぐります。



外門(一ノ門)は高麗門という形式の門であるのに対し、



内門(二ノ門)は厳重な櫓門
そして内門と外門とで囲まれた枡形という空間で敵兵を包囲殲滅できる枡形門の形式です。

この枡形門、各地の城の重要通路でよく見られる構造です。覚えておきましょう(^^♪


大手門をくぐると、管理棟の職員から入園札を受け取ることとなります。
そしてほかに代金を支払う必要はありません。すなわち無料。
なお入園札は、城域を出るときに返却する必要があります。なくさないように気を付けましょう。



大手門から中に入ると、まず同心番所があり、



さらに大きな百人番所【現存】があります。

この百人番所は、大手門周辺の警備を担当した伊賀衆や鉄砲隊などの詰所だったといいます。
その名のとおり100人くらいの警備兵の詰所でしたので、建物がとても長いです。



それにしても暑い。

涼を求めて、番所近くの休憩所で休憩をとることとしました。
この休憩所でも100名城スタンプをもらえるようです。

休憩所で購入したアイスモナカを2個ほおばります。
休みながら天皇陛下のご公務を紹介するVTRを拝見しました。



快適な休憩所を出て、暑い暑い江戸城登城を再開。
大番所中雀門跡と来て、その先が本丸です。



本丸に入って、まずは回り道。
本丸のはずれの方には、人目を避けるかのようにひっそり建つ富士見櫓【現存】があります。



この富士見櫓も、現存する3つの櫓のひとつです。
現存する江戸城の遺構のなかではもっとも古いものといわれます。
そして隅櫓ではありますが、他の城の天守閣と比べてもまったく遜色ない威容を誇ります。まぁ、見づらいですが。
後に言及しますが、江戸城は天守閣が再建されないままでした。
そのためこの富士見櫓が天守閣の役目を担ったともいいます。

しかしながら本丸からは、門扉で封鎖されているため、近づくことはできません。残念。


本丸の外周を歩くと、



忠臣蔵の刃傷事件の舞台となった「松の廊下」も、今となっては草木が生い茂っているだけ。


本丸の大広場に築き上げられている天守台



江戸城は、かつて天守閣が将軍の代ごとに建て替えられていました。
しかし明暦の大火(振袖火事)で天守が焼け落ちてしまいました。
天守のみにとどまらず江戸八百八町の多くを焼き尽くした大火に際し、幕府は江戸市中の復興を優先しました。
その結果、天守閣は再建されずに時は流れていきました。

そして現在は、天守台のみが残っています。

さて、天守台からの眺めは・・・



天守の向こうは北の丸です。
現在は北の丸公園となっており、北側には日本武道館があります。
サンプラザ中野氏が歌う「光るタマネギ」の屋根ですね。



いっぽう天守台の南側。
江戸城の御殿が建っていたところであり、芝生の広場になっているところが女の園・大奥でした。



天守台を下りて、北へ。



桔橋はねばしで、いったん入園札を返します。

門が面する通りの向こうは北の丸。
ですが本日は、時間と体力の関係でカットさせていただきました。

それにしても石垣の高いこと高いこと。





平川門【現存】から再び入場。



再び入園札を受け取り、二の丸庭園をぜいぜい言いながら歩きました。


いやぁ~、暑いねぇ。


大手門で入園札を返し、退出。正午ごろに江戸城を後にしました。





江戸城・前編~皇居外苑

2010-09-06 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 4 日 ( 土 )

午 前 9 時 5 0 分

東 京 都 千 代 田 区

江 戸 城 ・ 皇 居 外 苑



旅の始まりの地は東京。
そして100名城登城の旅、最初の城は江戸城【国指定特別史跡】です!!


東京駅丸の内中央口から、広々とした行幸通りをまっすぐ歩いて10分。



江戸城の本丸をめざす前に、まずは皇居外苑を歩きます。



皇居外苑のシンボルともいうべき銅像・大楠公騎馬像(楠公像)です。

創業200年を迎えた住友家より献納された銅像です。
顔が高村光雲、甲冑と身体が石川光明山田鬼斉、騎馬は後藤貞行が制作した騎馬像で、「東京三大銅像」のひとつに数えられています。

騎馬のしっぽのところは空洞があり、そこには雀だか何だかがが巣をつくって棲みついていました。



楠公像のそばにある楠公レストハウスで、早くも最初の100名城スタンプをもらうことができました。

 撮影地:楠公像前のベンチ

21番、江戸城!

こういう番号があるスタンプというのは、やはり1番からスタートしたいというのが人情というもの。
しかし1番はなんと北海道の東の果て、根室に行かなければなりません。
「1番、根室半島チャシ群!」の名乗りを上げることができるのはいつのことだろう・・・?

とはいえ、こうもあっさりと最初のスタンプをゲットできました。
とても幸先がよいスタートを切ったといえるでしょう。



スタンプをゲットしたので、ゆるりと江戸城の登城を再開です。



まずは楠公像から桜田門【国指定重要文化財】へ。





とても広い枡形をもつ門は、現存する江戸城の門では最大の規模を誇ります。
幕末の大老・井伊直弼が水戸藩士らに暗殺された桜田門外の変でであまりにも有名な門。
現代となっては、大名行列ではなく、皇居ランナーがワラワラと出てくる門になってしまいました(^_^;)

それにしても「直弼」が一発変換できることを、この文章を編集しているときに知りました。世の中便利になったものよのぅ。


桜田門からお濠ぞいに歩くと、東京観光でも外せない二重橋に着きます。



手前側の石橋は正門石橋、もう1本の橋は正門鉄橋という鉄橋。
「二重橋」とは、この濠に架かる2本の橋をいう・・・のではありません!
本来の「二重橋」は、奥側の正門鉄橋のみを指すのです。
もともと正門鉄橋は、江戸時代は木造の橋でしたが、お濠からの高さがあまりにも大きいため、橋を2階建て構造にして造られていたことに由来します。

正門鉄橋の奥に見える櫓は、伏見櫓【現存】です。
江戸城に20基以上あった櫓のうち、現在も残っている3基のひとつです。

正門石橋の向こうには皇居正門があり、皇宮警察が寝ずの番をしております。



二重橋からお濠沿いに進むと、皇宮警察に厳重に守られた門があります。

 

この門は坂下門【再建】です。
この門でも、幕末に坂下門外の変という襲撃事件が起きています。
桜田門外の変後に幕府を主導した老中・安藤信正が、皇女和宮降嫁(和宮と将軍・徳川家茂との婚姻)に反対した尊攘派の浪士に襲撃された事件です。

なお、坂下門の先には宮内庁庁舎があります。


そして、さらにお濠沿いを行くと、



大きな二階櫓のたつみ【再建】、



さらにその先、大手門【再建】が構えています。
大手門こそ江戸城の正門。
その先は二の丸です。



この日は暑かったなぁ。