鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

駿府城~月曜の呪い

2010-09-19 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 6 日 ( 月 )

午 後 3 時 3 0 分

静 岡 県 庁



静岡駅から地下道と日陰の道を歩いて約10分、静岡県庁へ。



駿府城へ行く道を遮るかのように建っている県庁。
その脇道こそが駿府城への近道であり、かつ公式なルートとなっているのです。





駿府城(駿府公園)の入口に到達しました。
(当時は「駿府公園」でしたが、現在は駿府城公園となっています)


駿府城は、室町時代に駿河守護であった今川氏の築いた今川館をルーツとしています。
16世紀後半、武田信玄が今川との同盟を破棄し駿河に侵攻すると、今川館は廃棄されてしまいます。

信玄死した後、織田信長徳川家康は、武田を討伐して滅亡させ、駿河は徳川家康が領有しました。
家康は天正14年(1586年)駿府城を築城し、浜松城から本拠を移しました。
天正18年(1590年)に家康が関東に移封となると、のちに「三中老」のひとりとなる中村一氏が城主となります。

関ヶ原の戦い後に中村氏が伯耆(鳥取県)に加増移封となります。
慶長11年(1606年)家康が征夷大将軍を辞すると、駿府城は大御所の隠居城として大きく改修されました。
家康は隠居後も政治の実権を手放さなかったため、このころの駿府は江戸と並ぶ政治経済の中心でした。
家康の死後は、その十男・頼宜が城主となり、頼宜が和歌山へ移ると徳川秀忠の次男・松平忠長が城主となります。
忠長が処分されると駿府は直轄地となり、駿府城代が置かれました。



公園の入口からは、駿府城の二の丸となります。
二の丸は周囲を水濠で囲まれていましたが、このあたりは埋立てがあったところです。



近年復元された(たつみ)



同じく近年復元された二の丸東御門



東御門は、強大な権力を手にした戦国の覇者が居を構えるにふさわしい、堅固な枡形門となっています。
東御門と巽櫓に入るため、券買所へ向かうと・・・



あまりにも非情な現実。
東御門、巽櫓に入れないばかりでなく、駿府公園内にある紅葉山庭園にも入れませんでした。

こうなると気になるのは、100名城スタンプ。
手持ちのガイドブックを見ると、「東御門券買所」とあったのです。
券売所をよくよく観察しても、100名城スタンプは設置されていませんでした。

はぁ~~~~・・・
何が有給バンザイだよぉ(T_T)



仕方がないので、休業日に関係ないものを見ていくこととしました。



家康の隠居城とあって、駿府城にも徳川家康公銅像が立っていました。
駿府の家康像は、彼が生涯趣味としていた鷹狩りをしている様子をモチーフとしています。
それにしても、この日は家康の像を何体も見ています・・・まぁ、ほとんどが岡崎なんですけど。



「家康公お手植えのみかん」なんてものもあります。
家康像のすぐそばに植わっていて、フェンスで厳重に守られていました。
この2つは、少々見つけにくいところにありました。




天守があったところ。
現在は立て看板が立っているだけです。
天守は1635年に失火で焼け落ちたのち、再建されることはありませんでした。



100名城スタンプをあきらめきれない私は、なおも公園内をさまよいましたが、成果はありませんでした。
スタンプ帳の「駿府城」の欄はブランクのまま、駿府公園を後にしたのでした。



駿府公園を出て、かつての駿府城三の丸を歩きます。



二の丸と三の丸を隔てる水濠と、二の丸を取り囲う石垣。
平成21年(2009年)の地震で石垣が一部崩落したため、その部分の修復工事を行っていました。

お濠のそばにそびえ立つのは・・・



静岡県警察本部のビル。
まさに現代の駿府城なのかもしれませんね。





掛川駅所要事件

2010-09-19 | 鉄道の旅


2 0 1 0 年 9 月 6 日 ( 月 )

午 後 2 時 2 0 分

静 岡 県 掛 川 市

J R 掛 川 駅



「海道の名城」掛川城を登城。



大満足のままJR掛川駅に戻ってきました。



さて、この日に登城する予定の城は、残すところ駿府城のみです。
「駿府」すなわち「駿河国の府」、現在の静岡市にあります。
徳川家康も浜松から駿府に移ったように、私も東の静岡へと向かいます。


さて電車に乗る前に、トイレに寄っておかなければ。
これから乗車する東海道線は、電車の中にトイレがありません。
乗車前に用を足しておかないと、途中下車するハメになりますからね・・・誰彼のように。



おみやげ入りの紙袋を、小便器の上のスペースに置いて・・・
所用をなしているときに、事件は起きました。


紙袋、便器に崩落!

紙袋の中に入れていた各城のパンフレットが、濡れてしまいました(>_<)
救いだったのは、おみやげが落ちてこなかったことです。
まさか便器に落っこちたおみやげを差し出すわけにもいかないでしょうし。

崩落してしまった岐阜城のパンフレットは、残念ですが掛川駅で処分させていただきました。



そんな掛川駅所用事件の衝撃の中、14時36分発 東海道線 普通電車 静岡行きに乗車。


車中、浜松駅で買ったうなぎの骨せんべいを食べてみました。

 (左が骨せんべい)

開封直後、しょうゆの香ばしいにおいが鼻に伝わってきました。
なかなかににおいの強い食べ物であることがわかり、車内で封を切ったことを少し後悔しました。
いや、封を切ってしまったんだから、においが充満する前に食べてしまおう!ということで・・・

骨せんべい、なかなかよろし!

ただ、食べ進むうちに単調な味に飽きてしまい、4分の1ほど残してかばんにしまったのでした。


途中、かつて途中下車するハメになった島田駅を通過。
15時20分、静岡駅に到着しました。



静岡駅からは、看板の案内にしたがい駿府公園へ歩いていきました。
そこで待っていたものは、家康公の心無い仕打ちだったのです。



【今回の乗車記録】

JR東海 掛川駅 14時36分発
東海道線 普通 静岡行き
静岡駅 15時20分着

*所要時間 44分
*移動距離 49.1km  *運賃 18きっぷ使用(不使用の場合は820円)

※運賃は当時のものを掲載しています。





掛川城~海道の名城

2010-09-19 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 6 日 ( 月 )

午 後 1 2 時 5 6 分

静 岡 県 掛 川 市

J R 掛 川 駅



掛川駅からのびる駅前の通りを、ただただまっすぐ歩いていきました。
ものの10分もしないうちに、掛川城公園に到着しました。



四足門【復元】から中に入ります。
発掘調査で門の柱などの痕跡は見つかっていないそうですが、正保時代の絵図をたよりに復元されたそうです。


そういえばこの日は平日、観光客はほとんどいません。
掛川城をじっくり堪能できそうです。有給バンザイ!


管理所で入城料300円を支払います。(現在は410円になっています)
ここでの入城券で、天守閣と御殿の両方に入ることができます。




入口付近の隅櫓である太鼓櫓【復元】。
この櫓には大太鼓が据えられ、その音をもって時を知らせたといいます。
現在、大太鼓【掛川市指定文化財】は御殿の広間に移されて展示されています。
この櫓には入れません。

そして・・・



シャープなフォルムが特徴的な掛川城天守【復元】です。
その美しさはまさに「海道の名城」の名に恥じません。
天守は平成6年、当時の技術をもって木造で復元されました。
木造で復元された最初の天守なのだそうです。
掛川城の城主であった山内一豊は、関ヶ原の戦後土佐に加増移封された際、自分が建造した掛川城を模して高知城を築城したとされています。
そのため現存する高知城の天守を、復元の際に参考にしたそうです。


掛川城は、室町時代、駿河守護・今川氏が遠江への進出を狙って、家臣の朝比奈氏に築城させたところに始まり、以来朝比奈氏が代々城主を務めました。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦い今川義元が戦死し、子の氏真(うじざね)が継ぐと、今川領は武田信玄・徳川家康の軍勢に東西から挟撃されました。
掛川城は徳川軍に攻められますが、城主の朝比奈泰朝は半年間耐え抜き、和議で開城しました。
以後、徳川家康が天正18年(1590年)に関東に移るまで、徳川が領有し続けました。

家康が関東に移ると、豊臣秀吉の直臣・山内一豊が城主となりました。
一豊は掛川城を改修、拡張し、現在の掛川の礎を築きました。

関ヶ原の戦いののち一豊が高知へ移ると、譜代大名が何度も転封されてきました。
最終的には太田氏(江戸城を築城した太田道灌の子孫)がこの地を治めました。
幕末、安政元年(1854年)安政東海地震が発生、掛川城の建物は大半が倒壊し、多くの建物は再建されることなく、明治維新を迎えました。



天守の傍らには、「霧吹き井戸」が残っています。


桶狭間今川義元が戦死し、子の氏真が当主となると、西の三河では松平元康(徳川家康)が離反、独立しました。
家康は三河を掌握し、隣国の遠江に攻め込んできます。
さらには甲斐の武田信玄が同盟を破棄、駿河へ軍勢を進めてきました。
武田・徳川の東西からの侵攻を、今川軍は防ぎきることはできません。
氏真は本拠地の今川館(のちの駿府城)を放棄し、朝比奈泰朝が守る掛川城に逃れてきました。

そこに徳川軍が攻めかかります。
すると、城内の井戸より霧が出て、掛川城を徳川軍から護ったのだそうです。

掛川城は徳川軍の猛攻を半年間耐え、和議によって開城。
今川主従は同盟者・北条氏康のいる小田原へと退去したのでした。



天守に入らず城の周りを見ると、トゲトゲしい突起物があります。



忍びの者の侵入を防ぐ忍返しです。
そしてこの棟の微妙な出っ張りは・・・



中から石を落とす石落しです。
実際には石は落とさず、ここから鉄砲で射撃をしたといいます。


中に入ると、さすがは日本最初の木造復元天守です。
材木の香りがいまだ漂っていて、階段は傾斜が急で上り下りしづらいものとなっています。
現存の建造物ではないのですが、「城に来たのだなぁ~」という心持になれるのはとても素晴らしいです。




最上階より東の方向を眺めます。
天気がよければ、画像中央あたりに富士山が見えるようです。
それにしても、高楼を吹き抜ける涼風は心地よく、しばし旅の疲れを忘れさせてくれます。

・・・風を浴びてくつろいでいると、最上階に20名くらいの初老の男女が乗り込んできました。
すると、同じく高楼にたたずんでいた男性の老人がウンチクを披露し始めました。
この人、職員さんだったのか(~o~)。


掛川市は、早くから高齢者福祉を充実させる街づくりをしていたそうです。
ある日、ひとりの老女が掛川を訪れました。
その老女は掛川の市政に関心を寄せ、やがて掛川に移住してきました。
その頃、掛川城復元プロジェクトが立ち上がっていたのですが、資金が不足していました。
このときくだんの老女は、建設費11億円のうち6億円を寄付したのだそうです。

(職員さんのお話より)



次に、実際の藩政が行われた御殿へ向かいます。



掛川城二の丸御殿【国指定重要文化財】。
幕末の安政東海地震ののち、城主・太田氏が再建。
以来、現存しています。

靴を脱いで中に入ります。



奥の大書院は、城主の公的な政治の間。
城主と謁見する者は、手前の次の間で待機することとなっていました。



一方こちらは小書院
大書院の反対側にあり、城主のプライベート・ルームでした。



長囲炉裏の間の天井には、桔梗の家紋とかぶら矢の家紋が刻まれています。
いずれもこの御殿を再建した藩主・太田氏の家紋です。



御殿の裏方の廊下から天井を見上げます。
木柱を組み合わせる往時の技法にただただ感心。



御殿の縁側に座ると・・・
おやおや、先客がいましたな。



御殿から仰ぎ見る天守も、また見事!


最後に、御殿の受付職員にお願いして100名城スタンプをいただきます。



42番、掛川城!


掛川城二の丸美術館は月曜休館のため、城内を少し歩いた後、掛川城を後にしました。
当時の私は、掛川城についてあまり認識がなかったこともあり、正直あまり期待してはいませんでしたが・・・

「掛川城に来てよかった!」

心からそう思える、「海道の名城」でした。





家康と共に東国へ

2010-09-19 | 鉄道の旅


2 0 1 0 年 9 月 6 日 ( 月 )

午 前 1 0 時 4 5 分

愛 知 県 岡 崎 市

愛 知 環 状 鉄 道 中 岡 崎 駅



徳川家康の生まれた岡崎城



はじめての城攻め旅。
これまで江戸城、小田原城、岐阜城、犬山城、名古屋城と見てきました。
そのほとんどが、家康にまつわるお城です。

江戸城は、江戸幕府の本拠地。
小田原城は、豊臣秀吉小田原征伐でともに攻め寄せた城。
犬山城は、秀吉に服従する前の小牧長久手の戦いで陣を構えた場所。
名古屋城は、家康の主導による「天下普請」で作り上げた城です。

岐阜城は・・・・・・。

そしてこの日向かう城は、掛川城駿府城

掛川城は、家康の今川攻めで最後に開城させた城。
駿府城は、将軍位を返上した家康の隠居城です。

家康は岡崎で起ち、東へ東へと勢力を伸ばしていきました。
私もこれに倣うかのように、東へと進んでいきます。



そういうわけで私は、朝の散歩で探り当てた中岡崎駅に来ました。
愛知環状鉄道線 岡崎行きに乗車します。
岡崎駅から、東海道線を東に進みます。



10時59分、わずか5分で岡崎駅に到着。
愛知環状鉄道のホームは0番線で、改札を通ることなくJR線へ乗り換えできました。

今度の電車は、11時04分発 東海道線 快速電車 豊橋行き
停車駅は、蒲郡、三河三谷、豊橋です。

名古屋方面からやって来た電車に乗車し、11時26分、豊橋駅に到着しました。



豊橋駅からは、11時40分発 東海道線 普通電車 浜松行きです。
豊橋から東は静岡県、各駅停車の電車のみが走る区間に入ります。
乗換時間は14分ということで、改札を出ることもなくそのまま電車に乗り込みました。
この日の18きっぷは、いまだに改札印が押印されていません。

豊橋駅を発って、



途中で浜名湖を通過。



浜名湖競艇も車窓からよく見えました。

12時15分、浜松駅に到着。



浜松といえば、浜松城
岡崎から領国を広げた徳川家康が元亀元年(1570年)に居城を移し、当時の地名「曳馬」から改名しました。
家康はのち天正14年(1586年)に駿府城に拠点を移すまでの16年間を、この浜松城で過ごします。

私はこの浜松城には・・・寄りません。100名城ではないのでスルーさせていただきました。
(平成29年4月9日付で、浜松城は「続日本100名城」に選定されました)

ただ、浜松駅では17分の待ち時間がありました。
ここでおみやげを買い、昼食で立ち食いそばをいただきました。



おみやげは、浜松ぎょうざせんべい
浜松は元祖「餃子の街」宇都宮に餃子戦争を挑み、ついに宇都宮を下し日本一の「餃子の街」にのし上がりました。
浜松といえば、「夜のおやつ」うなぎパイというキングがおりますが、これではあまりにもベタなので、ぎょうざせんべいにしてみました。

また、私自身のおやつとして、うなぎの骨せんべいも購入してみました。
賞味はのちほどということで・・・。



12時32分発 東海道線 普通電車 興津行きに乗車。
浜松から6駅目の掛川駅で下車しました。

改札口にて、この日の押印がない18きっぷを提示・・・。
愛知環状鉄道に乗って、岡崎からそのまま電車に乗った旨を申告して、問題なく出られました。
この時点でようやく、この日の18きっぷへの押印がなされたのでした。



掛川駅からは、掛川城まで歩いて向かうこととしました。



【今回の乗車記録】

(A) 愛知環状鉄道 (03)中岡崎駅 10時54分発
愛知環状鉄道線 普通 岡崎行き
(01)岡崎駅 10時59分着

JR東海 岡崎駅 11時04分発
東海道線 快速 豊橋行き
豊橋駅 11時26分着

豊橋駅 11時40分発
東海道線 普通 浜松行き
浜松駅 12時15分着

浜松駅 12時32分発
東海道線 普通 興津行き
掛川駅 12時56分着

*所要時間 2時間02分(移動時間 1時間26分 待ち時間 36分)
*移動距離 101.0km  *運賃 220円(JR線内は18きっぷ使用、不使用の場合は1,620円)

※運賃は当時のものを掲載しています。