鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

関宿城で小さなリベンジ

2019-11-27 | 城郭【その他】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 2 4 日 ( 日 )

午 後 6 時 0 6 分

千 葉 県 野 田 市

関 宿 城 博 物 館



本佐倉城のリベンジから1週間後の日曜日。
この日は柏ナンバーのかわいいクルマに、女王様を乗せております。
女王様は遊戯の戦績が振るわなかったようで、私とともにドライブに行くことになったのです。


夕刻。


「夕空を撮りたい」


仰せに従い、柏市内から夕空を見渡せる場所にクルマを走らせることにしました。
関宿城に行こう!」という考えを秘めつつ。


関宿城は、柏のお隣・野田市にあります。
チーバくんでいうなら、黒い鼻の部分が野田市
そして関宿城は、黒い鼻の先っちょにあるのです。
柏から関宿城までの距離は30km以上、埼玉県の春日部よりも遠いのです。


行先を告げると女王様が拒絶されるので、内密に・・・。
国道16号を通ると女王様に感づかれるので、あくまで裏道で・・・。



女王様が私の真意に気が付いたときはもう遅く、



関宿城に到着したのでした。







関宿城は利根川江戸川の分岐点。
遮るものもなく夕空を撮れます・・・が、女王様はクルマの外に出てきません。

寒い。

寒さに弱い女王様は、車内から夕空を撮れる場所をお望みだったのです。
意に反して遠いところに連れてこられた女王様はいたくご立腹。



そんな女王様を尻目に、私は小さなリベンジを決行します。
それは・・・



関宿城、攻略!

前回に訪れた関宿城と、茨城県の逆井城で、私は「城攻め」するのを忘れてしまったのです。
今回の旅のテーマ「ちばらぎリベンジ」ということで、小さいながらもこの2城のリベンジは成し遂げなければならなかったのです。

おや、関宿城以外にも攻略できる城がある・・・?



逆井城、攻略!
関宿城にいながら、対岸にある逆井城も攻略できてしまいました。
日を改めて逆井城に行こうと考えていましたが・・・行かなくてもいいや。





近くの空き地からライトアップされた関宿城を撮影して、柏に戻りました。





ちょっとだけ関宿城

2018-08-04 | 城郭【その他】


2 0 1 8 年 4 月 1 5 日 ( 日 )

午 後 3 時 5 5 分

千 葉 県 野 田 市

関 宿 城 博 物 館



逆井城【茨城県指定史跡】から、利根川を渡って千葉県へ戻りました。
時刻は午後4時前と、城を訪れるには時すでに遅しの感はありましたが、あえてもう1城へ。

千葉県野田市関宿(せきやど)
チーバくんのお鼻の先っちょにあるのが・・・



千葉県立関宿城博物館です。







博物館の建物は、かつての関宿城にあった御三階櫓をもとにしているのだそうです。
残っている古い記録をもとに外観復元をしたようで、江戸城富士見櫓【現存】を模しているようです。
しかしその記録が少なく、また立地もかなりずれているので、お城業界では模擬天守(史実に基づかない天守)とされています。




開館時間は午前9時から午後4時30分までで、入館終了時刻は午後4時までとなっています。
タッチの差でなんとか中に駆け込んだ、そんな感じでした。

関宿の地は、利根川江戸川が分岐する水運の要衝地。
そこで展示も、関宿城・関宿藩と、関宿の水運に関する内容となっています。


閉館まで30分弱。
今回は展示を軽く見るだけとして、御三階櫓の最上階へ。



最上階から北東を望みます。
関宿城の城門が移築現存している逆井城は、だいたい10km弱の距離です。



北西方向。
銚子で太平洋に注ぐ利根川と、東京湾へと注ぐ江戸川が分岐しています。
関宿城は分岐した江戸川を阻むかのように築城されていて、水上交通の要衝となっていました。


関宿城は、長禄元年(1457年)、古河公方家臣・簗田(やなだ)成助によって築城されたとされています。

天文15年(1546年)の河越夜戦に勝利した北条氏康が台頭し、古河公方家への圧力を強めていました。
天文21年(1551年)、古河公方・足利晴氏は北条氏の圧力に屈し、北条氏綱の娘との間に生まれた義氏に家督を相続させられてしまいます。
永禄元年(1558年)には北条氏の画策により、足利義氏が関宿城に移り、かわりに城主だった簗田晴助には古河城が与えられることとなりました。

北条氏康は関宿城を重要視し、「関宿城を抑えることは、一国を得ることに等しい」と評していたそうです。

永禄3年(1560年)になると越後の長尾景虎(上杉政虎・謙信)の軍勢が越山し関東を席巻、翌永禄4年には小田原城を攻めました。
このとき景虎は、北条氏の血を引く義氏を追放します。
景虎は小田原の攻略が成らないまま兵を退き、鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉家の家督を継いで「上杉政虎」と名乗ることとなり、越後へと帰還します。

政虎の帰国後は、北条氏康が関東を奪還していき、簗田晴助を関宿城に戻しました。
その後北条氏は数度にわたり関宿城を攻め、天正2(1574年)簗田持助はついに開城、以後は北条氏直轄の軍事拠点となりました。

天正18年(1590年)の小田原征伐で落城。
関東は徳川家康の所領となり、家康は異父弟・松平康元を関宿城主としました。
以降、久松松平・能見松平・小笠原・北条・牧野・板倉などと主を目まぐるしく変えることとなります。
久世氏が城主のときに明治維新を迎え、廃藩置県により廃城となりました。





御三階櫓から南方を眺めます。
まあるい樹木が2本植わっているあたり・・・



このあたりが、かつての関宿城本丸だったところです。



博物館の外にある看板より。
治水の必要から江戸川の水流を変える工事を行ったため、関宿城の遺構は多くが取り壊されることとなったのです。



お次は関宿城の遺構をつぶさに拝見・・・といきたかったところですが、時間の都合でこの日は ジ・エンド。





逆井城~これぞ戦国の城

2018-07-22 | 城郭【その他】


2 0 1 8 年 4 月 1 5 日 ( 日 )

午 後 2 時 5 0 分

茨 城 県 坂 東 市

逆 井 城 址 公 園



平成29年(2017年)4月6日。
私がまだ「日本100名城登城の旅・第15弾~北日本完全制覇!?」を執筆していたころ。
日本城郭協会は、続日本100名城を選定しました。

そして平成30年(2018年)4月9日。
続日本100名城のスタンプラリーが、満を持して開始されました。

私がダラダラと続けていた「100名城登城の旅」は、残すところ50城となっていたのですが・・・
続100名城の100城が上乗せされ、訪れるべき城は150箇所になってしまいました。

今回の「100名城登城の旅」・・・もとい「100名城・続100名城登城の旅」第16弾は、関東地方の続100名城をちまちま攻略する「ア・ラ・カルト」的な旅をしてまいります。



やってきましたのは、逆井城【茨城県指定史跡】です。
読みは「さかさいじょう」
柏市民のみなさんにはピンとくるかもしれませんが、逆井城は柏市内ではなく茨城県の坂東市内にあります。


柏から高速を使って、利根川を越えて茨城県へ。
高速を下りてからはアイフォンさんのナビゲーションにしたがって、車で約1時間。
逆井城址公園に到着したのは、午後3時前でした。


駐車場に車を停めて歩いていくと、





しょっぱなから現れた二層櫓【模擬】。
戦国末期から江戸時代にかけて登場する隅櫓天守のもとになった建物です。

さて今回の逆井城は急きょ登城することになったので、大した準備も予習もしていませんでした。
観光協会などの施設に行くこともなく、手元に案内のパンフレットもありません。
頼みの綱は園内にあるだろうガイドマップなのですが・・・



駐車場付近にあった案内看板。
園内の様子はこんな感じだよ~というイラストが描かれているだけ。
これはナントカ櫓で、これはナントカ池で、というような余計な文字は一切なし。
潔いといえば潔いのですが、私のような不勉強な人間にとってはちょっときびしいですね・・・。

イラストの脇には、逆井城の沿革が記載されています。


逆井城は、下野(栃木県)南部に勢力を構えていた小山義政の五男・常宗がこの地を領して逆井氏を名乗り、宝徳2年(1450年)ごろ築城されたといいます。
その孫・常繁のころ、関東では北条氏が台頭していましたが、常繁はこれと対立する古河公方方につきます。
そのため天文5年(1536年)北条方の大道寺盛昌率いる軍勢に攻められ、常繁は討ち死に、その妻も城内で自害したといいます。
(逆井城落城の時期は、北条氏の勢力拡大の時期との兼ね合いから、争いがあります)

天正5年(1577年)、北条氏繁「地黄八幡」北条綱成の嫡男)は、この地に新たに築城しました。
この城は「飯沼城」と呼ばれ、対佐竹・結城・多賀谷氏の最前線の拠点とされました。
翌年氏繁がこの城で死去、子の氏舜・氏勝兄弟が継ぎました。
記録によれば、風魔忍者300人がこの城に控えていたようです。

天正18年(1590年)豊臣秀吉小田原征伐により北条氏が没落し、逆井城も廃城になったといいます。





公園の正面玄関と思われる冠木門【模擬】から二の曲輪に入ります。
この日は、桜の木に葉が生い茂り、「桜まつり」のちょうちんが時節に取り残されているようでした。



冠木門側から見た、二層櫓薬医門木橋



石垣のない、顕わになっている土地にそびえ立つ二層櫓。
戦国時代の城であることを実感できます。
石垣が登場するのは戦国時代の末期であり、それまでは土造りの城郭が一般的だったのです。
また採石量の少なかった東日本では、江戸時代以降も土造りの城郭が多く存在していました。


冠木門から中へ。



内側からの薬医門二層櫓

 

二層櫓の中へ。
戦国時代の城を再現するというテーマは、櫓の内部でも徹底されているようです。



二層櫓の先には、井楼櫓【模擬】。



模擬の櫓、つまりはこんな感じのものがあったんだろう・・・というもので、史実には基づいていないのですが、それでも戦乱の世の雰囲気を醸しだすには十分です。



井楼櫓からの眺め。
矢楯がちょっと邪魔ですね・・・



井楼櫓のそびえ立つあたりに、かつての飯沼があったそうです。

 

飯沼に沿って造成されていたであろう土塁
現在は干拓によって縮小してしまいましたが、往時はこの飯沼を挟んで反対側が多賀谷氏の所領で、逆井城(飯沼城)は北条氏にとっての最前線の拠点だったんですね。


曲輪の内側へ。



まずは観音堂【坂東市指定文化財】。
大安寺というお寺にあったものを移築したものだそうです。
その棟板から、建立は天正16年(1588年)で弘化2年(1845年)に改築されていることがわかっています。



その隣り、土塀と共に屋敷を囲っているのが関宿城薬医門です。
こちらも関宿城の城門を移築したものだといいます。



門をくぐると、模擬主殿枯山水
主殿は牛堀(現・潮来市)にあった大台城の主殿遺構を参考に復元したものだそうです。
この主殿も、靴を脱いで中に入れます。



主殿は、右半分が主室で左半分が控室というシンプルな構成。
さすがにこのあたりで戦国の再現するのに手を抜いたのかな~と思っていたら、案内文によるとこれがメジャーな構造だったそうな。



城門から出ます。



さらに内側の一の曲輪へ進みます。
普通城郭の場合、「本丸」「二の丸」などと言い表しますが、逆井城は本丸の場所がよくわかっていないため、便宜的に「一の曲輪」「二の・・・」と呼ぶようです。











複雑に入り組んだ空堀。
通過するものを側面から射撃できる横矢掛りの構造です。

 

一の曲輪と二の曲輪の間で水をたたえているのが、鐘掘池です。

逆井城が北条軍に攻め込まれ落城すると、城主・逆井常繁は戦死。
その妻(娘とも?)・智姫は、代々伝わる釣鐘をかぶって入水し、城の落城と運命を共にしたそうです。
後世の者がその釣鐘を捜そうと池を掘り返してみましたが、釣鐘は結局見つからなかったそうな。

湧水が豊かで、干ばつの時期であっても水が枯れたことはないそうです。
城の生活用水に用いられていたとされています。



二の曲輪から一の曲輪へ。
曲輪の淵に造られている土塁は、どちらかといえば奥にある一の曲輪のものの方が高いように見えます。
この構造は比高二重土塁と呼ばれ、北条家の城郭に見られる特徴的なものなのだそうです。





一の曲輪に入りました。



一の曲輪には、城山大権現がお祀りされています。




一の曲輪に構える櫓門【復元】から、ふたたび二の曲輪へ。



両曲輪をつなぐ木橋と、一の曲輪を守る櫓門
これらは発掘調査で礎石や柱穴が確認されています。
史跡保護のため、これらの礎石などからは少しだけずらした位置にて復元されているそうです。



木橋から眺める空堀、なかなかの深さです。
そして左の二の曲輪と右の一の曲輪とで、土塁に高低差があります。
比高二重土塁の好例といえるでしょう。




空堀に下りてみました。



高い!



この空堀は、鐘掘池のところまで続いています。



空堀から、二の曲輪へ上がりました。



茨城県指定史跡「逆井城跡」の石碑です。
刻字の隷書体と相まって、なかなかに味のある石碑ですね。



二の曲輪をぐるりと回り、



横矢掛りを見つつ、駐車場へと戻っていきました。




最後にちょっとだけ、青空が顔を出してくれました。





釧路市内のチャシ跡~モシリヤチャシ

2017-07-14 | 城郭【その他】


2 0 1 6 年 9 月 2 0 日 ( 火 )

午 前 8 時 3 3 分

北 海 道 釧 路 市

幣 舞 橋



台風情報です。

 (C)よね先生

平成28年台風16号「マラカス」は、9月20日未明、強い勢力で鹿児島県の大隅半島に上陸しました。
午前8時現在台風は高知沖にあって、紀伊半島方向へ進んでいます。
台風16号と秋雨前線の影響で、関東地方も雨が降っている模様です。





この日の釧路の朝は、晴れ。
いっぽう私の住まいがある関東は、まさに台風にヤラれているようです。
注意喚起の社内メールも届いているようですが、そんなの関係ねぇというくらいに釧路は穏やかな天気です。


そしてやや遅い朝です。
前日は午前5時出立ということで、ホテルの朝食バイキングを泣く泣くあきらめたのですが、この日はしっかり朝食バイキングを堪能しました。
そして8時すぎにチェックアウトしてきたわけです。


この日の予定は、12時35分発の札幌行きの高速バスに乗るということ以外、特に決めておりませんでした。
チェックアウトの刻限である10時までホテルでくつろいでいてもよかったのですが、せっかく釧路に来たんだからどこかに行かないともったいない。
そこで調べてみると、釧路市内にもチャシがあって、それが幣舞橋(ぬさまいばし)からそれほど遠くないところにある、といことがわかりました。





ということで、2日ぶり2回目の幣舞橋釧路川です。



対岸に渡って振り返ると、青空に映える幣舞橋と「白い恋人」の青看板。
橋上のガス灯と、四季を表徴する女性の銅像が、重厚な橋梁に一輪の華やかさを与えています。



幣舞橋から、釧路川の遊歩道を上流方向に歩いていきます。



下流を振り返ると、川が曲がって流れているせいで、あたかも船の上にいるような風景が見られます。
右岸には釧路フィッシャーマンズワーフ「MOO」
左岸には道東経済センタービル
これらをつなぐ名橋・幣舞橋

秋になると、釧路川の河口に夕日が沈んでいくそうです。
釧路は、マニラ湾(フィリピン)、バリ島(インドネシア)とともに「世界三大夕日」に挙げられているのだそうです。
(バリ島ではなくシドニー湾(オーストラリア)という説もあります)

・・・・・・旅から帰った後で知ったんですけどね(T_T)



幣舞橋の上流側にある最初の橋、



久寿里(くすり)です。
釧路川の散歩はここまで。
この橋もなかなか見事なものですが、渡らずに橋の反対側へ歩いていきます。



久寿里橋から続く久寿里橋通を歩き、「釧路しんきん」の看板がある交差点を左折。
橋南幹線通を歩きます。



白崎建設が見えてきたら、今度は右折。
大川町城山通へ。



交差点わきの駐車場に立つ地図看板。
緑色の史跡モシリヤ砦跡が、今回の目的地です。
この看板、付近の住宅の世帯主がそのまんま表示されています。



ほどなく、モシリヤ砦跡(モシリヤチャシ跡)【国指定史跡】に到着しました。


【今回の行程記録】



[A]幣舞橋  8時33分発
国道38号(幣舞橋)、釧路川遊歩道、久寿里橋通、橋南幹線通、大川町城山通経由
[B]モシリヤ砦跡  9時06分着

*所要時間 33分 (途中トイレに寄ったので、時間がかかっています)
*移動距離 約1.3km




午 前 9 時 0 6 分

モ シ リ ヤ 砦 跡




住宅地のど真ん中にあるモシリヤチャシ跡。
まわりをフェンスで囲まれており、乗り越えないと中には入れません。
国指定の史跡なので、勝手に入ってはいけないんだろう・・・そう思い、中には入りませんでした。


「モシリヤ」とは、アイヌ語で「島のある川」という意味をもちます。
伝承では、寛延4年(1751年)にトミカラアヤノというアイヌが築造したとされています。
昭和10年(1935年)に、「モシリヤ砦跡」の名称で国指定の史跡に指定されました。



チャシとは、アイヌ語で「柵で囲った場所」というニュアンスの言葉です。
アイヌは文字をもたなかったため、チャシは文献に残っておらず、チャシが何のために造営されたかはよくわかっておりません。
諸説によれば、砦のような軍事施設であったとも、神殿のような祭祀施設であったともいい、現代の我々の想像する「城」とは異なるものだったそうです。

ですが、ここのチャシは根室で見てきたものに比べると規模が大きく、「砦」と呼ぶにふさわしいと感じます。



チャシの南側に内郭(主砦)があり、小高く盛り上がっています。
モシリヤチャシの別名「お供え山」のとおり、お餅が盛られたかのような形です。



内郭とは一段低いものの、もうひとつある高みが外郭(副砦)です。


・・・う~む、中に入れないかなぁ。








草も適正に刈取りがなされているようです。
造成の跡がはっきりと見られ、緑色のチャシが美しくさえ思えます。



チャシの北側で、フェンスが途切れています。
どうやらここから入ることはできそうですが、国指定の史跡ということもあり、立入りは遠慮しておきました。



フェンスが途切れているところのすぐ隣は、運輸会社の敷地になっています。
そしてその駐車場のところから、チャシは断崖になっています。
バウムクーヘンのような層状の崖も、なかなか見事でした。



チャシの裏手にあるコンビニでアイスコーヒーを買い、幣舞橋のほうへ戻っていきました。





三八城公園

2016-10-12 | 城郭【その他】


2 0 1 6 年 9 月 1 5 日 ( 木 )

午 前 7 時 1 4 分

青 森 県 八 戸 市

J R 本 八 戸 駅 南 口



平日の出勤時刻とほぼ変わらない時刻に、ホテルをチェックアウト。
JR八戸線高架の反対側、本八戸駅南口に出ました。



駅舎とプラットホームの屋根のあいだから、前日宿泊したホテルが見えていますね。
このホテルは朝風呂も問題なく入れたし、まったく不可のないホテルでした(*^_^*)



さて、この日のスケジュールをかんたんにまとめますと・・・

(1)八戸市内にある根城(ねじょう)【国指定史跡】を登城。
(2)その後弘前へ移動、弘前城【国指定史跡】を登城。
(3)青森市内へ移動し、一泊。

・・・という具合です。
この日は青森県内を満喫し、「試される大地」への上陸は翌日に持ち越し、ということになります。

いちおう今回の旅は「北日本完全制覇!」と銘打っています。
青森県内の諸城をスルーすることは許されません。


そしてこの日最初の登城となる根城へのアクセスは・・・

(1)まず徒歩で八戸の中心街へ出ます。
(2)そこから八戸駅行きのバスに乗車します。
(3)途中の根城・博物館前バス停で降車します。

・・・という行程になります。


話はさかのぼること3ヶ月前。
本八戸駅前のホテルを予約したうえで、そこから根城へのアクセスを検索していたときのこと。
Google Map先生のお力をお借りしていたおり、Map先生がおもしろそうな場所を表示したのでした。

「三八城公園」

まず「何て読むんだ?」という疑問。
「さんぱちじょう」? 「みやしろ」?

そして「三八城」という公園の名称。
いかにも「お城がありましたよ~(*^_^*)」っていうネーミングです。
なんとも私の知的好奇心をくすぐるではありませんか。

まず、読みは「みやぎこうえん」

そして公園には、かつて八戸城が存在したことがわかりました。
さらには八戸城の建物が、公園近くの南部会館と、史跡根城の広場に現存しているとのこと。

そういったわけで、根城を登城する前に三八城公園に立ち寄ることとし、チェックアウトの時刻を早めにしました。



本八戸駅から八戸の中心街へと続く本八戸駅通りを歩いていきます。



「みやぎパーキング」
三八城公園の近くであることを実感させます。
ところで看板にひっついている、フキダシのようなものはなんでしょう?

「ここは三八城旅館っていう大きな旅館だったらしいよ」
「八戸の最高齢者は107歳!のおばあちゃんなんだって~!」
「平成8年8月8日生まれの八戸ッ子が6人!いるらしいよ(男子3人、女子3人)


みやぎパーキングの看板についていたフキダシは、正直どうでもいいような内容のもの。
こういったトリビア的な、というより本当の意味のトリビア(ムダ知識)が各店舗の看板、ウィンドウ、シャッターに記載されています。
なかには社長の趣味が何だの、といったまったく個人的なことをのたまうものもありますが、



「ここを曲がると↑三八城公園と↓おがみ神社があるらしいヨ」
という役に立つ情報もわずかにあるようです。
ナイスな情報をくれた酒屋さんの角を曲がり、フキダシのうるさい本八戸駅通りとはいったんお別れ。



住宅地へ入りました。通勤通学のため人通りがそこそこあります。
途中の十字路(画像中の人が歩いている地点)を右折すると三八城公園ですが、まずはこのまま直進。




三八城神社に着きました。



境内はそれほど広くなく、鳥居も立っておらず、そのまま拝殿へと通じています。



手水舎
木が茂っていて虫が多く飛び交っていました(^_^;)
メンテナンスは大丈夫なのだろうか・・・?



どこかで見覚えのある女の子



境内に置いてある大きな石。弁慶石というそうです。
案内看板によれば、石のくぼみが武蔵坊弁慶がつけた足形だそうです。
ちなみにその案内看板は前置きに、

「・・・後世の人々は『義経は・・・ひそかに平泉を脱出し、北をめざして旅にでた』という伝説を作り上げたのである。
 世に言う『判官びいき』であろう。」

と記載して、あたかも弁慶石のいわれを否定しているようにも感じます。



三八城神社の拝殿
なんらかの作業をしていたのか、脚立が放置されています(^_^;)


三八城神社の境内は、もともと八戸城の本丸があったところです。
明治4年(1871年)廃藩置県で城内の建物が取り壊され、明治11年(1878年)その跡に建てられました。
祭神は八戸藩初代藩主・南部直房、南部氏の祖である南部光行と南部氏の祖先にあたる甲斐源氏の祖・源義光(新羅三郎)の3柱です。



旅の晴天と重要人物の護衛を祈願し、早々ながら境内を出ました。





次いで三八城公園へ。



公園に入ってすぐ右側に、ややひっそりと立っている「八戸城本丸跡」の碑
園内は八戸城の遺構がほとんど残っていませんでした。



園内にある築山。八戸城当時のものかは不明です。

 

築山に立っている八戸城跡碑
見上げるほどの高さがある、かなり大きな石碑です。
それに比べて字は小さく、何が書いてあるか読めません。(私が浅学の徒であることが大きな理由なのですが(^_^;))
そのためか、横には碑文の内容を現代語訳した案内板が立っています。
ここは案内文をまるごと借用させていただき・・・


寛永6年(1629)、南部利直は、荒地を開いて城を築き、周りには二重堀を巡らし、郡奉行をおいてこの地を治めていた。
寛文4年(1664)、利直の後を継いだ重直は、子がないまま没した。
この年将軍家綱は、重直の遺領10万石のうち8万石を次弟の七戸隼人重信に継がせ、末弟の中里数馬直房には2万石を与え新たに分家させた。

寛文6年、直房は八戸城に入り、それから250年余りにわたり歴代の藩主・賢臣達が文武に励み、農業・養蚕・織布・畜産の振興に努め、領内は豊かになっていった。


(中略)

明治2年(1869)、版籍奉還して八戸城は政府の管理となったが、のちに子爵南部利克所有となった。
明治11年(1878)八戸城に三八城神社が創建され、新羅三郎義光南部三郎光行南部左衛門佐直房を祀り県社に名を連ねた。



・・・案内文はさらに続き、三八城神社の改築を記念して石碑を立てた次第である、と締めくくります。
この石碑は昭和3年に立てられたもので、碑文本体は漢文で記されています。

 

築山には八戸城跡碑をはじめとする数基の石碑のほか、八戸藩の藩祖・南部直房公銅像が立っています。
八戸藩は、石高では盛岡藩の約4分の1で盛岡南部家の傍流の出身ではありますが、将軍の裁定により成立した藩であることから、当初より盛岡藩とは独立した組織であるとみなされていました。


築山を下りて、公園の西側へ。



西側は断崖になっていて、八戸市内を一望できます。



三八城公園を出ました。



公園からそのまま進んだところにある八戸市公会堂



公会堂の脇に「八戸城跡」と「三八城公園」の石標が立ちます。



2本の石標のあいだにある立看板は、八戸城を案内するもの。
八戸城の由来とともに、往時の八戸城の図面と現在の地図(といっても昭和54年当時ですが)を重ねた地図を表示しています。



八戸市公会堂のあたりに、本丸と二の丸を隔てる堀があったようです。

また、八戸城があった当時の道の多くが、現在もそのまま利用されていることもわかります。
八戸城外、画像中央やや下にある、東西に進む二重の道もそのひとつで、この道路が現在の八戸の中心街を形成しています。

ちなみに昭和54年作成の看板なので、鉄道は「国鉄八戸線」、そして本八戸駅は「八戸駅」となっています。
現在の八戸駅は、最初は「尻内駅」で、本八戸駅が「八戸駅」でした。



八戸市公会堂から、ふたたび本八戸駅通りに戻りました。



「この門は八戸城の一部らしいですよ 『楼門』ってゆう構造では全国で最大級なんだって」
・・・という語法をちょっと誤っているフキダシのとおり、この門は旧八戸城角御殿表門【青森県指定文化財】で、八戸城の数少ない遺構のひとつです。
建築当初から移築されず保存されていて、現在は南部会館の表門になっています。


駅前通りを中心街方向へ歩いていきます。



八戸市庁前のロータリー。このあたりはもう八戸城の外にあたります。
2本のヒマラヤスギの大木が見事です。八戸城があった当時から立っているのかな・・・?

そういえば「八戸市役所」ではなく「八戸市庁」っていうんですね。
「市役所」を「市庁」と称するのは、どうも八戸だけなんだとか。



八戸の中心街に着きました。



先ほど述べた二重の道路です。
片側2車線の一方通行になっていて、こちらは西行きの市道。
ちなみに反対側は東行きの国道340号線で、こちらも一方通行のまま終点の国道45号に続きます。
ということは、国道45号側からは国道340号に入れないため、八戸側からは国道340号を走破することはできない、ということです。



だんだん八戸城とは関係がない話になってきたので、このへんで終了。








午 前 9 時 1 8 分

史 跡 根 城 の 広 場


忘れていました、八戸城のもうひとつの遺構・・・



史跡根城の広場に移築されている旧八戸城東門【八戸市指定文化財】です。

八戸城築城のおり、もともと根城にあった門を移築して使用したのが、八戸城東門だったそうです。
しかし幕末期に大風で倒れてしまい、再築したものを家臣の屋敷の門として用いていたのが、現存するこの門だそうです。



八戸城の登城、これにて本当におしまい。