鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

夜の八王子滝山

2014-10-24 | チャリ旅


2 0 1 4 年 8 月 1 5 日 ( 金 )

午 後 7 時 0 1 分

東 京 都 昭 島 市

国 道 1 6 号 拝 島 橋



「国道16号完全走破」の旅・2日目。



この日は大宮を出発、川越で寄り道し「日本一長い麩菓子」を手土産にして、八王子を回って横浜を目指していました。
ですが夏の太陽にやられてしまい、埼玉の入間で休止を余儀なくされてしまいます。



多摩川にかかる拝島橋まで到達したのは、すっかり日が沈んで時刻は午後7時を回っていました。



拝島橋の先には、不気味に暗い八王子の丘陵地帯が待ち受けていました。




午 後 7 時 0 5 分

八 王 子 市 に 入 る


国道16号は片側2車線のまま丘陵地帯を上り始め、



八王子市に入りました。
入間から出発して以来、コンビニにも寄らずノンストップで進んできたので、ここの茂みでちいさな用事を済ませます



このあたりは八王子市の滝山地区。近くには滝山城址公園があります。
森林を切り通したような風景で、道沿いに建物は見当たらないのですが、散歩する人やジョギングする人をぽつぽつ見かけました。


戦国時代には北条氏康の二男・氏照が滝山城の城主を務めていました。
北条と武田の同盟が破棄されると、滝山城は武田信玄の猛攻を受けましたが、辛くも凌ぎきっています。
この滝山城攻防戦では、北条氏照と、信玄の四男・勝頼が一騎打ちをしたという伝承があります。
のちに氏照は、滝山城からより山深い八王子城へと移り、滝山城は廃城となりました。



拝島橋から滝山方面へ上っていく坂道はなかなか険しく、おりからの疲労もたまっていたので、ついに自転車を降り歩いて上りました。


市境で膀胱を空っぽにしたところで、今度は胃腸が空っぽである感覚に襲われました。
付近にはレストランがなさそうでしたが、地図を見ると道の駅・八王子滝山が近くにあったので、ここで食事をすることとしました。

長い坂道を下ったところにある左入橋交差点を右折し、500mほど進むと、広大な駐車場とともに道の駅が見えてきました。




午 後 7 時 1 7 分

東 京 都 八 王 子 市

道 の 駅 八 王 子 滝 山


日がすっかり暮れて、比較的山がちなところなのですが、歩行者がぽつぽつと見受けられました。
それも学生と思われる20代前後の若人。



道の駅八王子滝山。じつは東京都内唯一の道の駅なのだそうです。
そしてここの「駅長」なる人物は、かの文豪・芥川龍之介の孫にあたるとか。

道の駅八王子滝山は、日がすっかり暮れてしまっても普通に営業していました。
私の地元の道の駅は、午後6時を過ぎるとあっさりと営業が終了してしまうのですから、さすがは都内唯一の道の駅です。

道の駅にある食堂も営業中でした。店員は学生と思しき若者。
その若者が、妙に元気接客してきます(^_^;)
(私は必要以上にやる気のある人はとても苦手です)



滝山そば! チョイチョイ・・・・・・ズルズルズル~~うまい!
冷えっ冷えの田舎そばを、鴨肉、山菜、きのこが入った温かいつけ汁でいただきます。お値段は880円ナリ。

・・・・・・滝山そばよりも、この道の駅の、私が感じるある種の違和感。
元気のいいバイト学生。駐車場にたむろする学生と思われる者たち。


・・・・・・近くにある、あの大学と関係があるのだろうか?


ここでもトイレで用を足して、道の駅を後にしました。
ここの道の駅は冷房が効きすぎるよ(^_^;)




午 後 8 時 0 9 分

国 道 1 6 号 に 戻 る


もとの左入橋交差点に戻りました。



交差点の所にある青看です。ここでは「相模原」と「八王子市街」が表示されています。
八王子市街はおそらく甲州街道までの距離だと思われます。

この交差点は、神奈川県境付近まで続く八王子バイパスとの分岐点でもあります。
今回はバイパスは通らず、一般道をひた走りました。



八王子バイパスとの分岐から1kmほどで、中央自動車道八王子インターに差しかかりました。
中央道に入るには一般道の国道16号を通らねばなりません。八王子バイパスからは中央道に入れません。
が、高井戸からの車は、八王子バイパス(第1出口)にも一般道(第2出口)にも下りられます。



さて自転車にとっては・・・横断歩道を使って難なく通過できます。
八王子インターは自転車にやさしいです(#^.^#)



八王子インターを過ぎ、500m以上進んだところの青看。バックに見えるのは中央自動車道の高架です。
ここで「横浜」が初登場です。
横浜まで44km、このままでは横浜到着は午前1時過ぎになりそうな情勢。



中央自動車道の高架をくぐると、1km弱の片側1車線区間があります。
上り坂&歩道狭い&草茂み気味です。

多摩川の支流・浅川を渡ると、ふたたび片側2車線の道路となり、八王子の中心部へ。
夜だというのに歩行者も多く、なかなかの活気です。



国道20号甲州街道との交点である八幡町交差点に到着しました。
国道16号はここで左折し、500mほどの間、国道20号との重複区間を進みます・・・・・・が。




午 後 1 0 時 ご ろ

横 浜 市 南 区


私は鬼ヅモ同好会の麻雀に参加すべく、





早々に横浜に入ったのでした。



◆参考資料
道の駅八王子滝山 http://www.michinoeki-hachioji.net/





基地のある街~都県境から拝島橋へ

2014-10-17 | チャリ旅


2 0 1 4 年 8 月 1 5 日 ( 金 )

午 後 5 時 4 8 分

東 京 都 西 多 摩 郡 瑞 穂 町



ママチャリ「国道16号完全走破」の旅、2日目は大宮から横浜までの約90km。



時刻はそろそろ午後6時になろうというところで、ようやく東京都に入りました。



東京都瑞穂町、現時点では国道16号線が通る地方公共団体で唯一の「町」です。
ここの境標はなぜか異常にデカいです。



都内に入っても国道16号は相変わらずの片側2車線、交通量も少なくありません。
この日は前方に富士山?がチラチラと見えていました。


都県境から5kmほど進むと、JR八高線と交差します。
国道16号は地下を進んでいきますが、自転車は進めないので脇道に入って八高線を越えていきます。

八高線を越えて国道16号に戻ると、



左側には名高き横田基地です。



米軍基地の沿線らしく、英語表記の標識も立っています。



当然、現役の戦闘機もあります。
これだけの近い距離で戦闘機を見たのは初めてなので、なんだか沸き立つものがありました。

横田基地沿線は基地側(進行方向左側)の歩道がとても狭いので、自転車ですが右側通行とさせていただきました。



横田基地の沿線を走ってだいたい1km、



羽村市に入ります。それから500mほどで、



今度は福生市です。



瑞穂町や羽村市では、東京税関など行政機関があってものものしい雰囲気すら感じましたが、福生に入るとこのとおり。
なんともアメリカナイズされた街並みが続きます。





横田基地に入れるゲートがあるのは福生市だけ。
こちらは横田基地の南側にある第5ゲート
左側にアメリカ合衆国空軍のエンブレム、右側には日本国航空自衛隊のエンブレムがかかっています。



第5ゲート前交差点のところが、横浜まであと50kmの地点になっています。
ここを通過し、玉川上水とJR線をまたぐ武蔵野橋に差しかかると、基地とはおさらばとなります。




午 後 6 時 4 2 分

昭 島 市 に 入 っ た ?


武蔵野橋を渡ったところで、昭島市に入った・・・ようです。
武蔵野橋まで右側を走行していた関係で、市境標を見逃していました。

そこから1kmもしないところ、



小荷田交差点で国道16号は左折します。こちらも渋滞の難所とされています。



小荷田交差点を越えたところにある青看。ついに神奈川県の相模原が登場します。
もうすぐ午後7時というところであと20kmはキツい。


小荷田交差点から1.5kmほどで、国道16号は右に曲がることとなります。



堂方上交差点を曲がったところで、長めのゆるやかな下り坂。下った先にあるのは、



青看にたびたび出ていた拝島橋多摩川です。



橋を渡った先には、なんとも不気味な丘。
国道16号最大の難所・八王子が待ち構えています。





灼熱の狭山丘陵~川越から都県境へ

2014-10-06 | チャリ旅


2 0 1 4 年 8 月 1 5 日 ( 金 )

午 後 2 時 3 0 分

埼 玉 県 川 越 市



小江戸川越に寄り道し、菓子屋横丁「日本一長い麩菓子」を買いました。
麩菓子は、カゴに突き刺すように入れ他の荷物で固定することで、安定的に運搬できます。



その代償として、麩菓子がいちいち視界に入ってきて、ストレスに・・・(^_^;)




さて「国道16号完全走破」の旅は、国道254号川越街道との交点である新宿町(北)交差点から再開します。



新宿町から再開して最初の青看です。
八王子まで36kmもあります。横浜までだと80km以上・・・。
この時間の押しっぷりに焦りを感じ始めました。
そして川越インターまでは3km。関越自動車道は自転車をあっさり通してくれるのでしょうか。



自転車の進入を拒むがごとき陸橋。この先の交差点で国道16号は左折するようです。
陸橋の脇道に入っていきます。



地に横たわる線路は西武新宿線。陸橋に上る階段に自転車通行帯はありません。
あたりを見回すと近くに踏切がありました。
踏切を渡って道をそのまま進み、あっさりと国道16号に復帰できました。



ロードサイドに店舗がひしめく川越市内を走っていきます。交通量も相変わらず多いです。



関越自動車道川越インターまでやってきました。
どうやらこのインターは常磐道の柏インターと同様に、跨道橋でオーバーパスしていくようですが、



なんだよこの歩道橋は? 自転車越えられねぇよ!!
そうかそうか、インターから続く脇道を行けばいいんだ。
そう思って進んでいくと、つぶれたラブホテルの敷地に迷い込み、行き止まり。

仕方がないので、危険を冒して路側帯のない車道からの強行突破をするしかありませんでした。
視界に入ってストレスとなっている麩菓子と相まって、怒りゲージがたまってきます。




午 後 3 時 0 4 分

狭 山 市 に 入 る


川越インターから1kmほど進むと、風景は変わって左サイドに工場が立ち並びます。
工場の敷地に差しかかったところ。



川越市新宿町から約6kmで、狭山市に入りました。
狭山といえばお茶の生産地。坂道嫌いの私にとっては恐怖の丘陵地帯に入るということになります。



横浜の高島町まであと70km、八王子まではあと30km。
沿線風景は、工場からロードサイド店舗に戻ります。
狭山市内の16号はアップダウンを繰り返しはしますが、傾斜があまりきつくないので、立ちこぎ&ギアチェンジがなくとも乗り切れました。



キロポストから1km進み、八王子までは29km。
都県境に面する瑞穂町が青看に初登場。
「瑞穂 14Km」だから、東京都に入るのはあと10km強、1時間くらいだろう。
そう思っていました。



顔が、ヒリヒリして痛い。
日焼け止めを塗るのを忘れていたのです。
コンビニに立ち寄り日焼け止めを購入、今更遅いとは知りながらも表皮に塗りたくります。
そして頭のほうも熱っぽく感じられたので、タオルに水を湿らせ頭に巻いていきます。

この日は真夏の快晴、直射日光が容赦なく照りつけてきます。
体力の消耗も予想以上で、少し進んでは小休止を繰り返すことに。
思った以上に行程がはかどりません。




午 後 3 時 5 2 分

入 間 市 に 入 る


スピードが上がらないまま、入間市に入りました。



炎天下のアップダウンは、たとえ傾斜が緩やかでも堪えます。
狭山市内の行程は約6kmほどですが、通過に48分もかかってしまいました。時速換算で7.5km/hです。
このままで行くと、入間から70km先の横浜に到着するのは日付が変わってからになってしまいます。



国道16号ではめずらしい片側1車線の対面交通になります。
ただこれは、この先の河原町交差点までの500メートルほどと一時的なものです。
Nack5の交通情報では「入間市河原町」のフレーズを聞かない日はないくらいの渋滞ポイントなのだそうです。
この日も軽く渋滞していました。



入間市河原町の「凶悪さ」は、自動車に限ったことではなかったのです。
河原町交差点を越えたすぐのところにある高架橋は西武池袋線なのですが、自転車&歩行者はなぜか階段を下されます。
しかもこちら側の階段には自転車通行帯がなかった! なんでこんな仕打ちをママチャリは受けなきゃいけないんだ(T_T)

ご覧のとおり路側帯は極狭で、交通量も多かったので車道の強行突破は差し控え、いったん河原町交差点に戻り反対側の歩道へ。
幸い反対側の階段には自転車通行帯が確保されていたので、その道なりに進みます。
国道16号からは外れ、脇道の市道を進むことに。



この坂を上れば国道16号に合流できますが、なかなか急な坂だなぁ(T_T)
狭山市内の緩やかな坂でも食傷気味だったのに、この坂は相当の精神的ダメージを与えてきます。

それだけでなく、入間市内の国道16号もアップダウンが続く難路。
その度合いは増し、坂ひとつひとつが急になっているようでした。
私は立ち漕ぎでようやく切り抜けることができました。



入間市に入り、青看の表示はすべて東京都内のものになりました。
初登場の「拝島橋」は多摩川にかかる橋で、昭島市の南端にあります。



突然、頭痛が発生。
そしてなぜか、顔がぶるぶると震えだしました。正確に言えば唇あたり。


「これって、死ぬんじゃねぇのか!?」

生命の危険を直感した私は、とにかく休息ができるファミレスを探し駆け込むことに。
店内に入ってもめまいはしばらく続いたのでした。



今回の体調不良の要因は、夏の太陽を甘く見たことだと思います。
出発時刻が遅すぎたのと、川越で寄り道をしたので、気温の高くなる丘陵地帯を通ったのが午後2時になったこと。
自転車は左側通行という交通法規を律儀に遵守していたので、午後の西日を直に受けていました。そして・・・



自分に麩菓子をお見舞いしてしまったことでしょうか。
とにかく視界にチラチラ入ってくる麩菓子が邪魔で邪魔でしかたがなく、これがボディブローのように効いてきたのです。
 (↑ 自分で買ってきたというのにこの言い草・・・(^_^;))




午 後 5 時 2 1 分

ス テ ー キ ガ ス ト 入 間 店


ステーキガストに駆け込んでから1時間、症状はおさまってきました。
激しく照りつけていた太陽は斜陽の時を迎え、外気は涼しくなり始めていました。

旅立ちは、今をおいてほかにない。
ほとんど飲まなかったドリンクバーの料金を支払い、旅を再開します。


ステーキガストからほどないところにある、圏央道入間インター



ここでは地下道が設けられています。病み上がりの身にとって、日陰を進めるのは嬉しいことです。
自転車通行帯もあり、スムーズに通過することができました。
入間インターを通過すると、左側に三井アウトレットパーク入間があります。


入間インターから約1km、宮寺交差点付近。



三井アウトレットパーク入間を過ぎたあたりから続く下り坂、その途中に60kmのキロポストが立っています。



その先には久々の雑草地帯。せっかくの下り坂なのに減速させられてしまいます。
ですが前方を見やると、



たぶん富士山と思われる成層型の山が、形の整った傘をかぶっておりました。


この下り坂以降は、目立ったアップダウンもなく、



ついに東京都に入りました。





決戦の舞台・川越菓子屋横町

2014-10-05 | どうでしょうロケ地


2 0 1 4 年 8 月 1 5 日 ( 金 )

午 後 1 時 1 1 分

埼 玉 県 川 越 市

小 江 戸 川 越 ・ 時 の 鐘



川越城からふたたび時の鐘前に戻ってきました。



こたびは蔵造りの町屋がひしめく蔵造通りを通っていきます。
小江戸川越のメインストリートというだけあって、かなりの混雑ぶりです。



人出の多い通りを進んでも難渋するだけなので、雰囲気のよさそうな路地に入りました。



路地をさまよったすえに、ようやく見つけた菓子屋横丁の入口。



狭い路地は事実上の歩行者専用道路。私もママチャリを下馬して歩きます。



横丁の通路が折れ曲がるところにたたずむ空き地とレトロな郵便受け。
ここでママチャリを停めますと、その向かいにある店が、



川越の駄菓子でもっとも有名な「日本一長い麩菓子」を売っています。
そして一番目立つところに掲げられている大泉さんの写真!
水曜どうでしょうで最高傑作といわれている「対決列島~Battle of Sweets~」のときのものです。

麩菓子の足もと?には花丸せんべい30枚入り、そして藤村Dを苦悶せしめたあの梅ジャムもありました。
どうでしょうバカの私としては、ここを何もせずにスルーすることはできません。



1本400円の麩菓子を購入。
運搬方法を試行錯誤して、このようにカゴに入れることができました。

さあて、これをどうやってお見舞いしてやろうか・・・ほくそ笑みながら菓子屋横丁を後にしました。





川越城本丸御殿

2014-10-05 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 4 年 8 月 1 5 日 ( 金 )

午 後 1 時 1 1 分

埼 玉 県 川 越 市

小 江 戸 川 越 ・ 時 の 鐘



国道16号を外れ、川越の街にやってきました。



小江戸川越のシンボル・時の鐘【川越市指定文化財】から。
今回の川越ぶら~りはあまり時間がないので、ピンポイントで、川越城の登城のみをしていくことにしました。

それにしてもお盆休みの川越、人出は多くにぎやかです。
川越の街並みを通る道はそれほど広くないので、通っていくにもひと苦労です。


川越城の歴史は大きく中世・戦国期と近世・江戸期のふたつに分けることができ、中世では「河越」、近世以降は「川越」と分けて表記することがあります。

扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の当主である上杉持朝(もちとも)が、長禄元年(1457年)に家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じ、河越城が築城されました。
扇谷上杉氏は、古河(茨城県)に本拠地のあった足利一門・古河公方家や上州に本拠地のある同族・山内上杉氏と抗争を繰り返して衰退していき、関東では小田原の北条氏が台頭してきます。
北条氏2代当主・北条氏綱は、相模から武蔵への勢力拡大を本格化、ついに天文6年(1537年)川越城を占拠しました。

代替わりして3代氏康のとき、駿河の今川義元が甲斐の武田晴信(信玄)とともに当時北条の領地であった東駿河に攻めてきました。
名将・今川義元は武蔵にも手を回し、扇谷上杉氏の当主・朝定(ともさだ)は山内上杉家と和睦、さらに氏康の妹婿であった古河公方もあわせて「北条包囲網」というべき共同戦線を組みます。
天文15年(1546年)、ついに上杉連合軍8万が大挙して河越に迫ってきました。河越城の城兵は3千、城代はのちに「地黄八幡」と畏怖された名将・北条綱成(つなしげ)
北条氏康は東駿河を割譲して今川・武田と和睦し、軍兵8千を率いて河越の救出に向かいます。それでも兵数は合わせて1万強、数ではまったくかないません。
そこで氏康は連合軍に和睦を申し入れます。

 氏康「城の者は助けてやってください・・・河越はお返ししますから」
 上杉「今さら何を言ってんだ、攻撃!!」
 氏康「ヒエェェェ~、ご、ごめんなさい、北条家一丸となって古河公方様に従いますからお許しをぉぉ」
 上杉「公方様、こんなたわごとは無視して、北条を叩いてしまいましょう!攻撃!攻撃!!」
 氏康「いやぁぁぁ~ん・・・・・・・・・ニヤリ」

河越城は城代の北条綱成が持ちこたえること半年、上杉連合軍は長期の滞陣と氏康の土下座外交ですっかり弛緩してしまいます。
そして夜、氏康はついに奇襲を敢行。河越城の綱成も打って出て連合軍は大混乱、扇谷の上杉朝定は戦死してしまいます。世にいう河越夜戦(よいくさ)です。
これにより北条氏の武蔵における覇権が確立、古河公方家は完全に北条に取り込まれ、山内上杉家の上杉憲政(のりまさ)は越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)のもとへ落ちのびました。

その後も北条氏は順調に勢力を拡大していきましたが、西から巨大猿・豊臣秀吉がやってきます。
天正18年(1590年)河越城は前田利家に攻められて落城し、当主の北条氏直も降伏、大名としての北条氏は滅亡しました。
秀吉の天下統一後は徳川家康が関東に移り、河越には酒井重忠が1万石をもって封じられ、ここに川越藩の基礎が成立しました。

寛永16年(1639年)に藩主となった松平信綱は、川越城の大幅な拡張・整備を行いました。
川越は「江戸への搦め手」(江戸を攻める裏口)とされ、信綱や酒井忠勝柳沢吉保など幕府の要職にある大名が配置されました。



川越城の登城は川越市役所からスタート。



市役所は改修工事の真っ最中。
そして市役所付近には大手門が構えていました。

 

市役所前の交差点を向いて立っている太田道灌公像、その足下に大手門跡の碑が立っています。
太田道灌は、川越城のほかにも江戸城を築城するなど築城の名手でした。


川越市役所から川越市博物館へ向かう初雁城通りを進みます。
かつては、大手門から本丸へと向かう正規のルートでした。
「初雁城」は川越城の雅称です。



通りの途中、住宅街にある公園のような空間。
こちらには復元された中ノ門堀があります。



中ノ門とその周囲の空堀は、松平信綱が城主となったおりに、江戸の搦め手を守る要所ということであらたに整備されたものです。
天下泰平が成ってからまだ20年ほどしかたっていないため、あえて時流に逆行して戦闘に備えた縄張りを構えました。



中ノ門にまつわる空堀はかつて3本あり、進撃する兵士の進路を曲げることにより勢いをそぎ、そこに銃弾や弓矢を浴びせるものです。
堀の先には中ノ門が構えておりました。


中ノ門堀の跡地から300メートルほど進むと、左手に川越市博物館が現れ、右手に川越城本丸御殿【埼玉県指定文化財】があります。

 

本丸御殿の入場料は大人100円。

 

はじめ川越城には本丸と二の丸の2ヵ所に御殿がありました。
藩主が居住用に用いたのは二の丸の御殿であり、本丸御殿は3代将軍・徳川家光が鷹狩で来訪した際に使われました。
家光以降の将軍家は川越を訪れることもなく、いつしか本丸御殿は解体されて更地になってしまいました。

ところが弘化3年(1846年)、二の丸御殿が火災によって焼失してしまいました。
城主・松平斉典(なりつね)は、新たな御殿を更地となっていた本丸に建てることとしました。
嘉永元年(1848年)、本丸御殿が完成しました。
当時の川越藩は石高17万石を領しており、本丸御殿の敷地面積は現存の8倍ほどもあったそうです。

明治維新を迎えると川越城は次第に解体されていきましたが、本丸御殿の大広間及び玄関部分は入間郡役所などに流用されました。
本邦で本丸御殿が現存している例はきわめてまれで、昭和42年に埼玉県の指定文化財に登録されました。


 

私個人としては、御殿そのものよりも、御殿から眺める庭に惹かれました。



御殿の離れにあるのは家老詰所です。
明治維新後に民間に払い下げられていましたが、昭和63年に復元移築しました。
往時は他の建物からは独立して土塀に囲まれていたそうです。



川越藩は当時17万石で関東では名だたる雄藩で、しかも徳川家の親戚であるため、幕末の外国の脅威に対して大きな役割を期待されました。
相模国の三浦半島に領地(飛び地)を有していたので、相模国一帯の沿岸警備を負担しました。
ペリーが浦賀に来航すると、沿岸警備は一層強化され、あらたに品川台場の整備費用を負担させられたそうです。

説明書きによると、幕末の沿岸警備の費用負担に頭を悩ませる家老、だそうです。

 

最後に大広間を見て、あっさりと本丸御殿を後にしました。


なお、100名城スタンプは、3年半前に受領済み。



当時は本丸御殿は修復工事をしていて入れず、川越市博物館の受付でもらいました。
現在は本丸御殿の受付でもらえます。
個人的な見解ですが、本丸御殿だけだと驚くほどあっさり終了してしまうので、となりの川越市博物館とセットで訪れるのがいいと思います。


本丸御殿を滞在時間20分で後にしました。
そこから住宅街に分け入り、進むこと約200メートル。



御嶽神社浅間神社がおわす鎮守の森。
ここはかつて川越城の富士見櫓が建っていました。
川越城には天守閣がなかったので、富士見櫓は天守閣の代わりをなしたといいます。

富士見櫓跡のふたつの社で旅の無事を祈願・・・することなく、そのまま川越城を後にしました。



思えばこの日は、旅立ちに参拝するつもりだった氷川神社を詣でず、本丸御殿のそばにある三芳野神社も詣でず、こちらの2社も詣でませんでした。



◆参考文献
川越城本丸御殿 http://museum.city.kawagoe.saitama.jp/hommaru/
川越市博物館 http://museum.city.kawagoe.saitama.jp/
戦国乱世を生きた人々(teltel_woo 様) ~ 北条氏康、死線を潜り抜け関東の雄へと飛躍する





半田屋でエサる!

2014-10-02 | グルメ


2 0 1 4 年 8 月 1 5 日 ( 金 )

午 後 1 2 時 2 9 分

埼 玉 県 川 越 市

大 衆 食 堂 半 田 屋 ・ 川 越 店



国道16号をママチャリで走破する旅。



この日の昼食は、ふと目にした「大衆食堂 半田屋」でとることにしました。


「大衆食堂 半田屋」は、以前は「めしのはんだや」という名称でした。

入店すると、冷蔵陳列棚に入っている冷えたおかずを取り出します。
次におばちゃんが待ち受けるカウンターでめし、汁物をオーダー
おかずは適宜レンジで温めた上で、めしや汁物を受け取ったら、カネを払わずにそのまま食べることができます。
めしにがっついていると、後ろからおばちゃんが静かに近づいてきて伝票を記入し、脇にスッと置いて立ち去ります。
食事代は店を出るときに伝票を出して支払う、というシステムです。

そして食事代がおそろしく安く、300円で腹いっぱいに、500円以上食ったらかなりキツく、1000円分食べることは人間の限界に挑むレベルでした。
味はともかく、コスト・パフォーマンスにきわめて優れた食堂で、よく「エサのはんだや」と呼ばれたり、はんだやへ食事することを「エサる」ということもありました。



そういった店でしたから、店内で女子供を見た記憶はなかったと思います。



「めしのはんだや」から「大衆食堂 半田屋」へ、何がどのように変わったのでしょうか。
12年ぶりに闘いを挑みます。


店内に入ると、なんとも小ぎれいな内装
食事するテーブルも団体用のものが据えられています。
客層も家族連れが多く、かつての「めしのはんだや」とは全く別物です。

食事は、かつての「伝票方式」から「カフェテリア方式」に変わっています。
陳列棚にあるおかずを取って、おばちゃんにめしと汁物をオーダーしたら、そこでお勘定です。



私がいただいた昼食です。
 めし並   108円
 みそ汁    86円
 メンチカツ 129円
 里芋煮    97円
 ひじき煮   97円   合計 517円 (消費税込み)

めしは以前はなかった「並」サイズが登場しています。
12年前は「ミニ」が普通の茶碗1杯、「小」が大きな茶碗1杯、「中」が丼1杯というサイズでした。
ですが現在は「並」が「小」と「中」の間にできて、「小」が小さくなっていました。かつての「小」が現在の「並」といったところです。
「めし大」は相変わらず幻のメニューとなっていて、店内にもしっかり「とても食べられません。中で充分です」とありました。

おかずも、かつてと比べるとおいしくなっていた感じがしました。
里芋煮のように温かいおかずは、しっかりと保温されていたように思います。


時代の流れなのか、めしやおかずが少しばかり値上がりしていたのも、かつての「エサのはんだや」時代を知る者としてはちょっと残念に思いました。


はんだやといえば、店内の目立つところに堂々と掲げられていた標語がありました。
  「貸借は友を失う ゲーテ
おばちゃんから渡される伝票にも記載されていた、はんだやの顔ともいうべき?標語です。
要するに「はんだやではツケは許しませんよ」ということなのですが、ゲーテがこんな言葉を言ったのか? と疑問に残るところです。

さて店内を見回して「貸借は友を失う ゲーテ」を探してみたのですが、どこを見てもまったくありません(T_T)
伝票はなくなったけどレシートにならば、と見ても書いてない。
おそらくオーダーの方式が変わり、ツケの生じる可能性がなくなったため、この格言も消えてしまったのではないかと思います。


「ゲーテ」の格言はなくなっていましたが、こちらは健在でした。



小さな女の子がめしを頬張る「生れた時からどんぶりめし」のポスター。
このキャッチコピーに違わず、めしを腹いっぱい食べられる食堂でした。
お米は宮城の銘柄米・ササニシキをはじめ国産米を使用し、大凶作の年でも値上げこそしましたが国産米で乗り切ったそうです。
そういうこともあり、おかずがアレだとしてもめしだけはうまかったです。


そして現在もなお、めしだけはうまかった。
おかずも少しばかりおいしくなりました。



10分で完食。

食事に対する満足感よりも、私の記憶に残っていた「めしのはんだや」ではなくなっていたことへの寂寥感をおぼえつつ、店の外へ出ました。



◆参考文献
あなたの街の食堂 半田屋 http://www.handaya.jp/





大宮バイパスの仕打ち~大宮から川越へ

2014-10-02 | チャリ旅


2 0 1 4 年 8 月 1 5 日 ( 金 )

さ い た ま 市 大 宮 区



時刻は何時だったか忘れましたが、ともかく起床。
男の部屋に客が一気に集まったときによくあるシングルベッドのダブル利用でベッドに寝ていたのですが、なんともよく眠れませんでした。
窓際に寄り付くように寝ていた私に、ブラインドの隙間から太陽光線が差し込んできたからです。
朝だというのに、エアコンつけっ放しだったのに、暑い。

走行距離100km超を進んできた私の体から疲れはなかなかとれず、出発する気力が出ないまま、なんとなく時を過ごしてしまいます。


自宅で立てた計画では、この日の早朝に出発して、武蔵国一ノ宮・氷川神社を詣でて旅の無事を祈願するはずでしたが、
「まあ、いいか」
計画を変えてしまいます。

その後も出発時間を1時間後、また1時間後に繰り延べて、とうとう夏の太陽がその力を出そうかという時刻になってしまいました。




午 前 1 0 時 3 5 分

2 日 め の 走 行 開 始


大宮駅付近から出発した私は、本日の目的地・横浜からは逆方向の北へと進路をとります。

大宮から南に進路をとれば、国道17号・中山道、国道15号・第一京浜を経由してだいたい60kmほどの距離ですが、今回は「国道16号完全走破」の旅。
まずは前日の終着地点である吉野町インターへわざわざ戻ります。



そして国道16号線でぐる~っと回って横浜へ。
2日めの終着地点は、横浜市内の吉野町、国道16号と鎌倉街道が分岐する地点となります。
吉野町から吉野町へ。なんという偶然の一致でしょうか。


天気は快晴。朝から暑いです。
JR宮原駅付近にある吉野町インターに着きました。



「この歩道はこの先通り抜け出来ません。・・・」
中山道に立っている国道事務所の看板です。



前日にチラ見してなんとなく予感していました。
それにしても2日連続で出発地は国道を通れないという展開です。
仕方がないので、立て看板に従いつつ、脇道を探すことにします。



どうやら国道らしい大ガードです。
描かれている絵は、おそらく西洋のお城をイメージしたものなのでしょうが、屋根の形がなんだか和風な感じがします(^_^;)
この大ガードをくぐらず、左に曲がって脇道へ。



家のそばを通る私道のような脇道。その先には・・・



恐るべき地を這う大蛇のごときJR高崎線
か細き脇道はここで途切れています。
高崎線を越えようとしますが、周囲に踏切は見当たりません。



歩道橋はあるのですが・・・ご覧のとおり自転車通行帯がない!!
考えられる手段はもちろん自転車を担いで突破の一手のみ。



高崎線を越えたところで、自転車はようやく国道16号の走行を許されます。


この日最初のキロポスト。



国道16号は、吉野町インターから約3kmの間は国道17号と重複していて、新大宮バイパスと呼ばれます。



距離を表示する青看も、16号と17号の併記となっています。
「東京 36km」「池袋 28km」とありますが、池袋は東京じゃないのでしょうか?
国道17号は日本橋を起点としているのだから、素直に「日本橋 36km」と表示すればいいのに。



国道16号と17号の分岐点・宮前インターです。新大宮バイパスはここまでとなります。
これまた自転車にとってはしちめんどくさいところです。
このまま進むと国道17号に入ってしまいそうだったので、歩道橋で反対側へ渡ります。



ここの歩道橋も自転車に冷たい歩道橋です。
自転車通行帯のまぁ~細いこと。中央の階段の不可解さ。
埼玉は歩道橋を通るたびに私の怒りゲージが上がってきそうです。



歩道橋を渡ると、インターチェンジの脇道による丁字路にたどり着きました。
国道16号の方向を意識して左に曲がったところ・・・



迷うことなく国道16号に入ることができました。
青看には、この日の中間地点・八王子が初めて登場。



時刻は正午前で「八王子 46km」です。
宮前インターから川越市内までは西大宮バイパスという呼称がついています。



スポーツ強化推進で有名な埼玉栄高校の前を通ります。
この日は豪栄道関が大関に昇進したことを祝う垂れ幕が掛かっていました。

(それにしても「豪栄道」が一発変換できるのを初めて知りました。著名な力士の四股名は一発変換できるようです)

埼玉栄高校のあたりから、西大宮バイパスは高架の上を進みます。
自転車は下の脇道を通ることになりますが、千葉とは違いアップダウンがほぼ皆無なのでとても通りやすかったです。

脇道を進むことおよそ2km。



埼玉恒例・自転車に冷たい歩道橋で16号に合流しなければなりません。
今回の歩道橋はカーブがかかっているので、自転車脱輪のリスクが高いです。
歩道橋で脱輪して階段の角にタイヤが当たり、自転車がパンクした経験がある私は、当然慎重に進めていきます。

ここ宝来インターは、国道16号と埼玉県道2号、そしてサイクリングロードが交差するので注意しないと道を失います。
こういった立体交差の箇所では、たいていの場合自転車への案内看板がありません。



ふたたび国道16号に合流。




午 後 1 2 時 0 9 分

川 越 市 へ




1キロ近い長さを誇る上江橋
川を渡る前に川越市に入ります。

この橋は一挙に川を2本渡ります。
一本目は荒川、二本目は入間川です。



渡河したところで、自転車は脇道に下りることになります。


脇道から合流。



川越市内の国道16号はこんな様子です。



横浜の高島町まではあと80kmです。



80kmのキロポストからほどなくして「大衆食堂 半田屋」が現れます。
元仙台市民の私はなつかしさのあまり、吸い込まれるように入店してしまいました。



「半田屋」でがっつり食らった私は、この日最初の寄り道である小江戸川越の街並みへ向かいます。



小仙波(中)交差点・・・の青看だけ。
小江戸川越の街並みへは、ここで16号を外れるのが一番近いのですが、「16号をなるべく進む」という制約のためもう少し進みます。
なお、ここは県道の平面交差とともに国道254号の高架が頭上を通っており、ここから少しの間は国道254号との重複区間となります。



国道16号と国道254号のおにぎり。



1.5kmほどで重複区間は終わり、新宿町(北)交差点で国道254号とお別れ。
こちらの国道254号は川越街道という名がついていて、この道をまっすぐ行けば池袋に着きます・・・が、ここの青看は「池袋」ではなく「東京」になっています。

そして新宿町(北)交差点は、まさに東武東上線JR川越線の跨線橋のところにあるので、川越の街並みに通じる道は「右折禁止」になっています。
ただそれは自動車の制約であって、自転車には関係ないこと。

私はここを右折して、川越の街並みへと向かっていきました。