どんぽのばぶさん61~

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自分にとって今年最大の出来事

2017-12-31 07:12:41 | 健康と病気

左被殻出血という病気をしたこと
「脳卒中の再発」がいつどのタイミングで起きるのかという漠然とした恐怖はわずかにあります。
けれどもちょっと考えを見直してみれば、人間としてこの世に生まれてきた限りはいつか死にます。
誰一人例外なく平等にいつか死にます。
ですからたとえ再発してもその包含関係にある事実なのだと気づき漠然とした恐怖の気持ちが穏やかに収まりました。
病気をしてそれまで気づかなかったことや想いも寄せなかったことなどに気付けるようになった自分へと変化している事実。病気は偉大です。何より自分自身を哲学させてくれます。あの日生まれ変わったのですからその分だけ得をしました。
注意深く慎重に、さりとて臆病にだけはならないで生きていきます。
「臆病」は「疑心暗鬼」になります。
それを防げるアイテムを発見しました。
それは「自分自身への信頼」です。『自分をどこまでも信じ抜いて生きていくこと』です。
今の自分をもっともっと愛すること、愛せることがパワーの源泉です。
SNSを通じて同様の心持で様々な病気と向かい合って暮らしている人が身の周りにずいぶん沢山いることを知りました。それぞれにお互いの元気を分かち合っている。なんて素敵なことでしょう。
病気をした以前の自分よりも病気をしたあとの今の自分のほうが私は大好きです。


困惑の『大変でしたね』

2017-12-29 22:32:21 | 健康と病気
困惑の『大変でしたね』

10/20の退院後、この間いろいろな方々からお見舞いの言葉をいただきました。
見舞いの言葉で二番目に多かったのが
「(脳卒中を体験されて) たいへんでしたね」でした。

入院中も、退院してからの暫くも
「大丈夫ですか?」のお見舞いの言葉に
「はい、調子はいいです。お陰様で経過は順調です。」
「奇跡的に軽くて済みました。」
などと答えつつも、今から思えば自分で自分の身体のことを『大丈夫』の側に引き寄せ自己暗示をかけていた面もあったのだろうと思います。

左被殻出血(脳内出血)したことを後から知った方々が異口同音のように「大変でしたね」というリアクションをされ、それが何度か重なってきますと、自分が思い込んでいた以上に今回のことは大変な体験だったのかとじわじわ思い知らされました。

更には再発しないようにと周囲の皆さんから万全のバックアップ体制のご配慮などいただいていますと「大丈夫」だったはずの心持は揺らぎだしました。
これもまた不思議な感覚です。

事実として一度プッツンした脳の持ち主は周囲の人の側から見ると前歴のある人、だからいつまた再発するかわからない人というグレーな存在として映っているようです。

偏見といえば偏見ともいえるでしょうがこのつかみどころのない不安と向き合いながら自分自身のメンタルの維持(保持)は結構厳しいものがあります。

「たいへんでしたね」
に対して
「ええ、たいへんでした」
と答えてしまえばいいのでしょうが、心情的には過去形の事象ではなく現在進行形なのです。

侮らず、慎重に、されど臆病にならぬように心がけて暮らします。

混迷の「無理しないでね」

2017-12-28 21:28:01 | 健康と病気
10/20の退院後、この間いろいろな方々から一番寄せられたお見舞いの言葉が「無理しないでね」でした。
いろいろな面で無理を押してあれこれやりたいことを追求して生きてきました。
ですから無理でない状態が自分では自覚しきれず、『だらだら』 『ぼちぼち』といいながら
皆さんのお見舞いのお気持ちに応えたいと新たな無理を志向してきた感があります。

私は本来お酒が好きで「お飲みになりますか?」
と問われると
「私は几帳面ですから」と答えます。
質問された方はいぶかしそうに
「はあ・・・?」
と小首をかしげます。
「年に2日か3日くらいついうっかり飲み忘れることがあります」
「アッハッハッハ。だから几帳面・・・納得」
と合点が言って笑っていただいて…などという会話をして面白がっていました。
それが発病した10/1を境に飲酒をやめました。
発症の原因が高血圧によるものとDr.から診断されたので、
それならばいっそのことと飲酒の習慣をおしまいにしました。
これが「禁酒」と宣言をするとけっこうストレスになるので禁酒という言葉は使わず
「今は『飲酒は休憩中』です(飲もうと思えばいつでも飲めますが)とりあえず飲酒は休憩中です」
と周囲に伝えていました。

「それって結構無理していませんか?」
これがきっかけで飲みたいときには少量飲むのもありということにしました。
一度禁を破ると堰を切ったように飲酒の習慣が連日戻ってしまうのでは…と自分でも不安はあったのですが、
不思議と悪魔のささやきには発展しませんでした。
飲酒に関しては無理をしていない自分の立ち位置はここら当たりと自覚を新たにしています。
今日までの間に3~6回ちょこっと飲みました。
ちょっと飲んでみたいなという日はたまにあるもので、そんなときにはその気持ちを押し殺したりはぐらかしたりせず
「休憩時間おしまい」とちょこっと飲みます。
ある程度の量を超えて飲んだら歯止めが簡単に効かなくなることは経験上百も承知の助ですからちょこっとの処で打ち止めにします。

中途半端な朝を迎えました

2017-12-25 06:26:18 | 健康と病気
4:31尿意で目覚めました。
昨夜は21:00頃寝ました、起きました、トイレで夜明け前の排尿を済ましてきました。
なのですが、はたしてまだ眠いのか、眠くないのかわかりません。
実に見事な中途半端さです。10/20に退院してから65日目の朝にして以来の見事な中途半端さです。
まだ眠いのならだらだらと寝たいだけ眠って自然に目覚めるまで布団の中でまどろめばいいのです。
今朝も寒い朝ですが、さてどうしましょう。
何となくどうしましょうかと悶々としているうちに私の大好きな4:56の起床のアラームが鳴りました。
とりあえず布団から出ました。
どっちつかずの中途半端というものは稀にあるものです。
私は元来白黒はっきり決着をつけないと気が済まないというような輩ではありません。
この世の中はうっとりするほどカラフルですが、無彩色的な説明を施しますと、
限りなく白に近い灰色から限りなく黒に近い灰色で成り立っています。
たまたま今朝は白でもなく黒でもなく実に中途半端さに満ちた朝なのです。
人生はカラフルなのだと思っていますので、気分は決して灰色ではありません。

踏ん張る の気づき

2017-12-24 04:52:34 | 健康と病気

辞書を引いて「ふんばる」を見てみます。
『踏ん張る』・・・①足を開いて力を入れて踏み支える。②こらえる、がんばる。

踏み支えるものとは何だろう?と自問自答します。
私の身体であり私の精神だ、と気づきました。

脳卒中をした後、実にまれではあるのですが、よろけそうになる時があります。
例えば立ったまま靴下を履き替えようと前かがみになります。
他にも、靴を履くとか、床に落ちた100円玉を拾おうとかするときなど、
要するに、この頭を下に向けて「前かがみ」になるときの角度に『ある一定の閾値(?)』 
のようなものがあるのでしょうか、
この角度を越えそうになるとどうやらよろけモードになるような・・・そんな感じです。
これは単なる思い込みかもしれません。
けれども、うっかりよろけると危ないばかりか気持ちが挫けそうになります。 
この閾値に対して新たに脳内にアラームをセットし足の裏と連動させたい思いです。

そこで踏ん張ります。足の裏全体と10本の足の指総動員で大地を・地球を掴みにかかるのです。
自分自身の身体と精神を支えるために足の裏の感覚をもっともっと鋭敏に鍛えないとなりません。
こんな風に感じて暮らすようになれた自分がもっと好きになりました。