どんぽのばぶさん61~

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10/14~16 支援活動に行ってきました。 ~その3~

2016-10-19 20:41:15 | 震災支援活動

復興支援活動をしている場所や人々と、支援活動している人の支援をしに10/14~16と2泊3日、宮城県気仙沼市、岩手県山田町、福島県福島市、東京武蔵野市と5か所行ってきました。 

16(日)朝3時50分岩手県山田町を出発。
帰路はどうしてもテンションが下がります。走行プランのノルマを決めずに『気』に任せて走ります。
それに道中の蓄積疲労がどよよ~~んと全身をくるみます。
『疲れたら安め』は原則ですから、「何分走行したら何分休憩をとる」といった目安の考え方にとらわれ過ぎず、またやたらな根性論は振り回さず、往路以上に遠慮なく何度でも休憩を取ります。
S.A.で休憩をとって出発したもののほんの20分ほどの走行で再び休憩というのも2回ありました。

道中東京に戻るまでに、様々な支援活動を展開している人々を支援して帰ろうと思い立ちました。
そこで福島市の知人と東京の武蔵野市の知人と2か所を訪ねました。

岩手の前沢インターから東北自動車道に乗り、宮城を抜けて福島に入るか入らない頃、このままひたすら東京に戻るというのも知恵がないなぁと思ってハンドルを握っていましたら突然ひらめきました。そうだ、福島市の知人を訪ねてみるというのはどうだろう、連絡を入れてみて都合がつくようなら立ち寄ってみよう…。正午過ぎ、国見のS.A.に止めてAさんの都合を問い合わせてみました。
実に幸運なことに調整が利きましたので福島飯坂のインターで高速道路を降りました。
Aさん宅は先月9月9日に民泊し、福島市内の保育園と幼稚園の2か所で『ばぶさんのお話おじさん』をしています。 (この時の詳細は9月10日のブログで紹介しています。)

Aさんはこの夏保養ネットよこはまの主催する『第5回保養キャンプin河津』で知り合った方です。
私はこのキャンプには今年で3年続けての参加で、Aさんは今年が初めての参加で初対面でした。
Aさんは特殊教育の学校の先生を退職されて数年、かねてより障がい児の放課後の居場所作りの構想を持っておられます。
そのプランに私の木のおもちゃなどの創作をコラボできないかというお話が前回訪問した際に生まれ、さらにその中身とプロセスをどう作っていくかという方向性を探りました。
車に持ち合わせていた遊具(教具)を2点ほど見本(雛型)としてお預けし、今後のたたき台の一つとして検討してもらうことにしました。お孫さんのL君には会えませんでしたが、20~30分の滞在で着実な一歩をさらに踏み出せました。
再び福島中央のインターから高速道路に乗りました。
新たなプランを得て再びテンションは上がりだしました。こういうときは次々とひらめくものです。
時間が間に合うようなら武蔵野市にある『子育て支援スペースとことこ』に立ち寄ってみよう。
時間的には若干きつい道程でしたが、ここ一番は気力で休憩を端折って運転しました。
施設長さんにはお会いできませんでしたが、こちらとのご縁は園長さんがここを立ち上げる以前からのお友達でしたから、支援のお世話になったりお世話したりの関わりが今も続いています。

世の中はお互いに誰かが誰かの支えや元気の源になっています。元気の連鎖です。そこから相互に生まれてくる力をよりどころに『復興支援』をこれからも幅広く続けていきたいと思っています。

10/14~16 支援活動に行ってきました。 ~その2~

2016-10-18 22:28:54 | 3/11を忘れない
復興支援活動をしている場所や人々と、支援活動している人の支援をしに10/14~16と2泊3日、宮城県気仙沼市、岩手県山田町、福島県福島市、東京武蔵野市と5か所行ってきました。

岩手県下閉伊郡山田町・・・岩手県の沿岸部、海に向かってギザギザとリアス式海岸が続く地形の中で、この山田湾だけは海に向かって開口部が狭く奥に向かって広いという「トックリ型(壺型)をしている地形」が湾の特徴です。
それゆえに湾の内側は平素であれば波の静かな湖のような海なのです。それゆえにこうした立地条件の為、津波による被害は周辺海岸と比較してやや緩やかであったと聞きます。
ここには3/11の震災の翌年から単身現地に入って「街づくり計画」のコンサルタントを続けている私の古い友人のG氏がいます。彼は私より1歳年上で、知り合って以来約35年の付き合いです。
彼との再会は一年ぶり。じっくり歓談しながら前回会った時から今回までの仕事の進捗状況や現段階で抱えている様々な困難などいろいろ話を聞きました。
彼は「自分にとってこの仕事がおそらく最後の仕事になるだろう」と語っていました。自らの仕事への肝の据わった彼の姿勢は実に凛としていて、仕事に対する気魄を痛切に感じさせられました。
私の好きな言葉の中に『仕事がその人間の顔を創る』という言葉があります。
彼の場合も全く同じで、大きな課題に向かって精進している人に共通の気配や雰囲気、ちょっと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、何というかある種の神々しいものを感じさせられました。
それならば、私自身は最後になるかもしれない今の自分の仕事に対してどれほどの自覚や決断をもって日々実践しているだろうか?仕事を推し進める上で何が肝心なのか、困難を乗り越えていくときには何が力の源となるのか、彼と歓談していると様々なことを自問自答させてくれる逸材です。
『街の復興』と言葉で言うのでさえも決して簡単なことではありませんがそれを現実に具体化していこうとしている彼や彼とつながる多くの人たちの苦労や努力のことをずっと応援していきたいと改めて思いました。

翌朝10/15
友人宅の一室を借りて持参したパーテーションのパネルを3枚連結し組み上げを完成させ、かねてより訪問をお伝えしていた山田町の大沢地区にあるO保育園を訪問しました。
こちらの保育園に訪問するのは3回目です。今回は特製のパーテーションをお土産に持っていきました。乳児だけでなく幼児さんも使えるような大きなパーテーションです。
園に到着すると、ちょうどお遊戯(体操)の最中でした。
一緒に混ぜてもらってテンポの速い体操(踊り?)を見よう見真似でしどろもどろの初体験です。
一区切りついたところで居合わせた主任さんから了解をもらい急遽飛び入りの『ばぶさんタイム』をさせてもらい歌や手あそびを一緒にしました。
・「ごひきのこぶたがオオカミをやっつけたお話(自作)」
・やまごやいっけん(外国の手あそび歌)
・たまごがわれた(作者不明)
・やさいのうた(作者不明)
・おてらのおしょうさんが・・・(わらべ歌ベースの現代版)
・ぐーぱー、ぐーぱー、グ~~~パー(自作) 他
子どもたちから「もっともっと」のアンコールもありましたが、すでにお給食を食べる時間に食い込んでいましたので八文目の処できりあげることになりました。
子どもたちが食事をしている間に、ここでも気仙沼の保育園の訪問の時と同じように事務室をお借りして乳児クラスの部屋用にモビールを一組制作しプレゼントしました。

後で判ったことでしたが、この日職員の中にたまたま保育実習の学生さんが二人混じっていました。実習期間のまん中でした。『ばぶさんタイム』の手あそびの時にやたら目を輝かして食いついてくる職員がいるなぁと好感を持ってみていましたが、この二人はこの保育園の卒園生なのだそうで、主任も園長もかつて彼女たちを担任したことがあったそうです。
卒業後に就職する先は既に他の施設に決まっていて、こちらの保育園の職員にはならないのだそうです。
ま、ともかく、この日の実習が終わってそれぞれ帰宅という頃、多少時間にゆとりがあるというので二人の実習生に反復練習を含めたスペシャルの実技講座と保育を展開していく上で是非大切にしてほしいことなどを少々レクチャーしました。 
出会いの記念に『ばぶバッチ』の中から自分の気に入ったものを選んでもらいプレゼントしました。


10/14~16 復興支援活動に行ってきました ~その1~

2016-10-18 04:35:17 | ばぶさん童話

 
復興支援活動をしている場所や人々と、支援活動している人の支援をしに10/14~16と2泊3日、宮城県気仙沼市、岩手県山田町、福島県福島市、東京武蔵野市と5か所行ってきました。
2泊3日の合計で1,634キロメートル走破しました。結構くたびれました。
 
14日町田を朝4時に出発、気仙沼までは約530キロ、ノンストップで走ったとして7時間20分というカーナビの案内でした。私は先月63歳になったのでやっぱり昨年よりも体力は落ちていまして、疲れや眠気を感じたら何度でも休憩を取りつつ安全運転優先で休み休み移動しました。
8時間半くらいかかって現地に到着です。
気仙沼のS保育園 、乳児クラスのみの施設でここへは約3年半ぶりの再訪問でした。
その当時は『前年の3/11の津波で園舎を喪失し、職員の有志がアパートの一室を借り受けて無給で保育を始めたという報道』などをラジオで聞き、ささやかでも応援したいと木のパズルと積み木を郵送し、そののち数か月後に直接気仙沼に出向く際、「それならば一緒にこれもプレゼントして下さい」と私の仕事仲間が制作したままごと用の座卓を預かりお届けしました。
先に私の贈ったおもちゃ類が日々の保育の中で実際どのように使われているかを確かめて、保育(あそびの展開)の質疑応答と共に簡単な助言やヒントをさしあげました。
そして今回の再訪問でした。
この間に当時の仮園舎の保育施設を刷新し、別の場所に新園舎(3年前)を落成し新たな保育を再開したという報告のはがきを私は嬉しく受け取っておりました。確実な復興の一歩です。その報告のお葉書をいただいた時ぜひまたS保育園を訪れてみたいと強く思っていました。
園舎も園庭の場所も新しくきれいに、広々と変わっていました。
今回はおみやげに特製のパーテーションを届けました。このパーテーションは保育室の間仕切り以外にこどもたちが『いないないばあ』だとか『かくれんぼ』だとか『トンネルくぐりのあそび』だとかいろいろに使えるものです。
段ボール製ですので表面のコーティングは職員の皆さん方でデコレーションしてもっと夢のあるパーテーションに進化させてくださいとお伝えしました。
現地に到着したのはお昼過ぎでしたのでこどもたちはお昼寝中でした。
ですから残念ながら今回は私のパフォーマンス(手あそびや踊りやお話)はできませんでした。
そこで、保育室に吊り下てもらおうと「折り紙で作られた独楽」を4つ構成してモビールを一組、現場合わせのサイズに事務室の中をお借りして制作しました。
この「折り紙独楽」は福島市在住の小学生の女の子が福祉施設に贈るために作り続けているもので、たまたま先月福島を訪れたときにいただいていたものを活用してのモビールです。
泣いている赤ちゃんやご機嫌の悪い赤ちゃんをあやしたり気分転換を誘うときなどにきっと役立つことでしょう。
次回こちらを訪問する時には前日にどこか近所に宿泊をして朝から午前中に子供たちと遊びたいと思いました。
次の訪問地に到着したい時間との関係で、15時過ぎにはさよならしなければなりませんでした。
カーナビで調べると岩手県の山田町の目的地までは気仙沼から103キロ、2時間20分、今度も道中休み休み国道45号線を北上しました。

ピーマン、シュークリーム、麦酒(ビール)の泡、人生の余白

2016-10-09 11:26:54 | 日々の暮らしの中で

この夏、どういうきっかけだか忘れましたが、何故かピーマンが大好きになりました。
ピーマンの色つやもさることながら、ぜ~んぶ同じ形をしていない、一つ一つ個性的な形をしている、さりげなく、実に見事な造形美になんとも魅惑させられました。些細なことに囚われ過ぎることなく自由奔放に育った結果があの形となっているのです。天然が作り出すまさに芸術作品です。
ピーマンなんて今までずっと見てきたのにその造形美の発見は新鮮な驚きでした。
そしてそこから目に留まった(心に留まった)スイーツが、シュークリームです。当然ながら中の空洞のスペースがたまらなくいいのです。この空ろな空間こそがうまさを秘めているのでしょう。
もしもピーマンやらシュークリームの内側にみっちりと中身の果肉やらクリームやらがそれこそびっちりと目いっぱい詰まっていたら旨さは半減してしまうように思うのです。
どちらも皮の内側の『うつろ』こそに意味があるように思えてきました。
人生も生活にもうつろな部分というか余白というか創りだせたら私という人間の旨味ももっともっと増すような気がしています。
そういえば20代前半の頃ぶらりと入った居酒屋でカウンターに居合わせたすぐ隣の客が、初対面の私に「ビールは泡が旨いんだよなぁ」という言葉を語ってくれたのがうつろの旨味の原点なのかもしれません。


60年後に思いを馳せつつ

2016-10-05 23:20:36 | 保育ネタ
保育園の中にある一時保育室です。
曜日ごとに毎日登園してくる子の顔触れが変わります。満2歳になる子から満3歳になる子たちが一日最大10名定員の保育室です。実にいろいろなお子さん方がいます。

私は先月63歳になりました。
私が日々付き合っている子どもたちの60年後に思いを馳せながら保育の仕事をしています。
目の前の彼らの殆どは今から60年後もきっと生き続けて社会の中で活躍しているでしょう。
今から60年後の私は間違いなく生きてはいません。だからどんな命のバトンを彼らに手渡せるのかと日々自問自答しつつ仕事しています。

これから先の60年後の日本はどのような状況でしょう?
原子力発電所の事故現場ではその事故処理が果たしてどこまで進展していることでしょう。
原発からでる『核のゴミ処理』はどこまで技術が進んでいるでしょう?

原発事故現場では今よりもはるかに高度な能力を発揮するロボットが沢山働いているでしょう。

そのロボットたちを設計できる学者、その図面通りに寸分たがわずに加工&組み上げられる職人 (技術者)、組み上がったロボットをあたかも自分の身体の一部のように操作しきれるオペレ-ター、事故現場で予測を超えた緊急事態が発生したときに冷静沈着に現場全体を俯瞰して的確な指示を次々と出せる統括者や統括チーム。
現場で働く作業者に美味しいお昼ご飯を提供できる料理人、できた美味しいお食事を笑顔で配膳して『疲れた身体を癒し元気回復を提供』できるスタッフ。
ありとあらゆる人材が必要です。社会全体が大きなネットワークとなって問題解決に取り組んでいるでしょう。
そのありとあらゆる分野の人材になるかもしれない可能性をもったひとたちの乳幼児期の感性の根っこのところを日々の保育を通じてせっせと耕している…そんな保育を展開できる自分でありたいと思うのです。
と同時に同じ思いで東日本大震災後の復興支援をこれからもできる限り長く続けていきます。