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小説の「書き出し」

明治~昭和・平成の作家別書き出し
古典を追加致しました

「あふれるもの」 瀬戸内晴美

2010-12-12 15:46:40 | 作家ス-ソ
 洗面道具をかかえたまま、通りの途中ですばやくあたりを見回すと、知子は行きつけの銭湯とは反対の方向の小路へ、いきなり走りこんだ。
 住宅の建てこんだせまい道には、表通りよりも濃い闇がよどんでいた。たちまち知子の姿をつつみこんでくる。一気に闇の中を小一町も駆けぬけて、ようやく息を入れた。
 ビニールの風呂敷でつつんだ洗面器の中には、はじめからタオルで小道具をくるみこんでいて、こんな走り方の時にも、不用意な音をたてないように気が配ってあった。こういう行動をとりはじめてから知子の覚えた小細工だった。
 知子ははじめの頃、走る度に洗面器の中で躍り上がり、
ぶっつかり合う、石鹸箱やクリームの瓶の音に怯(おび)えたり苛(いら)だったりした。湯上りタオルの入れ方ひとつで、その音が難なく防げるのを発見した時、ほっとした想いよりもはるかに激しい惨(みじ)めさに打ちのめされた瞬間を、知子は今でも忘れてはいない。
 知子の下宿に内風呂がないという唯一の不満が、今ごろ、こんなところで役立つようになろうとは、知子自身を考えてもみなかったことであった。
 慎吾の目をかすめ、銭湯へ行くふりをして、涼太を訪ねるという大胆な熱情的な行動をじぶんに強いるものの正体を、知子がみきわめているわけでもなかった。