【書評】『ナショナリズムの由来』大澤真幸著
2007年9月30日 SANKEI WEB
■社会学を越え思想の集大成
大澤真幸は、いまや、社会学者というよりも思想家として紹介したほうがよい人物だ。彼の著作は、社会学を超え、文学や宗教論、さらには性愛論にまで広がりをもち、この20年、人文系理論に関心のある多くの読者を惹(ひ)きつけ続けている。本書はそのような「大澤思想」の、現時点での集大成として書かれた大著である。
著者がここで、思想を開示する軸として選んだ主題はナショナリズム論。特定の民族を特別扱いすることに、科学的な根拠は存在しない。国境が恣意(しい)的なことはよく知られている。それに加えて、いまや同じようなライフスタイルが世界中を覆っている。にもかかわらず、ナショナリズムは、いまも多くの人々を魅了し続けている。いったい、これはどういうことなのか。
著者はその矛盾から出発し、ナショナリズムの歴史、重要な先行研究を追跡したうえで、ナショナリズムの魅力が、特定の国家や民族への幻想に還元できないことを論証していく。後半に入ると議論は抽象度を深め、ナショナリズムそのものというよりも、そのような不完全な「イズム」に取りつかれてしまう、精神構造のほうに焦点は移っていく。結果として著者が辿(たど)り着くのは、ナショナリズムとは、国家や民族への愛というよりは、もっと空疎で空虚なもの、すなわち、ひとりひとりの人間は、特定の時と場所に生まれ育たざるをえないがゆえに決して普遍的立場には立ちえない、そんな条件そのものが生み出してしまう認知上の錯誤のようなものなのだ、という驚くべき結論である。
前述のように、大澤の論述は社会学を超えている。現代美術論に始まり、最後は宗教的な問いにまでいたる800頁(ページ)超の議論は、一般的なナショナリズム論を期待した読者を戸惑わせるかもしれない。しかし、本書には、現代社会で「ものを考えること」のひとつの達成が刻まれている。ぜひ一読していただきたい。(講談社・5000円)
哲学者・批評家 東浩紀
◇
【プロフィル】大澤真幸
おおさわ・まさち 昭和33年生まれ。東大大学院博士課程修了。現在、京大大学院教授。著書に『行為の代数学』『戦後の思想空間』など。
・・・・・・・・
うんうん。
なるほど、ナショナリズムはイズムではない。
それは国家という枠組みが自己の属する文化グループ保存(あるいは存続)における必要条件であるという幻想である。
というところまでは著者の見解と近そうですが、民族(あるいは文化グループ?)とライフスタイルを共有するグループを同一平面で捉えている(だから矛盾と考える?)のはちょっと・・・(まぁ原本を読んでみなきゃなんですが)。
同じようなライフスタイルをしていても、言葉が違うわけですね。
宗教的認識の構造も違う。
例えば私がクリスチャンだと言っても、これは欧米のクリスチャンとは全然違うわけですよ。
家の宗教は神道ですし。
それでも墓は寺院にあって、お寺で法事を行う。
で私は神道も仏教も否定していないし、それぞれ尊重する心があるわけですよ。
神道の多様な神々(日本精神の正に精髄)も仏教の諸仏、諸仏典、諸宗派(世界というモノを認識する手法の多様性)も、共に尊いと思います。
もっと言えば神道→陰陽道→道教と辿ることができるタオの文化(宇宙原理への意識)への憧憬も深い。
逆にクリスチャンと言っても、これは私流の聖書解釈であって、別に旧約に登場するような“人格”があるかのように描かれている“神”への信仰とは言えない。
“神”と言い“創造主”と言うも、私の信ずるものは「宇宙がこのようである根本原理」と言うに近い。
人は神の似姿と言いますが、似ているのは外形ではなく“知性”であると考えているわけです。
有限の大きさを持つ“この宇宙”を造った、言い換えると「宇宙の外側にある原理、システム」が私の神なわけです。
宇宙の外側にある宇宙の入れ物と言っても良い。
だから教会で祈るのも、仏教徒のようなメディテーションで恣意的認識から離れて自由になるのも、私にとっては同じことなんですね、ある意味。
欧米のクリスチャンの信仰ってのは、私のようなモノでは全然なくて、シンプルなんですね。
もっとずっとシステム的には強固なんですが。
もちろん、この欧米って括りは言葉の綾みたいなもんですけど。
またムスリムの信仰もシンプルで強固だと思いますね。
長くなりましたが信仰という問題だけでも、文化集団によって、勿論、個人個人、全く違う。
ライフスタイルってのは、文化グループの存立基盤にはならないんですよ。
ライフスタイルってのは、むしろ経済システムの問題であって文化システムの問題ではないから。
地下鉄に乗ってマックで食事してレンタルDVDを借りて本屋によって、スーパーで買い物してカレーを作って食べるっても、日本人のソレとイギリスに住むパキスタン人のソレでは全然違う。
意味が。
同じトヨタのプリウスに乗るのでも、(ホントはスポーツカーに乗りたい)カーマニアが妥協して乗ってるのと、経済的で好きなクルマだから乗ってるのは全然違います。
この辺、文化ってモノの捉え方が問題なんですけどね。
まぁ、でもこの本は興味ありますね。
ナショナリズムってモノをどのように捉えているのか。
書評よりは面白そうな予感があります。
2007年9月30日 SANKEI WEB
■社会学を越え思想の集大成
大澤真幸は、いまや、社会学者というよりも思想家として紹介したほうがよい人物だ。彼の著作は、社会学を超え、文学や宗教論、さらには性愛論にまで広がりをもち、この20年、人文系理論に関心のある多くの読者を惹(ひ)きつけ続けている。本書はそのような「大澤思想」の、現時点での集大成として書かれた大著である。
著者がここで、思想を開示する軸として選んだ主題はナショナリズム論。特定の民族を特別扱いすることに、科学的な根拠は存在しない。国境が恣意(しい)的なことはよく知られている。それに加えて、いまや同じようなライフスタイルが世界中を覆っている。にもかかわらず、ナショナリズムは、いまも多くの人々を魅了し続けている。いったい、これはどういうことなのか。
著者はその矛盾から出発し、ナショナリズムの歴史、重要な先行研究を追跡したうえで、ナショナリズムの魅力が、特定の国家や民族への幻想に還元できないことを論証していく。後半に入ると議論は抽象度を深め、ナショナリズムそのものというよりも、そのような不完全な「イズム」に取りつかれてしまう、精神構造のほうに焦点は移っていく。結果として著者が辿(たど)り着くのは、ナショナリズムとは、国家や民族への愛というよりは、もっと空疎で空虚なもの、すなわち、ひとりひとりの人間は、特定の時と場所に生まれ育たざるをえないがゆえに決して普遍的立場には立ちえない、そんな条件そのものが生み出してしまう認知上の錯誤のようなものなのだ、という驚くべき結論である。
前述のように、大澤の論述は社会学を超えている。現代美術論に始まり、最後は宗教的な問いにまでいたる800頁(ページ)超の議論は、一般的なナショナリズム論を期待した読者を戸惑わせるかもしれない。しかし、本書には、現代社会で「ものを考えること」のひとつの達成が刻まれている。ぜひ一読していただきたい。(講談社・5000円)
哲学者・批評家 東浩紀
◇
【プロフィル】大澤真幸
おおさわ・まさち 昭和33年生まれ。東大大学院博士課程修了。現在、京大大学院教授。著書に『行為の代数学』『戦後の思想空間』など。
・・・・・・・・
うんうん。
なるほど、ナショナリズムはイズムではない。
それは国家という枠組みが自己の属する文化グループ保存(あるいは存続)における必要条件であるという幻想である。
というところまでは著者の見解と近そうですが、民族(あるいは文化グループ?)とライフスタイルを共有するグループを同一平面で捉えている(だから矛盾と考える?)のはちょっと・・・(まぁ原本を読んでみなきゃなんですが)。
同じようなライフスタイルをしていても、言葉が違うわけですね。
宗教的認識の構造も違う。
例えば私がクリスチャンだと言っても、これは欧米のクリスチャンとは全然違うわけですよ。
家の宗教は神道ですし。
それでも墓は寺院にあって、お寺で法事を行う。
で私は神道も仏教も否定していないし、それぞれ尊重する心があるわけですよ。
神道の多様な神々(日本精神の正に精髄)も仏教の諸仏、諸仏典、諸宗派(世界というモノを認識する手法の多様性)も、共に尊いと思います。
もっと言えば神道→陰陽道→道教と辿ることができるタオの文化(宇宙原理への意識)への憧憬も深い。
逆にクリスチャンと言っても、これは私流の聖書解釈であって、別に旧約に登場するような“人格”があるかのように描かれている“神”への信仰とは言えない。
“神”と言い“創造主”と言うも、私の信ずるものは「宇宙がこのようである根本原理」と言うに近い。
人は神の似姿と言いますが、似ているのは外形ではなく“知性”であると考えているわけです。
有限の大きさを持つ“この宇宙”を造った、言い換えると「宇宙の外側にある原理、システム」が私の神なわけです。
宇宙の外側にある宇宙の入れ物と言っても良い。
だから教会で祈るのも、仏教徒のようなメディテーションで恣意的認識から離れて自由になるのも、私にとっては同じことなんですね、ある意味。
欧米のクリスチャンの信仰ってのは、私のようなモノでは全然なくて、シンプルなんですね。
もっとずっとシステム的には強固なんですが。
もちろん、この欧米って括りは言葉の綾みたいなもんですけど。
またムスリムの信仰もシンプルで強固だと思いますね。
長くなりましたが信仰という問題だけでも、文化集団によって、勿論、個人個人、全く違う。
ライフスタイルってのは、文化グループの存立基盤にはならないんですよ。
ライフスタイルってのは、むしろ経済システムの問題であって文化システムの問題ではないから。
地下鉄に乗ってマックで食事してレンタルDVDを借りて本屋によって、スーパーで買い物してカレーを作って食べるっても、日本人のソレとイギリスに住むパキスタン人のソレでは全然違う。
意味が。
同じトヨタのプリウスに乗るのでも、(ホントはスポーツカーに乗りたい)カーマニアが妥協して乗ってるのと、経済的で好きなクルマだから乗ってるのは全然違います。
この辺、文化ってモノの捉え方が問題なんですけどね。
まぁ、でもこの本は興味ありますね。
ナショナリズムってモノをどのように捉えているのか。
書評よりは面白そうな予感があります。