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新型コロナウイルスが与えたもの - いまできることを考えて

2020-04-27 22:48:15 | 新型コロナウイルスについて考える
前回の記載(2019年8月)から八カ月。 頚椎症性脊髄症という診断を受け、病院でのリハビリや、自分なりに考えてのリハビリを続けていましたが、.......生死にかかわる病気ではないのですが......やはり体調がすぐれず、キーボードを叩こうという気持ちが起きず、いつのまにか八カ月という月日が流れていたことになります。 2020年1月に今回の新型コロナウイルスによる感染が発生してからは、高齢者でもある身としては、さらに自宅にこもる生活を続けてきました。 書物では読み、知識としては知ってはいましたが、よもや自分が「パンデミック」の世界を見ることになるとは、皆さんもそうだと思いますが、いまだに信じられないような気持ちでいっぱいです。

2020年4月27日 いまできることを考えて

現状に向かって実際に何かができるわけではなく、でもステイホームという時間だけは十分にある今、この中でできることを考えていて、思いつくこと - できることはやはり「考える」ということでした。大勢の方々がマスコミの場で、あるいはSNSで発言している中で、私が語れることは少ないのですが、ともかくやれそうなことをやってみようと八カ月ぶりにキーボードを叩いています。 とはいえ、何か確定した構想が決まっているわけではありませんので、いまは、ランダムに思っていることを書きだしてみて、後日あらためて整理していきたいと考えています。

◇ 「新型コロナウイルスについて考える」とタイトル付けしたホームページ.....土台の表紙だけですが...をまずは開設してみました。 step-by-step79.webnode.jp/

後日、ここに整理した内容を書きこんでいこうと考えています。




◇SNSについて

SNSの功罪について多くの学者の方々、ジャーナリスト、マスコミ関係者、専門家の皆さんが書かれている文章を目にします。 いまはこの新型コロナウイルスをめぐる SNSの功罪を取り上げられている新聞記事などもありました。 毎日、毎時間、寸時を置かずに書き込まれる SNSの発信を見ていて私的な感覚として感じるのは、 SNSという簡便なツールの巨大さと、その簡便さゆえに表裏一体的に発生している炎上ともいえる現象を見るにつけ、私には この “短い表現ツール” には向かないなあ、という思いです。  マスク、パチンコ店名公表 etc を巡っての応酬などは、何を言いたかったのかをもっと文章を練って発信したならば ......それはわずかな字数では表現しきれないことになると思うのですが .......おそらくその方の真意がもっと正確に伝わっていただろうに、と思うのです。 たとえば、遊びとかスポーツとか、その取り上げる話題の内容が明確であればあるほど「炎上」とはほど遠いものになると思うのですが、 今回のコロナウイルスのように、どこに正解があるか誰にもわからない事象では、短文章で成り立つ SNSというツールでは、 書き手にしても、何を伝えるか (伝えたいのか)という思索を時間をかけずに書き出してしまうのではないでしょうか?   (その書き手が感じた)良いか、悪いか、好きか、嫌いか、そういう二項対立が前面にでたコトバになってしまう、 それがSNSの特徴であるように感じます。 書き手のコトバが二項対立ですから、読み手の反応も同様に、良いか、悪いか、好きか、嫌いか ということになってしまうでしょう。

もうひとつ人間の癖として、 多くの場合は「自分は正しいことをしている(言っている)」という感情が先行しがちです。 SNSというツールが基本的には “ 自分 ” を表現したいという欲求を満たすことを叶えるツールであるがゆえに、 書き手が 「私の考え方は間違っているかもしれませんから、もしそう感じたら、ご指摘下さい」 というような書き方はしないでしょう。 単刀直入に、自己の思ったことを伝える。 それに対して、単刀直入に「イイネ」反応が得られる。 例えとしては不適切かもしれませんが、いわば漫才で発した一言に対して、目の前で笑いが起こる。その感覚のように思えます。 ポンと発して、それに対してポンと返す、 その丁々発止がときには良い意味での盛り上がりを生むときもあれば、逆に、とめどない罵詈雑言の言い合いになってしまう。 なぜなら、それぞれの書き手は「自分は正しいことを言っている」と考えているのですから。 善と善のぶつかりあいです。 本来は、善どうしなのですから、二項対立ではないと思うのですが、 善と善、 正義と正義であるがゆえに、 この両者がぶつかり合うと、 何がなにやらわけのわからない混濁した事態に陥ってしまう。 それが炎上という事象なのだと感じています。 

つまり、 今回の新型コロナウイルスのような事象において SNSでの発言は慎重であるべき。 というのが私の意見になります。


◇コメンテーターとは ?  (テレビの役割とは? )

三月の連休で「緩みが発生した」。 それが四月になってからの感染拡大に繋がった。 とはよく聞く説明です。 こういう後付けコメントが発せられるときに、枕詞のように付け加えられるのが「総理の発言」が世間の気の緩みに繋がった的なコメントです。 自宅にほぼ24時間籠っていますと、ほぼテレビで新型コロナウイルスのニュースやワイドショー、あるいはYahoo newsなどばかり見ている状態です。

確かに総理の発言には ? クエッシヨンマークが付くのでは、と私も思います。 しかし、同時に、三月の連休前のテレビの内容を振り返りますと、 私にはどうしても「テレビの罪」ということも考えてしまいます。 感染拡大を食い止めなければ大変なことになってしまう。ここは皆さん、頑張って自粛しましょうと真剣に訴えかけたテレビ (司会者、アナウンサー、コメンテーター等)を思い出すことができません。 思い出すのは、新型コロナウイルスのトピックスを流した後に、そろそろ桜が咲き始めました、 見ごろを迎えています、 というようなノンビリムードの展開ばかりです。 

そして、もっと大切なことは、テレビ側(司会者、アナウンサー、コメンテーター等)から、 自分達の在り方・やり方にも反省点があったのではないか? という発言がいまだに一度として聞いたことがない。 という点です。 もしかしたら、 私が見逃したどこかのテレビ局の番組ではそういう自省の言葉が発せられたこともあったかもしれませんが、残念ながら私はそれを見逃してしまっています。 あるいは民放にこのような自分達の在り方を振り返って、というような内容を期待すること自体が間違っているのかもしれません。 アナウンサーやいわゆるコメンテーターと呼ばれる方々は、 私の想像するジャーナリストという存在ではなく、その立場も仕事の内容も違うのかもしれません。 彼らが悪い、と言っているのではありません。 ただ、あのノンビリムードを醸し出していたのは、テレビもその役割を担っていたはず。 ということを思い出していただきたいのです。 

  
◇安部総理

もしこの方に 「泣いて馬謖を斬る」 という勇気があったなら、あのような様々な問題が発生することもなく、 そのことで大勢の官僚や役人、政治家が貴重な時間を失うこともなく、そしてなによりも、もっと多くの国民から信を得ることができていたのに、 と思うばかりです。 

もしこの方に捧げる銘文を決めさせてもらえるなら、

    「責任」という意味を書き換えた人物    と書きたいですね.......

もし四字熟語で表すとしたら 彫虫篆刻  ですね

もっとも、これはこの方の専売というよりは、日本の政治家全般に言えることなのですが。


    追記 : 絶対的権力は絶対に腐敗する ジヨン・アクトン



◇マスコミ

例のマスクを巡って、 マスク受注企業との癒着は一切ない。の一言で切って捨てられたようですね。

情報が小出しに出されているようですが、 企画・計画書、発注書、受注書、納品書等々の情報開示はなされるのでしょうかね? 書類は破棄しました・作製していません、でまた終わってしまうのでは?
......よもや改竄はないと思いますが。 


◇今後の中国とのつきあい方は?

10年後、50年後、100年後の日本の在り方を考えて、かの国と今後どういう関係を築くのか、あるいは修正していくのか等について、 ぜひとも有識者・専門家の方々が垣根を越えて、そして政治家の方々も敷居を低くして、討議して欲しいものです。 今回の事案は、現状を認識し、再考するための試金石を与えてくれたのだと思います。 

→もうひとつ言えるだろうことは、 かの国が日本という国をどうしようとしてるのか? という情報分析と視点なのだと思います。 今後の日本がどうなるのかの主導権は、かの国にすでに握られてしまっているのかもしれません。 今回のコロナパンデミックが示したように、災禍による被害をもっとも被るのは、政治家でも官僚でもなく、私達一般市民なのですから。 


◇「斎藤さん」はいまどこに ?

テレビニュースによると、公園に子どもを連れてきた看護師さんに向かって、「いまの時期 ここに来るのは遠慮して欲しい」 と告げた方がいたとのこと。 その内容・表現が事実かどうかは私にはわかりませんので、 ここに書くのは、まさに SNS的表現になってしまいます。

このような情景を想像したときに脳裏に思い浮かんだのが、 「斎藤さんがいてくれたら」 ということ。

そして、このような場面が生じるのも、 どうしてもSNSの普及が影響しているように感じてしまいます。

自分は正しいことをしている(言っている)。  だから、 ...... と簡単に切って捨てるのが SNS的表現ですね。 

この方も内心では苦しんだのかもしれません。 きっと悩み悩みながら、でも公園に来ている大勢のお母さん方が思っていることを代弁しなければと、勇気を振り絞って、告げたのかもしれません。 

その心情も理解できます。 もし私がこの方の立場であったなら、と想像したとき、私にできる行動はおそらく、我が子を連れて公園から出ていく姿です。 誰が悪いわけでもなく、まして、この看護婦さんが悪いわけでもありません。 このパンデミックがなければ、「来ないで」などとは決して発想するような方ではなかったことでしょう。 すべては、このパンデミックが与えた試練というものなのだと思います。 
ただ、もしも私がその一言を告げなければならない立場に置かれたならば、少なくとも次の言葉は付け加えると思います。

      「たとえコロナに感染しても、病院には行きませんので、 
       すみませんが、 看護師の貴方もいまのこの時期に
       公園に来るのは止めていただけますか。」  と。 



◇大学の弁論部の皆さんへ

ぜひとも皆さんにネットを活用したリアルタイムのディベート大会を企画して欲しいです。 SNSのような、顔の見えない者の間で、憎悪と分断と不理解の溝を作り出す場ではなく、 ディベートというルールのもとで顔を見ながら「互いの異なる主張を論理展開」して欲しいのです。 SNS的一言で物事の白黒がつくものではないことは、誰でもが分かっているはずなのですが、ではそれに代わる「場」や「方法」が現代ではあるようでない。 それが現実ではないでしょうか ? コメンテータと言われる方々が、皆さんの考えを代弁している? でも、それでは皆さんは何も考えていないと同じになってしまいます。決してそうではないと思うのです。 世間に向かって言いたいことは山ほどある、取り上げる議題は山のようにあると思うのですがいかがでしょうか?


◇ITに詳しく、教育関係を学んでいる学生さんへ

前記の内容と重複するのですが、 ネットを利用した「学級会」のようなものを企画できないものでしょうか? 対象は、 小学生、中学生そして高校生です。 議題は、彼らが感じている現状にたいする疑問のようなもので。 あるいは、例えば、上記の公園から追い出された看護師さんのような事例を取り上げることもできると思います。 大切なのは、良い悪いを議論するのではなく、 なぜこのような事例が発生するのか? その背景とか、 人間の心理とか、 状況の問題点とか。 そしてどうすれば解決できるだろうか? という視点でのディベートではいかがでしょうか。 


◇お子さんと一緒にステイホームをされているお父さん・お母さんへ

前記の内容と重複しますが、 毎日のニュースで話題となるような、上記のような内容をお子さんと話し合ってみてはいかがでしょう。 対象となる内容を説明し、それに対するお子さんの意見をまずは作文に書いてもらいます。 そして、その作文を読みながら、ご家庭で討議してみる。という展開です。
正解はないと思いますが、 大切だと思うのは、 いま私達は生きる・死ぬに直結する現実の中にいる。というこの事実を、お子さんと話し合える機会というのはおそらく今しかない、ということです。
勉強が遅れないようにとドリルや宿題をさせることも大事です。 でも、それだけではおそらく子ども達は飽きてしまうのでは?  もし、ご両親からそのような作文を書かせることが苦手なのだとしたら、担任の先生と相談してみてはいかがでしょう。 物事を考えて、それに対する自分の意見を文章にする。 ということが教育の一環として要求されているというのも現実です。  


◇国会中継を見て思う事 : 野党の皆さんへ

これこそSNS的表現で切ってしまうことになるのですが、テレビを見て思うのは、「いつもの茶番ばかりだなあ」 ということ。 
 

この項、後日に続きを記載します

august03

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