
きょうは、午後から、崇徳教社主催の講演会に
出かけてきました。
演題は「落語の中の仏教」。
釈徹宗先生の講演と桂春之輔師匠の“生”の落語を
聴かせていただきました。
釈徹宗先生は、仏教学者であり、お寺の住職でもあり、
一方で、仏教とかかわりの深い芸能の研究でも、
有名な方で、たくさんの本も書いておられます。
仏教を山にたとえるなら、その、裾野にあって仏教を
ある意味、支えてきたのが、能とか狂言とか、落語とかの
芸能だったんですね。
先生のお話は、ここから始まりました。
山は高いほど、裾野も広い。
広い裾野の中で、どれだけ多くの芸能が、仏教とともに
現在まで歩んできたのでしょうか。
古来、神道は“踊る”とか“歌う”という裾野を持っていました。
では、仏教の裾野は。。。
“語り芸能”なんです。
節談説教とか唱導といわれるものがそれです。
そして、その中の一つが、「落語」なんですね。
はじめ、しんみり。
なかは、おもしろく。
おわりは、尊く。
その、「なかは、おもしろく。」を取り出してみせたのが、
落語だと、釈徹宗先生のお話でした。
仏教と芸能の共通点。
演じる側とそれを受ける側との不思議な、
う~~ん、先生は何とおっしゃったかな。
一つは、日常を揺さぶること。
二つは、演じ手のかもし出す、かすかな刺激が、
受け手におおきな増幅をもたらして、広がっていく。
なんか、すごい、感動しましたね。
宗教を笑うとか笑えるというのは、
かなり成熟した精神文化の土壌があるということ。
世界には、笑いでもしたら、とんでもない宗教が、
いっぱいあります。
そういう意味での、仏教をネタにした、
最後の、桂春之輔師匠の落語は、おもしろかったですね。
演目は「死ぬのは今」。
最後の“落ち”は、こうなんです。
三途の川の閻魔大王が、賄賂をもらった罪で、しょっ引かれて、
今、閻魔大王庁は誰もいません。ので・・・・・
「死ぬのは今だよ」
おあとが、よろしいようで。。。。

きょうも来てくださって、ありがとうございます

釈徹宗先生のサイン入り「おてらくご CD付」が
抽選で10冊プレゼントされたんですが、
私は、外れました。
出かけてきました。
演題は「落語の中の仏教」。
釈徹宗先生の講演と桂春之輔師匠の“生”の落語を
聴かせていただきました。
釈徹宗先生は、仏教学者であり、お寺の住職でもあり、
一方で、仏教とかかわりの深い芸能の研究でも、
有名な方で、たくさんの本も書いておられます。
仏教を山にたとえるなら、その、裾野にあって仏教を
ある意味、支えてきたのが、能とか狂言とか、落語とかの
芸能だったんですね。
先生のお話は、ここから始まりました。
山は高いほど、裾野も広い。
広い裾野の中で、どれだけ多くの芸能が、仏教とともに
現在まで歩んできたのでしょうか。
古来、神道は“踊る”とか“歌う”という裾野を持っていました。
では、仏教の裾野は。。。
“語り芸能”なんです。
節談説教とか唱導といわれるものがそれです。
そして、その中の一つが、「落語」なんですね。
はじめ、しんみり。
なかは、おもしろく。
おわりは、尊く。
その、「なかは、おもしろく。」を取り出してみせたのが、
落語だと、釈徹宗先生のお話でした。
仏教と芸能の共通点。
演じる側とそれを受ける側との不思議な、
う~~ん、先生は何とおっしゃったかな。
一つは、日常を揺さぶること。
二つは、演じ手のかもし出す、かすかな刺激が、
受け手におおきな増幅をもたらして、広がっていく。
なんか、すごい、感動しましたね。
宗教を笑うとか笑えるというのは、
かなり成熟した精神文化の土壌があるということ。
世界には、笑いでもしたら、とんでもない宗教が、
いっぱいあります。
そういう意味での、仏教をネタにした、
最後の、桂春之輔師匠の落語は、おもしろかったですね。
演目は「死ぬのは今」。
最後の“落ち”は、こうなんです。
三途の川の閻魔大王が、賄賂をもらった罪で、しょっ引かれて、
今、閻魔大王庁は誰もいません。ので・・・・・
「死ぬのは今だよ」
おあとが、よろしいようで。。。。

きょうも来てくださって、ありがとうございます

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私は、外れました。