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かかりつけのお坊さん 奮闘編

転勤も定年もリストラもない、失うものは何もない最強な坊主が日頃の“感謝”を言葉にこめて、日常を綴ります。

750年をつらぬくもの

2012-09-28 21:37:28 | 日記
私の父は、10歳のとき、父と死別しました。

だから、私は祖父の顔は知りません。

父は、4人兄弟の二男に生まれました。

長兄は大学在学中に病死しました。

そして、父は中学卒業後、出征しました。

「中国の真ん中へんに、長沙って町があるじゃろうが」

長沙で敗戦を迎えました。

父のすぐ下の三男は、海軍に志願し、フィリピンで戦死しました。

末弟の伯父は、終戦のときは、東京の大学に行っていました。

学徒動員で戦地に行く覚悟をしていたようです。

そんなお寺を、父の母(私の祖母)はひとりで護っていました。

1945年(昭和20年)8月6日、広島は焼け野原となりました。

ヤケドを負いながら、逃げ延びて斃れられた人たちを、

祖母は、川原に足を運んでは、お経をよみ、火葬の場にずっと

たち続けていました。

二人の子どもを戦地に送り、残された末弟の伯父に、自分の

後を託していたようです。


その年の12月、父は広島に帰還してきました。

「かあさん、元気じゃろうが。

 その証拠に、ワシの体には、いっぱい虱(シラミ)が

 住みついとる。」

祖母は、涙を流して喜んだそうです。

その祖母は、私が生まれて4歳のとき、1週間の患いで

亡くなりました。

だから、祖母の顔は、写真でしか知りません。

父が30歳のときです。


あれから、六十年経ちました。

父が80歳のとき、祖母の50回忌をお勤めしました。

「母の50回忌が済むまでは、ワシは死なれん」

父の口癖でした。


父が、中国で戦死していたなら、この私はいません。


私の父は、私のすべてでした。

いつも、私は自分の中の“父”と闘っていました。


「お前は、わしらの苦労なんか、全然わかっとらん」

「お寺に生まれたものはな、こうせんといけんのじゃ」


長い、長い、闘いでした。


きょう、安芸教区の親鸞聖人750回大遠忌の法要に

会わせていただきました。

750年という年月を超えて、今の私を、“お坊さん”に

してくださった、大きな力に出会いました。


どうやっても、このオレ様を、坊主にしたいんだな。

よ~~し、わかった。

お坊さんでいいんだろ。


先ほど、坊守が帰ってきました。

「あしたも、着物だって」

「抹茶の接待が本番なんで、みんなと明日も着物にするように

 きめました。

 明日は、小紋にしようかな」



「それに、記念撮影もあるし・・・・・」


早速、タクシーの予約を入れてました。



私も、きょうのところは、しっかり“お坊さん”をしときます。

でも、明日になったら、



どげえになっとるか、知りませんよ~~(笑



広島ブログ いつも、ありがとうございます
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