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お母さんピアノを弾いてください

優しい母が認知症、強制入院。介護で体を壊し退職。弟とのメールのやりとり、詩や短歌で介護の現実を紹介していきます。

呪縛

2011-07-03 23:56:50 | Weblog
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父のことを書いているのだけど、母のことが心配。

母は昨日から熱が38度でた。


おみままいに行っても、顔を毛布で覆って隠そうとする。


私はきらわれているんだろうな、、。

寝顔を見られたくないと言う大正時代の良家の娘の躾が生きていることも事実。


しばし、たった一人きりで母の部屋にいた、、、

涙がこみ上げる。


もう結婚して、子をもうけることなどできない。

母は私に期待した、期待しすぎた、、、、




母はは長女として、
若いころから責任感が強い、大の学問好きである。


私に期待しすぎたんだろうね。

私に、信仰深く大卒の女をあてがおうとしたんだ。


でも母やら教会の婦人連が進めてきたのは、暗く、陰にこもり、疲れる女性ばかりだ。

×一だった李、年上だったり、、、、。


私はおとなしく見えるから、こいつなら文句は言わないだろう、、、母っ子だから母の言うとおりにするだろうから、押しつけてしまえ、、、、それは手に取るように分かった。




こういう進め方をする奴が多い。


僕と友情やら、交流を失うのならそうしろ。



私は救世軍じゃない、、、。

かなりきつい書き方するけど、、、人を小さいからと言って、どうでもよい女を紹介するな。


、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


母にはすまない、本当だったら良い大学出て、きれいな奥さん、可愛い子を母に見せていたはずだ、、、、。



母は隣の家で渡り廊下で行き来できたはず、、、、

あまりの悔しさに、呪いを感じた。

天野家の呪縛、、、、、いつか話すだろう、、、、。

丁稚奉公

2011-06-28 21:25:02 | Weblog
父親は、語学に興味を抱いたのはいつごろか、詳しい話は聞いていない。

父親は中学を出たら働くつもりだった。

しかし卒業する年になると、祖母に高校だけは行かせてくれと頼んだそうだ。

商売人の家だから、早く労働することが長男の使命だったのかもしれない。

けっして商人ではない、商家でもない。商売人、、なのだ。

当時としたら、そうした家の者が高校や大学に行くことは、珍しいことだったのだろう。

ただ、だんだんと商売人の子は商業高校か商業大学へ行くという道ができていたようだ。


子供の頃怒られると、父は「丁稚に出すぞ」と言っていた。


子供の頃はそれを本気に聞いていた。







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理科系

2011-06-27 23:59:32 | Weblog
父親は、化学とか好きだったようである。

化学の難しい問題を高校の時、スラスラ解いて教師や生徒から感嘆されたそうだ、、。

われわれ息子たちは、理科系は全く駄目である。

ただし、父親はあまり音楽とか美術、文学には造詣が深くない、、、。

われわれ息子たちが、やたら音楽やら美術、文学好きなのは母の影響か、あるいは越えようとも越えられないオヤジへの反発かもしれない。

音楽でなら父に勝てる、、、、とか、、それは確かに意識して育った。


商人の家だけど、父親はそろばんを習ったのは遅かったようだ。

高校くらいにそろばん塾に行ったら、習得が早くて代表で大会に出されたと言うのだから、やはり相当頭がいいのだろう。


暗算で頭の中にそろばんの玉が見えたとか、、、小学校から始めたわけではないから、それはすごいと思う。


私は大学卒業間近にそろばん塾に行き、小学生と一緒にそろばんを習ったが、帰り道頭の中で玉らしいものがうごめいたくらいだが、、、。









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自転車いじり

2011-06-22 00:50:12 | Weblog
戦前の教育のみならず、ゆとり前の教育も否定してきた

日本の教育評論家、教育学者、、、有識者(これは何者のことを言うんだろうね?)

戦前の中学教育などは今の高校レベル、かなり高度な内容だった。

塾もなく、それでも日本の国を発展するのに貢献した人たちは数知れない。



父親は街の布団屋のせがれだ。

なんらお偉いさんとは関係ない。


中学を出たら働くつもりだった、そうだ。

学校から帰ると、綿の配達などもしてたようだ。


父は貧乏だったと言う、、、。



それを聞いてた祖母は

「益夫ちゃんは何言うだね、、・・三河弁

と怒っていた。

父がアメリカに行く時、家一軒買うくらいのお金が必要だったそうだ、、、。

大学に行くのも同じ、、。

祖母は綿の打ちなおしでもうけて、学費を出したのだそうだ。


小さい町工場ながら、綿打ち工場を持ち人を雇っていたくらいだから

貧乏ではない、、、、


どの程度かは、、、さすがに知らぬ。

父の実家は昭和26年から28年10月まで住んでいた。

戦争の爆弾で家が傾き、大きなつっかえ棒が何本かささえていた。

その時の方が僕は、貧しいとは思わなかったがすげえ家に住んでると言う面白さはあったが、、、、


二階に行くと、斜めになっているのだもの。


父親は、機械いじりが好きで、自転車などしょっちゅう分解していた。

やがてバイクも分解し、直したりする。

たぶんその頃の父のやってたことが、のちに、商学部の卒業生なのに

レーヨンの製造に関して特許を7つだかとったことに結び付いたんだろう。














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コレスポンダント

2011-06-16 23:29:24 | Weblog
それぞれ家族には歴史がある。

名もない普通の家庭、、、というけれど、本当は名前のちゃんとある、時代を背負った無数の
人々。

家族だって、自分を基準にすれば、前後2、300年の語り次がある。

それが今すごく大事だと思う。


........

父親は、中学を出たら働くつもりだったようだ。

商売人の家では、そんな男は大事な稼ぎ手ですから、家業を継ぐのは当たり前のことだったでしょう。

けれども、卒業後どうしようかということになったら、
「高校だけは行かせてくれ。」と祖母に頼んだようだ。

最初は工業高校に行きたいと父は言ったらしい、けれども父の性格を見ていた祖母は

機械いじりは好きだけど、性格的に商売が向いていると判断したようだ。

それで商業高校に行くことになったようだ。


名古屋高等商業学校、、、今の名古屋大学経済学部の前身。

父親はそこで、英語を猛烈に勉強したようだ。

いわゆるコレポン、、コレスポンダント(商業英語)は今の高校よりも実用的な語学を学んだようだ。







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葬儀の日の花嫁

2011-06-13 20:51:08 | Weblog
父親は優秀だったと思う。

その父親に、亡くなるまで反発し続けた。

なにゆえか、、、どの家でも外には言えない事情がある、それだとしか言いようがない。

今その父親が建てた家で生計をたてている。

情けない話だ。

父と母が育ちが違いすぎた、、、としか言えない。

母は尊敬した、父には反発した。ぼくには理想的な父親像、男の姿がない。

それが結婚できない理由かもしれない。
.........


父親の一族は商売にはたけていたようだ。

父は中学から商業中学に行き、大学も商学部だった。

根っからの商売人。母の家は高等文官、それも風流人士。

大きな目で見れば武士と町人の差、、、その軋轢、、、が僕の精神を狂わせてるかもしれない。


父方のそう祖母にはこんな逸話がある。

層祖母が嫁入りの日、近所で葬式があった。

それを聞いた、層祖母は、花嫁衣装のまま葬儀のある家に行き、

残された品々の引き取り交渉をした。


人が亡くなれば物が余る、品物の始末に困る、、と考えたようだ。

これが近所で評判になったそうだ。



祖母もまた商売熱心であった。

教育は高等小学校しか出ていない。だけど主席だったそうだ。

祖母の話では、
「女でも高等小学校に行かせてもらった。」
と感謝している。


当時の女性が高い教育機関に行くチャンスは本当に少ないのであろう。


母方の祖母の写真には子供の頃、バイオリンを弾いている写真がある。


明治のお役人の家庭が「ハイカラ」だったのもうなずける。











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名古屋の綿打ち

2011-06-12 21:49:11 | Weblog
父親は愛知県の人です。

名古屋産まれ。

どうも名古屋と言うと、商売でがめついと言われてしまうが何でだろうね。

私も生まれてしばらくして父の実家に引っ越しして
三歳までいた。

最初の記憶は名古屋の下町です。

父親が育った家です、それが私の最初の記憶に残る家でもあるのです。


父親は大正8年生まれ。生きていれば、90歳になっている。

4人兄弟の長男である。昔の商売人の長男はかなり責任もあったようで、また
大事にされたようです。

そのことは結婚当時、天野の家に嫁いだころの母の話しを聞くと
昔はこうも男性が威張ってた時代なのだなあと思う。

父親の実家の墓は岡崎にある、農家のようだ、、、、ようだと言うのは、そこには一回しか行ったことがないからだ。

もともと三河は天野姓が多いので、天野一族の分家だということだ。

祖父母が三河の出で、祖母などは完全に三河弁。

父親が産まれたころは、綿打ちで生計を立てていたらしい。











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父の生い立ち

2011-06-12 00:48:03 | Weblog
母親が家を出てまもなく9年になる。

母に子供や妻を見せて上げられたら、、、、そればかり最近は考える。

大阪で育った10年が一番家族が楽しかった年月だ。


、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

父親は天野益夫(ますお)

大正8年12月11日、愛知県名古屋市で長男として生まれた。

実家は、綿打ち工場を持っている、布団屋だった。

昔の人は、綿を一生使った。

古くなると、わたやに持っていき打ちなおしてもらう。

そうすると、綿がまたふかふかとしてくる。


生活必需品なので、それなりに儲かったようである。


三河弁丸出しの、祖母は相当な商売上手であったそうな。


私の中には、、案外、三河商人の血が流れているのかもしれない。


決して多金持ちの家ではない、、、いわゆる商売人の家なのだ。


それが嫁いだ母にはあわなかったようだ。


このわたやの息子が、後に五カ語を話し、東レが日本一外貨獲得の多い会社になる
ことに貢献することになる。



とりあえず、ここまで。



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GHQでの出会い

2011-06-10 12:20:15 | Weblog
家族で幸せだったと思う時代は

産まれてから10歳までのように思う。
大阪から東京に引っ越してきたので
それまでの、大阪の思い出と家族が穏やかに過ごせたこととが
あいまって

人生で一番大切で、楽しかったように思う。
事実、母も大阪の千里丘にいたころが一番楽しかったと
話していた。
私たち子供の進路のことで悩むわけでなく
気が楽だったと話す。



普通の家庭のようで、そうでもなかった天野家。
昭和20年代に、両親が英語がペラペラで、母親がピアノを弾いたりする家庭は
そんなには多くなかったようだ。

そんな両親が出会ったのは、名古屋のGHQだった。






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家族語

2011-06-09 00:54:14 | Weblog
母は、廊下に体育座りをしている。


それが何を意味するのか分からない。

小学校から英文科まで主席の母は、今言葉をなくしてる。


母は自分の伝えたいこと言葉が出てこない。

言葉から何を痛いのか想像して僕は話をしている。


これを「家族語」と僕は呼んでいる。

家族にしか分からない、コミュニケーション。

時に単語にもならない。




家での介護はできない、だけど家族には介護はそれで終わりじゃないんだ。

家族語を理解できるのは家族しかいないのだから。




この頃、父親のことも書かねばならないと思うようになった。

母の生涯と合わせて
次回から父親の生涯を書いていく。








お母さんピアノを弾いてください

タイトルとなった「お母さんピアノをひいてください」は抒情文芸平成13年春季号に掲載されたものです。 オリジナルモジュールで設置したので、常に上に来てしまうのですが、詩の形が崩れてしまいます。 妄想の中に一日いて おびえ閉じこもる母よ 死ぬほど私は辛いのです 小学生から大学まで首席の母 数カ国語を話し、独学で弾くピアノ 簡単なメロディーはすぐに採譜してしまう母私には できすぎた母だった 高等文官の娘に生まれ 私にも明治流の武士の作法を教えた母 母よ、あなたは私には重かった 父が浮気症でなかったら あなたはもっと幸せでおおらかに私を育てたろうに 悲しみとやり場のない怒り 私はもう子供じゃない 母には私はまだ十五の子供に見えるらしい 二度目の童子となった母 母を悲しませまいと自分を殺して生きてきた少年時 代、青年時代 母よ時には恨みもあるのです 私は普通の人なのです、あなたの家族のようなエリ ートにはなれません それもあなたの悲しみの一つです 私は独りです、それもあなたには悲しみですか 両親の不仲が私を学習に集中させなくなったほとん ど上の空の授業、とうとう不安神経症になった私 荒れた少年時代、机も椅子もよく投げた 立ち直らせてくれたのはあなただった 母よそのあなたが目の前で狂ってく なぜ、なぜ、なぜと叫ばずにおられない 心優しき弟はけなげに母をいたわり料理を作る 他の親族は己の主義に走り、以来家には無関心 挙げ句の果てに「お前達でやれ」とはそれがあなた の主義が出した正義ですか 私だって弱いのだ、いや本当に私は弱いのだでも仕 事でも、家でも強い自分を演じてきたそうしなきゃ 誰があなたをはげませたでしょう 私の救いはどこにある 私を慰める人はどこにいる 二度目の童子となった母 もう一度ピアノを弾いてください 私は歌うから、、、、、、。