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お母さんピアノを弾いてください

優しい母が認知症、強制入院。介護で体を壊し退職。弟とのメールのやりとり、詩や短歌で介護の現実を紹介していきます。

母の血尿

2013-04-15 16:07:42 | Weblog
かなり久しぶりの母のブログ。

今年になり、血尿が出てきて、明日検査。
どうも腫瘍か感染症だという。
5月20日に検査結果が出るというのだが、もっと早く出してほしいものだがそうもいかないのだろう。

母は90歳、ちょっとした病で倒れる心配がある年齢。

自分もよい年であるし、教え子にはもっと早くに両親を亡くした者もいるから、
私などは甘いと思う。

だけど、、、家族にはどんなに年をとっても母は母なのです。

最近の母の写真。
廊下を徘徊ばかりして、人の部屋に入り、片付けようとする。

母は長いことまるでハウスメイドのように家事をしつづけた。
外国のお客さんのために働き続けた。

それが頭のどこかにあるのだろう。

そして、死から逃れたい思いもあるのだろう。

私は、結婚もせず、いや出来なかったゆえ、母へのすまない気持ちが強いのだ。
弟も私も介護の現実に、心身ボロボロになったのだもの。






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2013.1.1母、弟、私

2013-01-02 12:20:25 | Weblog
だんだん母のことを書かなくなった。
親不孝と思う。

正直、同じ世田谷区でも母のる特養へは電車で1時間30分かかる

車なら30分。

面会時間も制限されているわけで、そう簡単に毎日行けるものではない。

また自分自身の心からして、べったりになることは精神状態に良くはない。


また母の体調を考えると、そうこう出入りさせることが必ずしも良いわけではない。

以前は一か月に一度連れ帰ると弟も話していたが、とても無理だった。

夜中に徘徊するので、マイナス効果だった。

お盆とクリスマス、正月に連れ帰り、母を教会に連れて行ってたが、
連れて行くたびに

「お元気そうですね。」

のことばに傷つけられる。

挙句の果てに牧師に

「いいか、お前のような奴は、若い人の言葉で何というか知ってるか、
ヒガモというのだ」

にブチ切れた。

耳が遠いのだから、何でもかんでもうなづく、それを理解していると勘違いしてる。

この10年間母を訪ねたものは何人いるというのか、、、。いやしない。


療休2年したこと、酸素ボンベを6年前まで引いていたこと、それが大げさに言っていることなのか。

だれでもあることなのか。

くるしいのみな同じですとまあ、よく言えたものだ。


どうも思い出すといつも興奮してくる、、、。


スタジオにしてるもの、両親が外国の人を無料で年間200人も何十年にわたり宿泊させた場所だから、
いつ何時母を連れ戻さなければいけないから、出て行ったときと同じ状態で使用するようにするには
この道しかなかったのだから。

それを楽でいいだろうとか、人に留守番させてどこかへ出かけられていいな、とか
起業じゃない、、、とか、大企業に勤めていた課長クラスの人ほどそういう言い方をする。
重役になると、見方が変わってきて、「おもしろい!」と言ってくれる。
面白いというのは、他には若い人や外国の人だ。

素でものを見るということは、大事だとあらためて思った。


・・・・・・・・・・・・

横道にそれた、、、


母を特養から連れ出すのに一苦労、
「出てはいけない」「行きたくない」

施設から出ることを日頃禁じているのでそれがもう反射神経で躊躇させるのだろう。

「ごちそうを食べに行くよ」、「汽車に乗るよ」
とだます。





車は家の前ぴたりと横付けし、門を開けてから、車のドアを開ける。


ご飯をてべてるときはし合わせそうで、鼻歌など歌う。

弟は1万円のおせちを買ってきた。けなげな弟で、母のために出費をいとわない。

母の好きなかりんとう、マシュマロ、麩菓子を用意した。

むかし母が宣教師の家で食べたマシュマロは当時としてはハイカラでおいしかったものなのでしょう。


私が英語で賛美歌を歌うと、母の指がピアノを弾くしぐさをする。

本当は本物のピアノを毎日聞かせたい、、、、。

返す時がまた大変だった。


「おかあちゃまはいかない」「あなた方が代わりにいけばいい」

今度はむかし妄想で家を乗っ取られるという考えがあったから、それが出てくる。

最後は抱きかかえて車に入れる。

それでも去年よりは、程度は軽いが、、、。


特養につくと、足から紙おむつが出ていた。
自分でトイレに行ったとき、うまくとめられなかったのだろう。

1枚400円で10枚セット、、。
貧しい人は施設も入れない、おむつも介護もない、、、、こういう政治にしたのはだれか?

それでも役人は動かない、、、。

企業は何億もする施設をつくるが、従業員の給料は微々たるものだ。


だから老々介護なるものや、外国人介護士を入れようとする。

介護士の給料を上げるが先決だ。箱モノはいらない。


特養に戻ると、ほとんど身内の人も来ておらずy、4階認知症の部屋は、老人たちがテレビの部屋で座っているだけ、、、。

これが現実だ、、、。


夫婦ならば、正月と言えどもそこに来れる体力がなかったり、
息子、娘たちは、それぞれの家庭がある、正月休みくらい自由に家族と過ごしたいと思うだろう

、、兄弟姉妹ならばなおのこと、高齢者だから無理だ。


この一日だけでいろんなことがわかる日だ。

お役人、政治家、どうか正月に特養を訪ねてください。

きれいごとだけ言う人どうか来てみてください。











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12月8日

2012-12-08 15:30:35 | Weblog
1946年12月8日、太平洋戦争勃発

その2年前父はアメリカにいた。
今日はその父の誕生日でもある。
生きていれば92歳、、、。

幼いころを除くと、父とは生前には対立ばかりしていた。
だから突然死したときはもう仲直りができないと悔悟の思いで、号泣した。あれから32年。

母は認知症になり語学に堪能な両親のもとで生まれた私は、たいした才もなく、もっぱらスタジオ業で生計をたてている。

去年も書いたが、この12月8日という特別な日に父の誕生日が重なり、父が生涯をかけて国際交流に奔走し
今でいう民間外交の走りをしていたのを思うと感無量である。

父の勤めていた会社は日本の外貨獲得NO1になり、それに父は一役買ったのだ。
なにしろ5か国語を操って世界中日本の商品を売っていたのだから、、、。


私は両親のおかげでこうして生かされているのだ。

だけど父の名前は 英語で MASUO AMANO キーワード Servasu International Federation でひくと
出てくるが日本では出てこない、、、。

だから私のスタジオのHPでは天野家の歴史で父のことを紹介しているのである。


それでも、、、、口さがない人は、、、、親をだしに使ってとか、
「お前もだから変なんだよな」しかいわない、、、。





 



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2012-11-06 16:24:23 | Weblog
心身疲れ、母のブログもおろそかになっていた、、、、。60日書いてない。
母は先週転んで頭をうった。
母は一人椅子に座ることがない。
詩接受歩き回ってはカーテンやら、扉を閉めまわっている。

たぶん、長い間、父親が外国の人を連れてきていたので、
絶えず何か仕事をしてる状態だったから、何かせずにおられないのだろう。


”She is like a Mayd.”

家にきた外国の人は母のことをそう呼んだ。
父親は、何か勝ち誇るような顔をしていた。
戦前の、教育では、特に父親の家庭では長男は別格に扱われていたから
なおのことだろうけど、「いばっている」のが男である。
特に町の商売家の家では、、、、

お膳は父のは別、おかずも別、「おい、何々もってこい」
母が嫁いだとき、びっくりしたそうだが、、、。



それでも母は父に逆らうこともなかった。
ただし、言うべきことは論理的に話すのだが、、、、。

それがまた父親には面白くなかったのだろう。

母のその姿勢は、今度は息子である僕に向かった。

なんでもかんでも息子に尽くして、母の思い通りにさせようとした、、、まあいいすぎだけど
そう感じさせられた。
それは結婚相手にしても同様だった。

母の育ちは、武家の固い教育、、、昭和の御世にそんなことはもはや通用せぬが

年取った母にはそれを理解するのは無理だった。

その私も62歳、、、、

だんだん頭が固くなるのを自身にも感じる。

せめて絵とか分では自由でいたい

せめて女性には終生恋していたい


自由人ならばそれで生きるしかない、、、、










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成年後見人・監督人は餓死者、無理心中を助長する

2012-08-19 15:26:54 | Weblog
成人後見人になろうかと、手続きを進めていた。

しかし、もろもろ知るとやめざるを得なかった。

3000万以上あると、弁護士が成年監督人となり、財産を管理するとういうのである。

しかも成年後見人も成年監督人を置くと、家族は一切自由にお金を使えなくなる。


たとえば、母の家を直したいから母の貯金から出したい。

銀行は成年後見人だと主張するにもかかわらず、窓口の人間に

拒否される。

幽霊預金があるから、定期にしたい。

それもすったもんだする。


成年後見人になると、領収書1枚なくても、裁判所は、後見人不適格とする。

成年後見人を申し込んだ段階で、取り下げはできない。


申請取り下げはできない。

裁判所は知った以上は

財産をすべて別の人間に管理させる。

仮に、息子が介護で病気になり、仕事を失っても
母の金を生活の足しになどできない。

ヘルパーすら雇えない。


母が入院したとする、入院費用を払うために貯金を使おうとしても
応じてくれない銀行や郵便局があったりする。

後見人制度を理解していない職員が多すぎるのだ。

母の貯金を増やしたいからもっと利率の良い金融商品にしたい

それもだめだ。


そうすると、家もあり貯金もある
だけど介護している家族、しかも介護している本人が歳をとり、
あるいは病気で仕事を失っていたとする。

家族は一銭も使えず親子で餓死する、
無理心中する。


ここでだれが得をするか考えてみる。

相続人がいなければ
土地は国家の物になる
国家は企業に売却する
企業はマンションやらなんかを建てて儲ける。

幽霊預金、幽霊貯金は
銀行や郵貯の物になる

もし成年監督人がいたら
弁護士の顔のきくところで
根回しして、ことを進める、、、、。


頭の良い官吏と、企業とそれを利用する者たちが
儲かる。



こんな制度はやめるか

もっと融通のきくものに変えてくれ。

それを真剣に考える議員も政治家も、法律家もいない。




















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母の夏

2012-08-19 14:58:43 | Weblog
ずいぶん長く母のブログをかいていなかった、、、。
ますます親不孝をし続けている。

今日は私の誕生日、、、62歳になる。
母は今年90歳。

時の流れを感じる。
母のように秀才で、礼儀正しく、謙虚な人が
認知症になると人が変わる。

学習していた英語を本当に忘れる。
だけど恥をかくということは理解する。

英語で答えられない、うまく話せない、書けない、、
それは分かっている、、、。

もどかしく、家族でさえ、いや家族だからいらいらしてしまう、、それが
現実だ。



写真は母のいる特養の納涼祭だ。











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10年

2012-06-11 18:17:30 | Weblog
母を強制入院させて、この7月で10年になる。

なんとめまぐるしい日々だったか、、。

私は2年間療休して、早期退職して無職になる、、、。

退職後、1週間、警官に職質を受け

先週までの仕事を告げると

「だから、今は無職だろ!」

その時の屈辱は忘れない。

でも私の母は、生涯声でどなったりわめいたりすることは

一切なかった。

在職中

「お母さんがおかしいから、お前もおかしいんだよなあ」

と同僚に言われたことがある。

何もかも今なら大問題になることばかりだが、

母はどんな時でも平然としていた。


今はメインはスタジオ屋で収入を得ている。

それでも子供と関わりたくて

不登校相手の不定期な塾もしてる

詩もかけず、だじゃれなどつぶやく日々、、、

自分で自分を笑わせることが、せめてもの

生きるあかしだった、、、。




AMANO-SAN

2011-12-08 21:49:25 | Weblog
昭和16年、12月8日、大本営発表
太平洋戦争開戦

それより22年前、同じ日に父は生まれた。
1919年、第一次世界大戦終了、ベルサイユ講和会議の年。


あらためて不思議な、国際的な年。

父が亡くなり、31年。

もはや父を知る人も少ない。

私は父の建てた家で生活している。

無能な私にはそれしかできない。


突然死した父とは死ぬ前、一カ月私は口を聞かなかった。

幼いころはやさしく面白く、頼もしく思えた父親。

思春期の頃から、反発し始め、父のひこもりや浮気やらで、しだいに私は反発するようになった。

父が引きこもってた頃、私は少年時代にシンナーも、飲酒も経験してしまった。

キレる少年は椅子も机も投げまくった。

恐怖観念から離れられなく、はげしいチックがおきた、、、。

学校では大阪でよい子だった私は、厄介な生徒になった。

母も学校に呼ばれるようになった。

悩んでる少年A

その私に、学校も世間もやさしくもなく、温かくもなかった、、、。



母は私を父と同じようにさせないため、父親の家庭や、生き方、趣味は批判的だった。

なおのこと堅い教育もさせた。


今は父親を受け入れられるが、目の前にいないからだろう、、、、

悲しいけど人間の裏は早くみて生きてきた。

自分自身も、そのように見る。

自分に偽善も感じる。




父親の写真に「あんぱん」をそなえた。

母は命日にはずっとそうしてきた、、、私はそれを忘れていた、、、。

そうせざるを得ない

親孝行できるとしたら

父の功績をネットでさらすことだけだ。

http://www.servas.org/siexco/images/6/67/SINewsNo14SecondQuarter81ocr.pdf


http://www.servas.org/siexco/images/7/7f/SINewsNo07Spring77ocr.pdf


http://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:NpV8Zc-9d8gJ:www.servas.org/siexco/images/7/7f/SINewsNo07Spring77ocr.pdf+masuo+amano+%22servas+international%22&hl=ja&gl=jp&pid=bl&srcid=ADGEESgIck9gqTN2b5KaRoWcFgr6vUrgRbSA01GznZB9Jc0R15kbHj74Tz6wttTcLYmaTsLmlP9YcsKJDgDc6Pg3O_goEuaiQJAQvsV1Hf1IDhqAYoOGo4dfNVQqvYtPXcf03NFQ1efy&sig=AHIEtbSUvfS43WV7LAiKORFMKJwoC-SFrg





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最近の母

2011-09-26 16:12:04 | Weblog
しばらくブログを更新してなかった、、。

親不孝を感じると、ブログだけ書いている自分が恥ずかしく、
後ろめたくもある。

弟が特養から母の写真をもらって来た。

前回のブログで書いた、お祭りの日の写真です。

写真を撮った時は穏やかだった、、そのあと逃げ出そうとしたのだから。


この頃、幼年時代の大阪での生活を思い出す


それもしばしば、、、。

母が一番美しくて、周囲から羨望のまなざしを受けていたころ。

幼い自分にも、母は周囲と異なる人、、それだけは分かったいたが、、、。





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逃げ出そうとした母

2011-07-31 21:59:26 | Weblog
母のいる特養の納涼会だった。

母は浴衣に着替えさせてもらい、照れながらも

それでも嬉しそうだった。

ヨーヨーやら玉入れをやったりもした。

こう書くと普通のお年寄りとその子供たちの姿にしか思われないだろうね。

弟と最初に母に会ったときは、浴衣に着替に行くも嫌がった。

席を立つこと、どこかへ行くことが怖いのだ。

今は施設から出てはいけない、、、ということがインプットされているように思われる。

母は静かな人で、ワイワイすることが嫌いな人である。

昔は縁日も行かせてもらえない家庭で育ったようだ。

お嬢さんが香具師がしきる、縁日なんて行くものでない、、ということなのだろう。


別に母の家に限ったことではない、。

大店の娘やら、学者の娘などしつけは今とは比べようもない、、、

私も想像するしかない。

母はその教育を私たちにもさせようと試みた。


私自身、縁日連れて行かれたのはほとんどない、、、屋台で食べることもなかった。

一つには健康を考えてのこと、もうひとつはキリスト教以外の信心になるべく触れさせないように
したかったのだろう。

とりあえず浴衣に着替え、ヨーヨーしたり

玉入れしたり、アイスやらジュースやら飲んで、

そして室内の盆踊り会場に行った。

そのあたりから異変、、、。


おどりの人が母の浴衣の乱れを直そうとしたら


「結構です、、、」

とぶすっとした顔をして、胸を抑えた。


「ああ、何か盗られると思ったのね、、。」

その人はそう話した。

その通りなのだ、、、、昔はなれなれしくそばにより、財布を盗む輩などが縁日やら人混みにいたものだ。

それを思い出したのだろう、、。

お祭りが終わり浴衣を着替えることになった。


そこからが大変だった、、、、。


着替えの部屋の前で、車いすの老婆が騒ぎ出した。

「殺すなら殺せ、南無妙法蓮華経!!、、、、」

暴れながら介護士の腕にかみついたり引っ掻いたり、、、

そのうち部屋の中でバタバタと音がして

「まだパンツをはいてないですよ!」

母が飛び出してきた


母は興奮状態、泣きながら、

「さあ、帰りましょう!!」

まずエレベーターに乗せるのに一苦労

そして母から離れるのに一苦労、、、


母は身ぐるみ脱がされると錯覚したのだろう。

また周囲の興奮状態に刺激されたんだろう。


「家に帰ろう、みんなと帰ろう、、、」



どんなに認知症であっても、家は家


無理難題であろうとも、母は家に帰りたがる、、、

「今日はここにお泊まりだよ」

「かわりにみんなが泊ればいい、私はとても無理だから、、」


理屈に合わない会話、、、でもそれが認知症の人の言葉。


母を強制入院させたのが2002年7月

それまでは毎日、この繰り返しだった、、、。


強制入院、老健を転々、、、それが多くの

認知症を抱える家族の実態、、、




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お母さんピアノを弾いてください

タイトルとなった「お母さんピアノをひいてください」は抒情文芸平成13年春季号に掲載されたものです。 オリジナルモジュールで設置したので、常に上に来てしまうのですが、詩の形が崩れてしまいます。 妄想の中に一日いて おびえ閉じこもる母よ 死ぬほど私は辛いのです 小学生から大学まで首席の母 数カ国語を話し、独学で弾くピアノ 簡単なメロディーはすぐに採譜してしまう母私には できすぎた母だった 高等文官の娘に生まれ 私にも明治流の武士の作法を教えた母 母よ、あなたは私には重かった 父が浮気症でなかったら あなたはもっと幸せでおおらかに私を育てたろうに 悲しみとやり場のない怒り 私はもう子供じゃない 母には私はまだ十五の子供に見えるらしい 二度目の童子となった母 母を悲しませまいと自分を殺して生きてきた少年時 代、青年時代 母よ時には恨みもあるのです 私は普通の人なのです、あなたの家族のようなエリ ートにはなれません それもあなたの悲しみの一つです 私は独りです、それもあなたには悲しみですか 両親の不仲が私を学習に集中させなくなったほとん ど上の空の授業、とうとう不安神経症になった私 荒れた少年時代、机も椅子もよく投げた 立ち直らせてくれたのはあなただった 母よそのあなたが目の前で狂ってく なぜ、なぜ、なぜと叫ばずにおられない 心優しき弟はけなげに母をいたわり料理を作る 他の親族は己の主義に走り、以来家には無関心 挙げ句の果てに「お前達でやれ」とはそれがあなた の主義が出した正義ですか 私だって弱いのだ、いや本当に私は弱いのだでも仕 事でも、家でも強い自分を演じてきたそうしなきゃ 誰があなたをはげませたでしょう 私の救いはどこにある 私を慰める人はどこにいる 二度目の童子となった母 もう一度ピアノを弾いてください 私は歌うから、、、、、、。