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お母さんピアノを弾いてください

優しい母が認知症、強制入院。介護で体を壊し退職。弟とのメールのやりとり、詩や短歌で介護の現実を紹介していきます。

再発

2008-10-31 13:14:26 | Weblog
 2002年、正月は家族三人で団欒を取れた。

 弟とはおせち料理づくりを手伝っていた。もともと料理が好きでよく作るし腕も確かである。

 このままよい方向に向かうなあ、でも手足が衰えたのは事実だった。

 そんなある日弟からメール。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今日・・・・センターに行きました。そこで母が薬を飲んでないことを知りました。
 前回、医者と私が話していたのを聞いていたというのです。
 副作用で手足が衰えるという話をちゃんと聞いていたのです。
 「医者が言うには本人が拒否したら飲ますわけにいきません」
というのです。

 とりあえず、薬を変えることにしたそうです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この医者は、常に責任を逃れることしか考えていないように思えてならない。
 母親のいる前で、話をしていくように勧めたのは彼自身だ、しかし母が薬に副作用があることを知ったのは、彼の問診のやり方に問題がないとは言えない。

 本来そんな大事なことは患者本人の前ではやらないだろう。

 それから数週間後、朝、、

「あの人、昨夜は家にいたみたいよ。」

 午前中弟からメール

「再発?」

 医者は、「患者の納得いかない処方はしない」の一点張り。

 半年後、母は強制入院した。2年後私は療休を取る、、、。







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テレビで放送後、ン十年ぶりの電話、感謝!

2008-10-30 23:37:21 | Weblog
 夜、色々な方から電話をいただいた。
 放送前に、母へ来ていた手紙や古い手帳から、新しく住所録をワードに打ち込んで、およそ100通、、、、短期間で我ながらよくやったもんだ、、。

 なんせ、、、手紙とか住所録、、妄想の母は隠したりいつの間にか捨ててたから、、、。

 母のこと、そして母のことを知らせることができなかった理由など、そして放送を見てほしい、、という手紙。

 この機会を逃したら、母を知る人に母のことを知らせることができないだろう、、、その思いだった。


 私が幼稚園だった頃、母と親ししくてた方からの電話、その娘さん、事実上、私のお姉さんだった方とン十年ぶり、、。

「幼稚園のころカバンを持ってた可愛い姿が浮かぶわ、、、」


 可愛い、、、久しぶりに言われたぞ、、、。


 九州から三十年ぶりの人からの電話、、なんでも父が亡くなった時、国連で父に哀悼の意を表したとか、、、、。
 そんな話は初めて聞いたが、、、。

 気になり検索した、、日本のサイトではHITしなかったが、

 seravas international MASUO AMANOで、出てきた、、。

 今さらながら、不肖の息子だった、、、。

↓この中の、his wife が母のことです。


http://72.14.235.104/search?q=cache:kfR7B3vphrcJ:www.servas.org/siexco/images/1/1b/SINewsNo07Spring77.pdf+Servas%E3%80%80international+Masuo%E3%80%80Amano&hl=ja&ct=clnk&cd=2&gl=jp



We have been treated to lunch and teaand a walk around the Ginza area by Ser-vas hosts Kunio and Noriko Tanaka inTokyo; information about the local areaof Sendai and its crafts by Shohei Taka-hashi while we were "between trains";tea at home and a performance of ancientShinto music at the local shrine by AkioNishimura in Kyoto; lunch at our hoteland a Japanese dinner and very pleasantevening at the home of Noboru and MasakoNishida in Osaka; and an interestingevening of conversation with a youngSwiss woman and Ellis and Leora Harveyof northern California after a home-cooked meal at the home of Masuo Amanoand his wife in Tokyo.The experiences and the individuals havebeen impressive, interesting, and worth-while. Thanks for the hospitality andhelp of our hosts and for Servas itself.10
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Page 11


 私は私で、キザでネコ科のシャレ男で生きていく、、、。


 かなり重たい内容の放送だったが、、、介護の大変さを紹介するためにその部分を強調してるとも言えるけど、それがまた現実、目をそむけないでほしい。

 私のギャグなども笑いで自身を鼓舞していたような部分もあるし、それがあったから良かったのだろう。
 小さいから、いじめられないように気丈にしてたからまだ乗り越えられたのだろう、、、。
 時に、やりすぎるけど、、、、反省。

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最後のクリスマス

2008-10-30 12:32:38 | Weblog
2001年のクリスマス

 これが我が家で三人そろって祝う最後のクリスマスになった、、、。
母はもうお料理ができなくなってるから、弟が手伝い、私がアイスクリームやワインを買う。

 レンタルビデオで「クリスマスキャロル」を借りる。

 母は英文科時代、ディケンズを読んでいてその本はまだある。

 少しでも頭の衰えを取り戻せるか、、そんな思いで見せていた。

 皆で歌も歌った。

 最後の、最後の、我が家でのクリスマスだった。








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バネ指

2008-10-26 22:45:05 | Weblog
2001年 秋

 母の症状が次第に落ち着いてきた。そう感じたのは、11月頃だった。
一緒に、・・○○医療センターに行った時だった、

「例のひとはまだきますか?」

と医者が聞いた時

「家を出ていきましたが、まだ時々来ます。」

 この医者の治療法というか、カウンセラーにもならないのだが、医者の言葉を引用すると

 息子さんたちを交えて、母親と医者の会話の中でそれはおかしいよというような話になり、本人が

「やはりおかしいのかなあ、じゃあ入院してみようか。」

 という気持ちになってくれることを期待しているのだ、というの、、。

 このドクターは、老人医療の専門だというのだが、、、どうも家族にとっては納得がいかない。だが患者にとってはいわば人質を取られたようなものであるから、逆らうこともできないし反論もできない。

 ただ素人考えだが、認知症で妄想が激しいのに、しかも二週に1度の診断、それも10分でこんな方法がベストなのか、、、激しく疑問だ。

 変化を感じたのは、妄想をあまり言わなくなったことだ。どれだけ精神的に家族は楽なことか、、、、。

 ただ副作用は出ているので、手足が衰えてきた。でもそれはヘルパーや帰宅後の私たちの世話でも十分できる範囲だ。

 12月のクリスマスは楽しくやろうよ、弟とそんな話をしていた。

・・・・・・携帯のメールで覚えているのは

 母の指はバネ指で衰えている、薬の副作用だと医者に言われた。


 これが、1月に大変なことになる、、。

 私も仕事で土日も部活に出ていてふらふらの頃だった。

 こうした事実は、学年主任、教頭、校長、部活の顧問にも逐一話した、、しかし
校長などは
「あっそう、、」
で終わりなのだ、、、。
 学年主任は、

「町田の老人ホームに入れたら職場から近くていいじゃないか」
という。
 
「それじゃあ弟や休みの日に帰って負担じゃないですか、それに家から遠いところは嫌がるのです」

と話すと、何も言わない、、、。

 部活熱心な教員は

「ここを最後の学校と思い、部活で最後に花を咲かせて、、、」

 部活は仕事じゃない、、優勝すれば学校でのすべての発言権が強くなるなんておかしな話だ。


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28年前、、、、父の突然死

2008-10-26 01:26:42 | Weblog
28年前父が突然死、、、

二階の私の部屋へ朝の四時すぎたころだった

「おとうちゃまが息をしてないのよ。」

すぐに下に行った、脈もないし、呼吸もしてない。

「動機がない」

「どうしたらいい?」
母が聞く
「、、、、救急車を呼ぶ」

 二度ほど住所を聞き直された、自分ではちゃんと話したつもだったけど。

 救急隊が来て蘇生を試みるが駄目だった、、

「24時間以内に医者にかかってますか?」

 かかってはいない、、司法解剖だった。

 この間テレビ局に渡した写真、、、後で気がついた、、父が亡くなるひと月前の写真だった。

 フィリピンからお客さんが来て、我が家に泊まり(我が家は年間200人外国人が宿泊して行った)、ビジネスの話がまとまった頃だった。

 あのあと葬儀やら相続やら母を手伝っていたのは私だった、、、あっという間に数か月、、、、。

 まさかその母がその後認知症になるとは、、、今度は母のことで奔走した。
 
 父の亡くなる一か月前、、、口をきかなかった、、、だから火葬場から帰るバスの中で号泣した。

 母にはできうる限りの孝行をしたい、、、それゆえに母の介護は真剣なのだ。
だからそれを妨げた管理職や、職場の人間、無理解な教会の人、、、どこにでも同じような人がいるのか、、、救いとか話を聞いてくれる人はどこにいるのか、、、

 だからいろんなことを学んだ、、、苦しみを共に感じてくれる人は友と呼べると。











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テレ朝 10月30日放送予定・・母の介護をテレビで取材されました 10月30日放送

2008-10-23 22:31:36 | Weblog
 前後してしまったが、今のところ弟と母についてのパソコンでのメールはこれが最後のようだ。

 のようだというのは、パソコンがあれこれ変わったからである。一応すべてのパソコンから、関係のメールは拾い出したが、再セットアップで消滅してしまったものもある。

 少なくとも4台のパソコンから拾い出した。

 あとは携帯であるが、大部分は保存していなかった、返す返す口惜しい、、、特に強制入院させるまでの過程は生々しいのでむしろ残しておきたかった。

 先日の月曜日、テレビ朝日が取材に来た。介護で仕事を辞めざるを得なかった人の例として、、、、。

 認知症になった母を人にさらすのはつらいし、語るのも実は苦しい。

 でも、あまりにも理不尽で無理解な周囲には、それを知ってもらいたい。また同じような苦労を今抱えている人が周囲から理解されてほしい、それだけである。

「大げさに言ってるのだろ」「甘ったれるな」「同情を買いたいのか」

 教師からも、教会でも言われた。ひどすぎる、、、、。
 

10月30日(木) テレビ朝日 スーパーJチャンネル 5:30頃

オーストラリアへ1週間、、、、狂いだしそうな私、、弟が出してくれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2001年8月9日木曜日 20:21○○

差出人: 弟の名
送信日時: 2001年8月9日木曜日 20:21
宛先: 幸道
件名: 海外旅行

兄上様

母の事は気にせず海外に行ってきて下さい。
神様が守って下さいます。
私も、これから土曜日は外出する事が続きます。
折角の休みだから、海外に行って骨休みして下さい。

母もいつか海外行かれるようにしよう。


           ○○

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最初のケアマネはもと不動産屋、セールスばっかり

2008-10-22 20:58:56 | Weblog
 まだヘルパーが決まらない。
 最初に要介護か要支援になるか認定してもらわねばばらない。

 最初に来たケアマネは、まるで信用できない。区から委託された業者だというのだが、、、母へ質問をするのに、母はすべてできますと答えてしまった。
 信用してないからだ。年寄りだと思い何でも言うことを聞いてしまうという、姿勢が相手に見え見えだった。

「私は不動産屋をしていたのですが、介護の事業を始めました。
必ず介護になりますから、○○も買った方がいいですよ。
なんらな私が引き続き専属のケアマネになりますよ。」

その夜も、

「風呂場での椅子を買いませんか」

 と母に電話してきた。認定もされないうちにとんでもない業者だ。

 すぐに福祉センターに事情を話し、この人を担当から外させた。
 福祉や介護を金儲けにしか考えない、ビジネスチャンスとしか思わない人々が急に増えた。
 そのために余計な支出を増やしたり、真面目に誠意をもって仕事を行う業者までが疑われてしまう。

 事実、コムスンの事件以後、知り合いのNPOの介護業者が倒産してしまった。介護の依頼が途絶えてしまったのだ。
 とばっちりも良いところだ。

 母にふさわしいケアマネを選んでもらえるよう要望を出した。
 保健婦さんには感謝してあまりある。決まるまで家に母を訪ねてくれるし、話相手になってくれる。母を一人にしておく危険を察知してくれたのだ。

 町医者の診断書のために、母は要介護にならなかった。この医者とは後にケンカすることになる。


 すべてを面倒臭そうに話すし、私に
「家族の支えが一番大事なんだよぉ、、」

 ものすごく偉そうに言う、、、むかむかしてしょうがない。
こういう言い方は、

「お前らが悪い、」

 と言われてるような気がしてしまう。えてしてこういう言い方をする者が実に多い。そんなこと分かり切っている。

 それとこの言い方には実は
(何ら具体的な手立て)
 が言われていない。多くの担当者を含め人々はこんな言い方を一番多くする。

 この医者、国立病院の処方した薬と全く同じ薬を出し続けていた。つまり二倍の量を処方していた、、、。

 その時も非を認めず、
「ああじゃあ、僕はもう診断しないから。」
 と逆切れしていた。

 まるで、岩登りのようで手探り、、、、でもヘルパーをつけられる見込みは出てきた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
送信日時: 2001年8月16日木曜日 21:05

 国立病院へ弟が付き添いで通院する際に必ず、弟に母の様子をレポートしていた。詩的な内容もあるけれど、これが介護の現実だと思うので、掲載します。


母の件 2001,8、17

 その後の経過。最近は妄想を次男である私には話さないが、三男に話すときもある。
 4月に介護保険の更新の訪問調査が来宅し、兄弟も同席した。調査員は、いわゆるケアマネージャーである。母は医者の診断書を行きつけのS医院に書いてもらう。母はこの調査員を嫌忌した。理由は「あの人は何かを買わせようとしている」とのこと。確かに、決定がなされる前から「必ず介護になるから、使えるお金は利用した方がいいですよ」とも言う。
 母は私次男に「椅子などまだいらない」と電話で言ってくれと頼む。電話をしたが、結局要介護にならず要支援のままである。
介護認定が定かでないので大工への手すり工事も中断していた。私も4月に母の病気を理由に転勤し、今は中央林間の近くの学校に勤務してるが忙しいのに変わりはない。
 業を煮やし、福祉センターにいきさつを話し、保健婦に来てもらった。母はこの人は気に入り、つれてきたケアマネージャーも気に入った。
 今、・・にある「・・ステーション・・・」がケアマネージャーの主体である。

 今までの大工に母は手すりを頼みたい様子であったが以前、金を使わせることばかりしたので兄弟で忌避。

 新しいケアマネージャーを通した大工がよいと兄弟で合意、母も納得。8月22日に来る予定。
 またケアマネージャーとの間に、福祉センターの保健婦、私、次男が立ち会いのもとで週、2回くらいのヘルパーを手始めにやつてみることにした。内容は、掃除機をかけてもらう、時に昼食の手伝い、病院への送り迎えなど、私から性格が温厚で母の話し相手もしてもらえるような人を希望した。保健婦もそれがよいとのこと。
 ただし、適切なヘルパーはまだ見つからないとのこと。
 健康面では、歩行力が衰え、手に力もない。雨戸も閉められない。買い物も以前よりはずっと少なくなった。寒がるようだ。
 福祉センターの話では「要介護にならなかったのはS医院の診断が詳しくなかった。」「Kドクターの方が詳細であった」とのこと。「次回の更新の時はドクターに書いてもらうよう」話をされた。
 妄想はまだ消えないようだ。日中もガラス戸を閉めてる。ただエアコンのドライにしてはいる。





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CHOPIN

2008-10-20 22:06:39 | Weblog
 老人ホームに母を訪ねた、ピアノの好きな母に昔弾いていたピアノの楽譜とピアノのCDを持って行って聞かせた。

 ピアノ音に合わせて指が動く、それを見てるだけで嬉しい。

 それよりも
楽譜を見て「ソナタ」
CDのタイトルを見て

CHOPINを ショパン
BEETHOVENを ベートーベン
MOZART をモーツアルト
BACH をバッハ

と読んだことが嬉しい、、、涙が出るほどうれしい。
認知症 長谷川式検査法15(30が境目)で85歳の母がですよ、、。

 母が好きで得意だったのは、英語とピアノ、、それがまだ母を支えてるんだなあ。
 楽譜は戦前のドイツの楽譜、母はそれを独学で弾いていた。


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転勤

2008-10-20 02:07:54 | Weblog
 転勤、今の不幸はここから始まってると言っていいだろう。
32歳で転職してようやくなった学年主任、でもいい生徒と良い先生に恵まれもい残すことは無い、そこでできるだけ近い学校、S市のもっとも南、T中に転勤希望を出したらストライクで移動になった。

三月の事前面接で、校長に母のことを話し

「主任でなくても結構です、担任でも生徒会でもなんでもやります、でも介護があるから運動部だけは勘弁してください。」

 しかし校長の聞いてくることは
「国際教室ができるかどうか」
それだけだ、、。

 で運動部、、それもしたことのないソフトボール、、、。で二学年副担任、、。

 校長に抗議したら
「やってもらいます!」
もう一人の顧問は
「校長に言ったら、俺が引率で行く」
とか言ってたとか。

 このもう一人の顧問が曲者だった。
 家から車で10分なのに放課後、部活は私に任せきり、それでいて生徒の前で私にクレームをつける、、、私より8歳下のくせに命令口調。
 

 今まで以上に忙しく、体を疲れさせた、、、この時運動部でなければ、この校長がもっと配慮してくれていれば、そして学年にこちらの大変さを話しておいてくれれば、、、。普通はそうする、だけどこの校長は校長になったばかり。

 しかもこの後3年後に校長会長になる、、自分の出世しか頭にないのだろう。私が外見大人しく、年上であるから文句も言わないだろうと思ったのかもしれない。

 もう一人の顧問は文句の塊のような自己中だった。

 今思い出しても悔しくて悔しくてしょうがない、、。

 午前中部活に行ったら、、、結局一日潰れる。ただでさえ睡眠が足らないのに、ますます体に負担がかかる、、実際この夏検査入院で「無呼吸」の診断が出てしまった。

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2001年4月5日 20:45
幸道
母の件2001.4.6

・最近手足が弱っている。その反面、あの人のことをいわなくなったが、ネズミがでるという(実 際天井をよく走り回る)。
・おととい、体が虫に刺されたという。実際赤いポチポチができている。(私も時々でる)。思う に私がアジア旅行して拾ってきたダニではないかと思うが、、。母は例の虫だという。
・春先になり、ホルモンが変わるせいか、多少不安がつのっているように思える。
・体が弱くなって、気も弱くなってる。本を処分したいとかいう。
・保健婦さんから電話があり、喜んでいた。ただ人事異動で担当からはずれたということでがっか りしているが、別の人が来ると聞いて安心している。

私どもとしてはこれ以上の改善はあまり期待できないが、体が弱っているので要支援から要介護にでもなると、人がきてくれるのでその方が閉じこもりから逃れる機会かもしれぬとも思う。来年母を海外に連れて行くとはなしたら喜んでいたが、背骨が痛いからなんとかしたい、とも話していた。

↑これが大事なのです。リフレッシュ休暇で行こうと思っていたのが、妨害されてしまうのです。全然休むどこじゃないのです。

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お母さんピアノを弾いてください

タイトルとなった「お母さんピアノをひいてください」は抒情文芸平成13年春季号に掲載されたものです。 オリジナルモジュールで設置したので、常に上に来てしまうのですが、詩の形が崩れてしまいます。 妄想の中に一日いて おびえ閉じこもる母よ 死ぬほど私は辛いのです 小学生から大学まで首席の母 数カ国語を話し、独学で弾くピアノ 簡単なメロディーはすぐに採譜してしまう母私には できすぎた母だった 高等文官の娘に生まれ 私にも明治流の武士の作法を教えた母 母よ、あなたは私には重かった 父が浮気症でなかったら あなたはもっと幸せでおおらかに私を育てたろうに 悲しみとやり場のない怒り 私はもう子供じゃない 母には私はまだ十五の子供に見えるらしい 二度目の童子となった母 母を悲しませまいと自分を殺して生きてきた少年時 代、青年時代 母よ時には恨みもあるのです 私は普通の人なのです、あなたの家族のようなエリ ートにはなれません それもあなたの悲しみの一つです 私は独りです、それもあなたには悲しみですか 両親の不仲が私を学習に集中させなくなったほとん ど上の空の授業、とうとう不安神経症になった私 荒れた少年時代、机も椅子もよく投げた 立ち直らせてくれたのはあなただった 母よそのあなたが目の前で狂ってく なぜ、なぜ、なぜと叫ばずにおられない 心優しき弟はけなげに母をいたわり料理を作る 他の親族は己の主義に走り、以来家には無関心 挙げ句の果てに「お前達でやれ」とはそれがあなた の主義が出した正義ですか 私だって弱いのだ、いや本当に私は弱いのだでも仕 事でも、家でも強い自分を演じてきたそうしなきゃ 誰があなたをはげませたでしょう 私の救いはどこにある 私を慰める人はどこにいる 二度目の童子となった母 もう一度ピアノを弾いてください 私は歌うから、、、、、、。