
『年に一度くらいはこんな夜がある…』
目覚めたのはメトロの駅。正確にいえば駅の床だ。
床から見上げ微かに「自由が丘」の文字が目に入り、次の記憶は砂田橋のマックスバリューに飛ぶ。
東エツが本山で降りたのが10時前、俺はまだ、そこまではテツコフの絵を持っていたことが判明。
そのときの俺は、まさか5分後に自由が丘に降りるとは、夢にも思っていないはずだ。
夢をみたのはそのあとだ。
もっとも、夢をみようがみまいが、何にも覚えちゃいないんだが。
同時刻、東エツの妻、えいごのせ○せーは、レセプションで意気投合した、マリリン・マンソンと、ヤン・シュバンクマイエル好きの画家とカラオケに行ったことも判明したが、これはこの話に直接関係はない。
俺が最後にワインを口にしたのはいつだったか。
確か去年のゴールデンウイークだったと思うが、自分で作った「ビール以外のアルコールは飲まない」というルールは、9ヵ月で破られた。
そして昨日から「チャンポンはしない」に掟は都合よく書き替えられた。
久しぶりに飲んだワイン。
恐らく血液と入れ替わるくらい飲んだ赤ワインのせいで、また危うく即身仏になりかけたわけだが、まだ辛うじて生きている。
それにしても、この胃もたれと胸焼けは、俺が「生きている」と実感するには十分すぎる苦痛だ。
何度もいうが、レセプション会場に妻を残してきた東エツと、歩いた夜道を俺は全く覚えていない。
だが、確実に俺たちは妙音通駅にたどり着き、メトロで街の腹を北に走り、奴は本山で、俺は自由が丘で降りた。
何故だ?
俺は、ハイソな響きをもつ「自由が丘」の駅にも街にも特に馴染みはない。
なのにそこで降り、たっぷり2時間は床にひれ伏し、手の平を真っ黒に汚した。
そして、こいつは推測だが、俺を起こした駅員か誰かに「もう電車はない」と言われ、歩き始めたのだろう。
そうだ。
俺は極寒の中を歩きはじめた。
タクシーくらいすぐ捕まると高をくくっていたが、深夜1時を過ぎた街には、流しはいない。
仕方なく個人的タクシーを呼ぼうとしたが、運転手がインフルエンザだと思い出したと同時に、携帯がないことに気がついた。
ほんの少し酔いが覚めたのが、マックスバリューの公衆電話の前だったってわけだ。
俺はランブリングを決め込んだ。
砂田橋からゆとりーとラインの下をひたすら歩いた。
永遠とはこの時間を言う。
振り返るのも面倒で、背後から車の音が聞こえるたびに手を上げた。
それに反応したのは田舎のヤンキーだ。
「ジジイ、ふらふら歩いてんじゃねぇぞ」
今更ジジイと言われることには腹はたたないが、ふらふらとはどういうことだ?
俺はシャキッとしていたはずだ。
「乗せてくれるのか?」
「金払えばな」
どうやら二人組みのタクシーだったようだ。
「助かる。でも吐くぞ?」
「あん?」
「あんじゃない。ゲロだ。絶対とはいわないが十中八九、吐く」
「…」
「シャレじゃない」
冴えていた。まだ少し酔っている証拠だった。
3人目がいた。
黒いガラスの後部座席で「頭おかしいしょぼくれはほっとけ。酔っ払いはくせーぞ」と声がした。
何?
俺は頭はおかしいが、お前が言うほど酔ってはいないはずだ。
だがくせーのは間違いない。
ヤンキーを見送りながら、近頃のワカゾーの礼儀知らずを嘆くと同時に、自分がワカゾーだった頃、やっぱり酔って、ヤンキーの逆鱗に触れた時、東エツに丸く収めてもらったことを思い出した。
確かにあの頃に比べたら、俺たちはしょぼくれた。
もういい。
手を上げるのにも疲れた俺は、多分残り1時間くらいの距離を、シャキッとふらふら家まで歩くことにした。
時間は3時を過ぎていた。
テツコフの絵を持っていないことに、気づかなかったとが幸いした。
わき目もふらずにザクザク音を立てながら、リズミカルに歩く。
迷わず歩く。
気分は悪い。
でも体力はある。
むちゃくちゃ寒い。
でも足は動く。
家に着いたのは4時を回ったころだったか。
途中から、見馴染みのジョギングコースを行くことになったが、さすがに走ることはできなかった。
留守電には「今日は有り難うございました。携帯預かっておきます。紙袋の中に領収書がはいっています」とKさんの声。
おー、携帯あったか。うむ。
で、紙…袋?
領収…
「あヾ~!!!!!!!!!!!!!!!」
心の中で叫ぶ。
心の中の住人が飛び起きるような声で叫んだ。
きっとアートスタジオにあるはず。
Kさんは見えていないんだ。
そう決めてから倒れた。
明日と呼べない朝。
「もしもしKさん?テツコフ作品はそこにありますか?」
「ミオさん持って帰られましたよ」
やばい。
まだ対面していない。梱包すら解いていないん絵を…
『どっかやっちまった!』
「あんた地下鉄ではもっとったよ」東エツ。
「5時にならないとわかりません」交通局忘れ物センター。
「あいにくお客様がお尋ねのものはありませんが、見つかり次第ご連絡差し上げます」マックスバリュー砂田橋の誰か。
「いっぺん死んでこい」ミオの心。
「あんたの荷物にそろばん入っとるで」再び東エツ。
「なんでそろばん?」再びミオの心。
「ありませんでしたよ」サンクス松河橋南店の誰か。
飲んでない酒を落として割ったことはある。
昨日買ったダウンジャケットの腕に、今日タバコで穴をあけたこともある。
付き合ってくれると確かに言った女に、翌朝振られたこともあるが、開きもしていない絵を落としたのは初めてだった。
「ダイショック」
die。 shock。
とりあえず携帯を取りに向かうことにした。
昨日歩いた道を車で走る。
Kさんは、ギャラリーがお休みにも関わらず開けて待っていてくれた。
「ミオさん、やっぱりないですね」
携帯を受け取りながら肩が落ちる音がした。。
「有り難うございました。お世話かけました」
足を引きずる。
肩が落ち足を引きずるなんてもはや人間の姿ではない。
アートスタジオを後にして、俺ができることはもうなかった。
あまりに痛い代償だ。
ツケは払ってきたはずだったが、まだまだあった人生を恨みかけたそのとき、立て続けにメールがきた。
「7千万円振り込みました」
嘘つけ。
「昨日はカラオケにいったよー楽しかったよー」
俺も楽しかったと言いたいもんだ。
何か忘れていないか?
初めから整理した。
自由が丘で寝てしまった。そこでの記憶は文字の映像しかない…
ん?
待てよ。
電車に忘れたんじゃなくて、自由が丘の駅に置いてきたと何故考えなかったんだ?
慌てて電話番号を調べて、自由が丘駅に電話をかけた。
名を名乗るまでの決まり文句がやたらと長い。
しかも伴君は、渡辺陽一よりゆっくりしゃべる。
「お調べします」というまで指を巻ながら聞いた。
そして長い時間またされた。
伴君は動きも遅いのか?
仕事も遅いのか伴?
電話の向こうの知らない人間に悪態をつく。
「お待たせしました」
結論を言うまでぐるぐる巻いた。
早くしゃべりやがれ!
指の回転はマックス!
虎がバターになるくらいのスピードで巻いた。
「○○○○○ありました」
あ・り・ま・し・た・?
持ち手が麻紐の茶色い紙袋の中にプチプチとブラバンで梱包されたキャンパスのウラジミールテツコフ180の絵画作品と何故かそろばんが本当にあったのか!?伴君?
伴君は忘れ物センターに取りにいく手順を益々ゆっくり話したが、俺は指を巻かずに聞いた。
妙にこのスローテンポが心地よい。
有り難う伴君。
慌てる乞食はもらいが少ない。だよな。
Kさんと東エツ、えいごのせ○せーにメールした。
ついでにインフルエンザでレセプションを休んだ鳥居ちゃんにも電話だ。
二日酔いだ。
足の痛みは尋常じゃない。
クラークスは長く歩くには向いていないことを証明した。
でもなんとも爽やかな気分になった。
携帯も絵も出てきた。
とりあえずこんな嬉しいことはないとさえ思う。
「結果オーライ」
えいごのせ○せーの言葉を頭で反芻した。
※本日はハードボイルドタッチな演出のため、汚い表現や、不愉快な描写もあったかもしれませんが 、多目に見てくださいませ。
またテツコフさん。呼び捨てにしてごめんなさい。作品大切にします。
m(_ _)m
写真はパーティーの部屋AとB
Aの部屋は松雄先生が大学のように講義。Bの部屋はえいごのせ○せーが腐った世の中に抗議。