
気持ちを静めてやらねば…アンドレは家路に向かう馬車の中で、ずっとそう思い続けていた。
衛兵隊の司令官室で、来月に控えたスペインからの使節団を迎える警備についてアンドレと打ち合わせ中、何の予告もなくいきなりブイエ将軍が入ってきた。ノックもせずに入室した将軍の上気した赤い顔から、明らかに怒りの表情が読み取れた。アンドレは慌てて椅子から立ち、将軍の後ろに回り乱暴に開けられたドアを、静かに閉めた。
「ジャルジェ准将、いったいき…きみは、部下にどんな訓練をしているのかね?」
「どうかしましたか、将軍?私の部下が将軍に何か失礼なことでも…」
「失礼なんてものではない。今そこを通りかかった時、立ち止まって私に敬礼する者が誰ひとりおらん有様だ。まさか彼らは私が誰なのか、知らないわけでもあるまい。先月、閲兵式をおこなったばかりだし…。」
「それは大変申し訳ありませんでした。すぐに隊員たちを集め、しっかりと言い聞かせます。アンドレ、全員を訓練場に集めてくれ。」
「わかった。」アンドレは一礼して部屋を出て行った。
「ジャルジェ准将、君はこのまま衛兵隊にとどまり、指揮を続けるつもりかね?」
「はい、そのつもりですが…。」
「きみには無理だ。」
「今、なんとおっしゃいました?」
「きみには無理だと言ったのだ。」
「将軍、今の衛兵隊員たちはフランス国民を守る兵士としての自覚が足りず、まだまだ至らぬところが多いのは事実です。けれど…少しずつではありますが、彼らもかつてのようなルーズな勤務態度を改め、軍人としてのありかたを学んでいます。ですから…。」
「もういい、ジャルジェ准将。所詮雑魚は雑魚。どんなに芸を仕込んだところで鯛にはなれない。」
「将軍、それは違います。」
「きみは上官である私に意見するのか!だいたい女が軍人を、隊長をしているから衛兵隊は締まらないのだ。女は手ぬるいし、情に流される。」
「将軍…」
「やれやれ、これでは来月のスペイン使節団の受け入れが思いやられる。他の部隊に応援を頼まないと。ではこれで失礼する。」
オスカルは感情を押し殺し黙って頭を下げ、将軍が部屋を立ち去るのを待った。
ちきしょう!ブイエ将軍は何かにつけ、女を理由に理不尽ないちゃもんをつけてくる。確かに自分の力量不足は認める。だが男なら隊員たちを立派にまとめあげることができるのか?ああ、母上…。
「オスカル、皆揃ったぞ。おい、大丈夫か?顔が青ざめているぞ。また将軍に何か言われたな?」
「ああ、いつものことさ。私が女だから隊員たちをしっかりと掌握できないのだと。」
「きっとそんな事だろうと思ったよ。オスカル、おまえ将軍が言ったことを気にしているのか?」
「気にしていない。」
(いや、嘘だ。衛兵隊に移ってから、オスカルは自分が女であることを嫌というほど、思い知らされる場面に遭遇している。)
「アランたちをどこに出しても恥ずかしくない兵士に育て上げるには、もうしばらく時間がかかる。けれど…彼らは確実に変わってきている。アランは照れもあって素直に態度には出さないけどな。オスカル、安心しろ。」
「アンドレ…。」
「さあ、訓練場に行こう。皆、お前を待っているぞ。」
司令官室から歩いて3分。アンドレが後ろからつき従い、オスカルは堂々と前を見て歩く。黄金の髪に2月の寒風が吹きつけふわっと舞い上がる。まるで金の帯を波打つように。風になびくオスカルのブロンドの髪を、もう何年何十年後ろから見続けてきたアンドレ。背中を見れば、オスカルの気持ちがわかる…そう自負できる。今の彼女は、ブイエ将軍の言葉をぐいと腹に収め、悔しい感情を必死で押し殺して訓練場に向かっている。普通の女性として育っていれば、こんな苦しみを味わわなくてすんだものを。だがオスカルが普通の女性として育っていたら、果たして自分は彼女をこれほど愛しただろうかとも思う。
「衛兵隊の諸君、突然集まってもらってすまない。用件というのは他でもない、つい先ほどこちらにやってきたブイエ将軍のことだ。」
「ああ、あのおっさんかあ。」アランが「やっぱりね。」とでも言いたげな表情をして呟いた。
「将軍が諸君のそばを通っても、誰ひとり立ち止まって敬礼しないことに不快感を表していた。君たちのことだ、これにはきっと何かわけがあるのだろう。誰か理由を言ってくれないか?」
「アラン、お前言えよ。」
「そうだ、頼むアラン。」ジュールとミシェルがアランを促した。
「あのおっさんがよぉ、俺たちが剣の稽古をしているところにやってきて『こんな小汚い平民の連中が、スペイン使節団の警備をするのはフランスの恥だ。』と言いやがったのさ。あのおっさん、言ってくれるじゃないか。そっちがそうなら俺たちだって任務はお断りさ。使節団が来る日は、食堂で酒盛りしてやらあ。」
「アラン…。」
「冗談だよ、隊長さん。平民だって人間だからな、言われてカチンとくることはある。だから俺たちはあいつに敬礼しなかった。」
「そうか、わかった。だが…アラン、いやしくもブイエ将軍は私たちの上官なのだ。上官には敬意をもって接するのが軍人の務めだ。そのうえで相手に言いたいことを言う。感情で行動してはいけない。」
「だが俺はあのおっさんは尊敬できねえ。どうせ俺たちが何か言えば、営倉送りになるのがオチさ。」
「アラン…」
「隊長、もういいですよ。これ以上、隊長を困らせたくないから。次からはちゃんと敬礼しますよ…」
このままアランと話し続けても、進展はないだろう。彼も衛兵隊員たちもわかっているのだ。彼らが示したブイエ将軍への反発を、オスカルは頭ごなしに否定することはできなかった。
「では解散。」
その日の夕方、ジャルジェ邸に戻る馬車の中、衛兵隊員たちの前ではかろうじて冷静さを保ったが、馬車という密室の中、気心の知れたアンドレの前でオスカルは思いっきり怒りをぶちまけた。
「女女女…私が女だから隊長が務まらないというのか?衛兵隊が締まらないのはそのためか?じゃあ、男なら、貴族なら何でもできるのか?」
「オスカル…俺はお前が近衛隊から衛兵隊に移ってからずっとおまえと共に、衛兵隊員たちを見てきている。だから自信を持って言わせてもらうが、彼らが確実に変化しているのがよくわかる。いずれブイエ将軍が驚くような、素晴らしい隊になる予感もしている。アランたちはおまえのことを男とか女ではなく、人間として隊長として信頼をおき始めている。だから…大丈夫だ。自信を持て。」
「アンドレ…もし私が男だったら、ブイエ将軍はあんなことを言わないだろう。」
「俺は平民だから、子どもの頃からいろんな場面で悔しいことを言われてきた。人というのは、相手のどうにも変えられない面をめがけて、直球を投げるものだと思い知らされてきた。そこにいつまでも拘っていては、前に進めない。」
「……」
「お前が女、俺が平民である事実は一生変わらない。だったらそのことをいったん受け入れ、相手を説き伏せるより、女や平民でも立派に物事を成し遂げられる事実を周囲に認めさせてしまったらどうだろうと思うようになった。」
「アンドレ…」
「ほら、着いたぞ。」
オスカルは勢いよく馬車のドアを開け、さっと降りた。
「アンドレ、夕食の後、私の部屋へ…」
気持ちを静めてやらねば…屋敷に戻るとアンドレはすぐに着替え、夕食の給仕をした。自分も食事を済ませると厨房に行き、リモージュ焼のショコラポットに、カカオパウダー・ココナッツミルク・砂糖を入れてショコラを練り始めた。そうだ、今夜のショコラにはオスカルの心がホッとするようなスパイスを加えてみよう。
「オスカル、俺だ。入ってもいいか?」
「ああ。」
「ショコラを持ってきたぞ。一緒に飲もう。」
アンドレは熱々のショコラポットをサイドテーブルに置き、オスカルと自分の分を注いだ。
「なんだか爽やかな香りがするな。」
「さすがオスカル、気づいたか?何だと思う?」
「ミントだ。」
「ご名答。ミントとショコラ、それに少しラム酒も垂らしてある。」
「ほお、お前のアイディアか?」
「まあな。」
「アンドレ、お前は立派なショコラティエになれるぞ。」
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ。おばあちゃんが『これも持っていっておあげ。』と言ってお盆に乗せてくれた。」
「何だ?」
「アントワネットさまの好物クグロフだ。昼間、奥さまが開いたヴァレンタインのお茶会でお出ししたものだそうだ。」
「ヴァレンタインかあ。」
「ああ。軍隊にいるとそんなことすっかり忘れてしまうが、今日はヴァレンタインだったな。」
「アンドレ、隣に座ってくれ。」
促されてアンドレは自分のカップをテーブルに置き、オスカルの隣に腰かけた。
「アンドレ、ヴァレンタインってどういう日か知っているか?」
「ああ、一応な。恋人たちがプレゼントを贈ったり食事をしたりして、愛を語りながら幸せなひとときを過ごす日だ。」
「お前がすぐ隣にいて、私のために作ってくれたショコラを一緒に飲み、ふたご座を眺めながらあれこれ話せるのは幸せなことだ。」オスカルは静かに瞼を閉じた。
アンドレはオスカルが右手に持つカップを手から放し、そっとテーブルに置いたのち彼女に優しくくちづけをした。
「ブイエ将軍のこと、悔しかったろう。」
「うん。」オスカルの目に涙がひとしずくこぼれた。
オスカルはアンドレのほうを向き、首に両腕を巻き付けた。アンドレはオスカルを自分のほうにぐっと引き寄せ、幼子をあやすように背中を何度も愛撫した。
「あの時、よく耐えたな。」アンドレがそう言った途端、オスカルの目から涙があふれ落ちた。手で拭うアンドレ。しばらく無言でいる二人。
「これからもずっとこうしているから。俺はいつだってお前の味方だ。」
「アンドレ」
アンドレは力を込めてオスカルを抱いた。守ってやらねば。武力だけでなく言葉の暴力からも。好きだ、愛している。この気持ちをどう伝えたらいいだろう。ブロンドの髪を撫でたり梳いたり、閉じた瞼に軽くくちびるを押し付けてみたり…。力強い手のひらは、シルクのブラウスを着たオスカルの脇腹からウエスト、腰そして太腿へとゆっくりすべっていく。
「あっ」オスカルが小さな叫び声をあげた。アンドレの手とオスカルの手が、相手の体の一番感じやすいところを同時に触れた瞬間、思わず二人とも体を引いた。そして沈黙。
再びアンドレがやさしくオスカルを引き寄せ、軽くくちづけをする。
来年のヴァレンタイン、二人の距離は縮まっているだろうか。
久しぶりのSS ありがとうございます。
ショコラ。当初は薬効を得るために飲まれていたといいますね。
オスカルの気持ちや体調に合わせてエッセンスを加えられたショコラ、高ぶった気持ちを優しく癒してくれる言葉、そして、全てを溶かしてしまうような彼の・・・
オスカルの心身のバランスは、アンドレなくしては保てないんですね~
こういう時間が永遠に続いて欲しかったのに・・
りら様のblogを日々拝見しているお陰で、 SSの中の調度品や衣装、食器など、いろいろな物がリアルにイメージできるようになり、頭の中に描かれる映像が、より一層立体的で鮮やかな彩られたものになっている気がします。
このお話のショコラポットも然り!
りら様に感謝しながら バレンタインの甘い二人の姿をおも描いて、幸せに浸っております。
ありがとうございます。
マイエルリンク
こちらこそ、拙いお話を読んでいただき感謝しております。ショコラとアンドレは切っても切れない関係。ショコラについてあれこれ検索しているうちに、今回のお話が思い浮かびました。
>こういう時間が永遠に続いて欲しかったのに・・
多くの「ベルばら」ファンの願いですよね。幸せな恋人同士の二人の姿をもっと見たい…だから今もたくさんのSSが生まれるのだと思います。
>SSの中の調度品や衣装、食器など、いろいろな物がリアルにイメージできるようになり
18世紀のフランス民衆の方々には申し訳ないのですが、ロココ文化の優美さはすごいなと思います。もし革命が起きず、あのままアントワネットがロココ街道を突っ走っていったら、どんな文化が花開いただろうと妄想してしまいます。衣食住すべてにおいて、さぞ華やかだったでしょうね。
マイエルリンクさま、これからも、いつでもお気軽にお立ち寄りくださいませ。