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Vばら 

ある少女漫画を元に、エッセーと創作を書きました。原作者様および出版社とは一切関係はありません。

NHK「ザ・プロファイラー」 グレース・ケリー

2015-09-30 23:02:43 | つぶやき

 NHK BSで9月30日からスタートした「ザ・プロファイラー シーズン4」。第1回は「グレース・ケリー」特集。予告編を見た時から、絶対に見逃すまいとこの日を待っていた。

 実はグレース・ケリーについて詳しく知らなかった。クール・ビューティーで人気があったハリウッドの大女優が、絶頂期に女優をやめて母国を離れモナコ公妃になり、(老醜を見せずに)美しい姿のまま最後は自動車事故で亡くなった---この程度の知識しか持っていなかった。

 1929年、アメリカ・フィラデルフィアの裕福な家庭で、4人兄弟姉妹の3番目として生まれる。父はオリンピックのボート競技で3つメダルを獲得したスポーツ選手。グレース以外の兄・姉も運動神経が良かった。しかしどういうわけかグレースだけは運動音痴。そんな彼女を父は「私の娘ではない。」と言い放つ。母親の躾は厳格でグレースが外出する時、必ず白い手袋を着けさせた。家の中には兄がボート競技で受賞したトロフィが飾られるが、グレースに関連するものは何もなかった。(兄もオリンピックのボート競技でメダルを受賞している。)

 12歳で地元のアマチュア劇団に入り、高校を卒業すると、家族の反対を押し切りニューヨークの演劇学校に入学。25歳で映画「喝采」の演技が認められ、アカデミー賞主演女優賞を受賞。この時の父の言葉が辛辣。

「私はグレースの受賞が信じられません。有名になるなら長女のペギーだと思った。ペギーは何をやらせても、グレースより上だった。」

 グレースはアカデミー賞を受賞した日のことを「人生で一番寂しい日」と語っている。何ともやりきれない想いに駆られる。受賞を一番喜んでもらいたい親から、このような言葉を聞かされれば、喜びなど吹っ飛ぶだろう。何のためこれまで頑張ってきたのか、自分の人生とは何だったのかと。

 そのせいか彼女が浮名を流す相手は、父親ほども年の違う男優ばかり。22歳の時、「真昼の決闘」で共演した51歳のゲーリー・クーパーと、25歳の時「喝采」で共演したビング・クロズビーとゴシップ沙汰になる。相手に恋愛感情よりも、父性愛を求めたのだろうか?彼女ほどの美貌があれば、同年代のイケメンがいくらでも寄ってくるだろうに。

 そして27歳の時、2回しか会ったことのないモナコ国王レーニエと結婚。もしかして「今度こそ、父親に認めてもらえる。」と考えただろうか?子育てではずいぶん苦労したらしい。娘を厳しく躾けようとしたが、なかなか思うようにいかなかった。グレースの功績として、財団を作り恵まれない人たちに経済的な援助をしたり、世界で2番目に小さいモナコ公国でいろんなイベントを企画し、人脈を生かしてハリウッドからセレブを呼び、世界に国の名を広めた。

 亡くなる2年前、モナコを舞台にした映画に出演。ラストシーンで次のような言葉を語っている。「落胆するのも人生の糧。失敗したけれど、楽しかったでしょう。」これはまさに彼女自身の生き方を指しているのだろうか?彼女にとって公妃になったことは失敗だったのだろうか?本当はアメリカで女優として大成したかったのだろうか?

 1982年9月13日、不慮の自動車事故で52歳で亡くなる。この事故についても謎が多く運転中に脳内出血を起こした、自殺しようとした、娘が運転していたなどさまざまな説がある。葬儀には故ダイアナ妃も参列。ダイアナ妃はグレースをずっと慕っていた。

 下はモナコ大聖堂にあるグレースのお墓。右には夫のレーニエが眠っている。ある夏、モナコを旅した。多くの人が訪れるため静かに佇むことができなかったが、「ここにグレースが---。」と思うと、ずしりと胸に来るものがあった。この大聖堂で2人は挙式した。

 大聖堂のそばの街並み。グレースとレーニエ国王の若き日の写真が飾られている。

 グレースも眺めたであろう美しいヨットハーバー。モナコ・グランプリもここで開催される。

 享年52歳は早すぎる。人々に美しい姿を印象づけたまま旅立っていったのは、彼女の最後の女優魂なのだろうか?生涯、親との確執が消えなかったのか、今となっては想像するしかない。

 読んでくださり、ありがとうございます。



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