足助千年ゼミ

エコでおしゃれな21世紀の里山の暮らしを考えます

8月7日 教育グループ

2009-08-11 17:39:38 | ゼミの議事録
教育グループのご報告をだいどうがつかまつります。はじめにメンバーの皆様をご紹介いたします。

山本さん:97年まで名古屋市内の小学校に勤務。犬のマーキングに着想を得て、「衣食住」の探究という生涯のテーマを見いだす。
杉浦さん:恵那の小学校で2年生のクラスを担任。後藤さんとともに生活つづりかた教育の体験者。
岸本さん:教員を志望する大学生。「特別支援教育」に関心。いつの日か学校で畑仕事の授業をするのが夢。
松宮さん:佐渡出身。おなじく教員志望中の大学生。「地域ブランディング」と「英語教育」に関心。
後藤さん:建築をまなぶ大学生。今回の進行役をつとめてくださり、最後には見事な発表をしてくださいました。
三輪さん:さまざまな地域でボランティア活動に従事。いろんな人の心の中に目をむけて、当人も気づかずにいる輝くものをすくいあげたい。
大洞:放送大学でおとなたちが熱心に学ぶ姿勢に心うたれ、生涯学習にたずさわろうと決意。

つづいて話し合われたことがらをお伝えしますが、なかにはわたしの主観的な解釈も多々ふくまれており、レポートよりはむしろ感想文と呼ぶのがふさわしいしろものでありますことをあらかじめご了承ください。メンバーの皆様には訂正や補足事項をコメント欄にていただければ幸いです。それと初めてお役目をつとめることもあり、いきおいあまっていささか長くなってしまいましたことをお詫び申しあげます。次回以降は簡潔にまとめますので、どうかご海容ください。


◆問題提起
 対話は、後藤さんのご紹介されたとあるご夫婦のお話からはじまりました。都市部から上矢作に移住してきた小さな子供をもつ三十代のその夫婦は、「自分たちは望んでここへ来たけれど、その選択ははたして子供にとっても良いものだったのだろうか。子供は幸せになれるだろうか」という疑問をかかえておられたとのことです。

◆うれいの理由
 ご夫婦が子供の将来を憂う、その理由はなにか? というところから考察をはじめ、それは主として、教育にかかわる「学習環境」と「経済問題」であるかと考えられました。すなわち山あいのちいさな学校の、塾や習い事もない環境で、はたして都市部とおなじ教育水準が期待できるのかという懸念と、移住後の相対的に低くなった収入では大学まで送れないかもしれないという不安とです。

◆学校は小さいほど良い
 ひとつめの問題については、元小学校教員であられる山本さんがさわやかに一蹴してくださいました。「学校は小規模であればあるほど良い」というのが、長年の経験にもとづく山本さんの実感です。ここでいう「良い」とは、相対的に高い教育水準を維持できているということだけでなく、それも確かな事実であるとのことですが、さらにまた、より人間的で血のかよった学びの風景を実現させやすい、という意味での「良い」でもあります。

◆理解と処理とのちがい
 血のかよった学びの風景とはどんなものでしょう。わたしたちの多くは小学校二年生に上がると、ににんがし、にさんがろく……と暗唱して九九を憶えます。中学に入れば英単語をこれまたちからずくで暗記していくことになります。山本さんによれば、暗記をとおしてわたしたちが身につけうるものは「処理」の能力であって、「理解」することとは別物です。

◆つみ木でまなぶ単語
 ドイツのさる学校では「家」という単語のスペルを教えるさい、「H・a・u・s」の四文字を模したつみ木のピースをつかって家をくみたてる、ということをするそうです。また学習塾でアルバイトをされている松宮さんは、1キロが1000メートルであることを子供たちにわからせるために、ほんとうならば屋外に出てじっさいに地面を歩きながら、肉体感覚としてつかませたいとおっしゃっていました。

◆ハートをはぐくむ
 こうした例のように、書面の文字と記号だけで一切をかたづけてしてしまうのではなく、「もの」を素材として使いながら、「生活体験」として知を血肉化させていくこと。頭で憶えるのではなく、「ハート」にきざみつけて覚えること。そうしたいとなみをとおして、子供のハートはふくよかになってゆく。ほんらい小学校のすべての教科はハートで会得されるべき、というのが山本さんのご持論です。

◆「自治能力」
 ハートで会得する学びをとおしてつちかわれていくものを山本さんは、みずからを治める能力という意味で「自治能力」と表現なさいました。それは主体的・能動的におのれの人生を切りひらいていこうとする意志であり、また思考力や判断力、さらには度胸とか行動力といったものもまるごとひっくるめた、人生という船の「操舵術」であると云いうるかもしれません。現代日本の教育制度はますます子供たちから自治能力を奪いとる方向にむかっていると、神妙な面持ちでつぶやく山本さんです。

◆カリキュラムは個々の学校でつくればいい
 今日の学校では、子どもたちの自治以前に、「先生たちの自治」が奪いとられていると山本さんはいいます。文科省がさだめた指導方針からはみ出ることは許されない。このことが先生たちのやる気をそいでいる。ほんらい教材も授業のしかたも、個々の学校において先生たちがひたいをつきあわせて練りあげていくべきもの。それが先生たちにとっても良い学びの機会となる。じっさいに戦後の一時期にはそうした状況があり、自覚的な教師たちが生活に根づいた教育を実践していた。全国の学校で「手づくりの授業」がふたたび実現すれば、日本の教育は再生への一歩をふみだすと、山本さんはお考えです。

◆究極問題
 ご夫婦のもうひとつの悩みの種とかんがえられる、「子供を大学へ送る学費をどう工面するか」という問題は、高野先生のご見解によれば、まさにこれこそがいなか暮らしにおける「究極の問題」なのだそうです。これにかんして現役教師である杉浦さんからはシビアな発言が投げかけられました。「両親が通俗的な教育観(大学にやるのがあたりまえ、というような)をひきずったままでいなか暮らしを始めてしまうなら、それこそが子供を不幸にしてしまうのではないか」というご指摘であり、わたしも首を大きくたてにふりました。

◆複数の選択肢を
 わが子に立身出世の道をあゆんでほしいと望むことは、無理からぬ親の情でありましょう。しかし、それがかならずしも唯一絶対の道ではないことを、こころのすみにでもとどめておくならば、親と子どもの双方が、ずいぶんと気を楽にもつことができるでしょう。

◆「あたりまえ」を問い直す
 世間一般で自明の理として通用している考え方を、ほんとうにそれが正しいのだろうかと批判的に問い直す機会を、もしもまったくもたないとしたら、山本さんのいう「自治能力」が身につくことはなさそうです。さらにいえば、仮に大学を経由しない理想的な生き方を親子が見いだしたとしても、マスメディアがこぞって流布する「幸せ」とか「あたりまえ」の基準にたいして無批判なままでいるのなら、それが自分の道を迷わずに進んで行くにさいしての、足かせになってしまうこともかんがえられます。

◆生活つづりかた教育
 かつて日本には、「あたりまえを問い直す」ことに主眼を置いた教育が存在しました。「生活つづりかた教育」とよばれるその運動は、1930年代のしだいに軍国主義化していく国家の情勢に危機感をいだいた心ある教師たちが、「書く」ことをとおして子供たちに賢明な判断力を身につけさせようとする意図をこめて、全国各地でくりひろげたものです。終戦以後は、それまで自明の理として受け入れてきた価値観が瓦解し、信じうるもの・進むべき道を見失ったままでいる大人たちの「思想再形成」の方法としてもとりいれられました。

◆恵那に生きるつづりかたの精神
 杉浦さんと後藤さんがお育ちになった岐阜県恵那市は、かつて生活つづりかた教育がさかんにおこなわれた地域であり、こんにちもなおその精神が息づいているそうです。まだ二十代のおふたりですが、生活つづりかた教育の「生き証人」といえるでしょう。
 後藤さんがかよっておられた高校はアットホームなところで、都会の進学校から赴任してきた先生の顔つきが、日を追うごとに丸くなっていったとか。
 杉浦さんは小学四年生のころ、先生といっしょに河を散歩しているとはごろもフーズの空き缶を見つけ、これはどこから来たのだろうと杉浦さんがきくと、先生はならばみんなでいっしょに調べてみようと、後日教室でこの話をもちかけ、するとみるみるうちにクラスの全員をまきこんだ「川のゴミ」研究がはじまって、一躍環境問題についての意識をもつ契機になったとのことです。これもまた「ハートで学ぶ教育」の一例といえましょう。

◆豊かさとはなにか
 問い直しを要する価値基準のひとつに、「豊かさ」にかんするものがあるかとおもわれます。三輪さんは、以前ボランティアで滞在されていたタイや大阪の釜ヶ崎で出会った人たちから、「なんて豊かなのだろう」という印象を受けたそうです。そのあと会社に戻ったら、同僚たちが「人工林」に見えたと。今レポートを書きながら思うのですが、三輪さんがタイや釜ヶ崎の人たちと交わってそう感じられた理由のひとつには、かれらが日々「自分を治めて」生きていたから、ということもあるかもしれません。寄りかかることのできる組織に属しているわけでも、明日のごはんさえも保証されていない状況下では、自治能力をとぎすませずには生きていかれないでしょうから。

◆天地の経文
 二宮尊徳(金次郎)の、「音もなく香もなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくりかえしつつ」「ゆえにわがおしえは書籍を尊まず、天地をもって経文となす」ということばをわたし(大洞)は座右の銘にしています。「教育」ときけば「学校」を、「学習」ときけば「書物」を、すぐさまわたしたちは連想してしまいますが、世界について知ることが学びであるとすれば、学ぶという行為はほんらい、世界の広さとおなじほど多様な側面を有するはずではないでしょうか。さらには、学ぶことの目的が「よりよく生きること」にあるとすれば、およそ人間のおこないであるものの一切が学びであると、見なすことさえもできそうです。

◆最初の問いに対する答え
 学びのかたちは広大無辺。おなじように幸せのかたちも人それぞれ。「子供自身が自治能力を身につけさえすれば、どこで生まれ育つかにかかわらず、みずから幸せに向かって歩んで行ける」。これが、この日の対話をつうじてみちびかれた結論です。むろんどのような問いも結論も、たえずあらたに問い直されていくべきものではありましょうけれども、この答えは里山における教育のありかたに、一筋の光明をなげかけるものであると信じます。

◆おわりに
 学校という制度の限界を意識しながらも、あくまでその内側に踏みとどまって闘いぬかれた山本さんのお話は、現職にある杉浦さんや、これから教育の世界へ飛び込もうとされている岸本さんと松宮さんにはもちろん、里山の教育問題に関心をおもちの三輪さん、後藤さんにとっても意義ぶかいものであったろうとおもいます。そして無論のことわたくしにとりましても、忘れえぬ一夜となりました。

◆今後の課題その1
 以下は純粋な感想になります。次回以降の課題をあげるとすれば、ひとつには「学校という空間に限定されない教育のありかたの模索」ということがあろうかとおもわれます。この日わたしたちのグループで話し合われたことは、おもとして「学校」という制度の枠内における教育に関するものでした。けれども「共に学び合う」という営みは社会生活のさまざまな局面で生起している/しうるはずで、その最適な事例は、まさしくこの足助千年ゼミであると申せましょう。

 高野先生のおことばを借りていえば、「その場に来てもらえば誰でも参加できる。誰か講師がいるわけではなく、何か成果を出すものでもない。ただただ集まっておしゃべりをする場」であるこのゼミに、たちまちのうちにこれだけの人数がつどい、これほどまでに濃密な対話が交わされるようになるとは、呼びかけ人のどちらさまも予想されておられかったこととお察しします。

 「大学」をラテン語でウニウェルジタス(universitas)といい、これはもともと「組合」という意味でつかわれていた言葉だそうです。さらに原義をひもとけば、「一つのものに向かって(unum)」、「方向づけられている(versio)」という意味になるとか。足助千年ゼミにつどう人びとは年齢も立場もさまざまですが、よりよい里山の暮らしを模索していこうという、一つの共通目標につらぬかれています。「風は辺境から吹く」とも申します。足助千年ゼミが、未来の学校のモデルとなっていくにちがいないと、わたしは予感しています。

◆その2
 もうひとつの課題とおもわれたのは、より根本的な問題で、わたしたち一人びとりの意識における「人間の存在価値」にかんするものです。「子どもの自治能力を育てよう」という結論はすばらしいものでしたが、なかにはハンディキャップをもつなどして、そうしたことを求めるのがむずかしい子どもも存在します。そういう状況にある人たちもふくめて、みんながひとしく「幸せ」でいられるためには、「人間の価値とは、何かを行なったり所有したりすることで決まるのではなく、いる(存在している)こと自体が価値である」という観点をもつことが重要だと、わたしにはおもわれるのです。

 こうした心のもちようは、言葉にしてしまうとなんだか人間ばなれした崇高なものに感じられますが、「家族」に対しては、だれもがそんな感情をもっているのではないでしょうか。その対象をもうひと回り広げてみて、自分の暮らす村あるいは町の住民全員を「家族」とみなす、そういう見方が住民一人びとりのこころに、暗黙のうちに共有されているのなら、「幸せになれるかどうか」という問いなどは、そもそも発さずに済むのではないでしょうか?

◇以上、要領のよくない報告文で失礼いたしました。最後までお読みくださった方、ありがとうございます。

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