足助千年ゼミ

エコでおしゃれな21世紀の里山の暮らしを考えます

「芸能」班のご報告

2010-03-20 10:54:24 | ゼミの議事録


メンバー:洲崎さん、矢澤さん、安達さん、高橋さん(発表)、原さん、大洞(報告担当。ノートは皆で分担しました)


▲自己紹介など

原 : 「若者よ田舎をめざそうプロジェクト」メンバー。先日メンバー数人で旭のお祭りに参加したら地元の方々がとても喜んでくれた。
高橋 : ブースに展示されていた竹カゴの製作者。二十歳の頃からお茶・お花を習う。芸事の要(かなめ)は「守・離・破」だと師匠に教わった(後述)。
安達 : ギター歴長い。演奏者と聴き手との距離を感じさせないような音楽の楽しみ方が好き。
矢澤 : フラメンコを踊るのが好き。土着的なところに魅力を感じる。神話に詳しい。アメノウズメが好き。
洲崎 : 矢澤さん同様、フラメンコ(とバレエ)をたしなむ。酔うと踊り出す事がある。
大洞 : 奄美・沖縄を昨年旅して、生活のあらゆる局面に歌があって踊りがあることに驚いた。三線(さんしん)に魅了されて習い始める。

 あの日の足助交流館、熱気がうずまいていましたね。シンポジウムにたずさわられた皆様、おつかれさまでした。足助ゼミもこの次からはますます活況をていするのではないでしょうか。

 以下につづる報告では、談論風発の臨場感をそがないように、あえて前後の話につじつまを合わせず、でもなんとなく脈絡はうかがえるように書いてみたいと思います。また、だれかが話してくださった事は必ずその前のどなたかの話に誘発されてのものですから、これは誰それの発言、といった断り書きもしないでおきます。あの時間に生まれてくるものを、連歌や連句のようなつながりをもった、即興の芸術作品として、わたしはいつも受けとめています。


▲覚え書き

踊りの魅力その1 : 「無心になれる」こと。庶民的な踊りには、音楽に合わせて決まった動きを延々と繰り返していくタイプのものが多い。「反復」がもたらす高揚感、酩酊感。

踊りの魅力その2 : その場にいる人たちと、初対面でもたちまち打ち解けあえること。花いちもんめやジェンカでの体験談。

問 : 沖縄地方やアフリカやラテン諸国で、今日でも歌や踊りが日常に根付いているのはなぜ?
→気候が温暖で、いつでも野外にくりだせるから。
→(動きやメロディーの)基本が単純で、なおかつ幅広く応用が利くから。

問 : ライブで耳にする歌とCDで聴く歌、同じ人の同じ歌でも大きな違いがあるのはなぜ?
→ライブの主役は芸ではなく、人間にあるからか。

核心 : 祭りや踊りや歌は、地域ネットワークの基盤をなすもの。

本末転倒 : 行政が効率・合理性を優先させるためにお祭りのような非合理なものを排した結果、逆にネットワークが希薄になったり人が減ったりして地域の効率が悪くなってしまった。

誰のために踊るのか : 神様を楽しませたりうらやましがらせたりするために昔の人々は踊りを捧げた。都会のお祭りは時として見ていて気恥ずかしくなる。神様にお見せするために踊るのだという気がまえがなくなっているせいだろうか。地元の人々の生活から遊離しているせいだろうか。とはいえ高知のヨサコイ祭りなどをはじめ、みんなで踊る式の都市型イベントには、おおぜいの人を惹きつける魅力がある。

山さん談 : 踊りの盛んな郡上八幡で育った。祖母の影響から自分も踊るように。郡上おどりに参加するさいは下駄を忘れずに。

理由 : 職場で休みをとるときに「旅行に行くから」という理由では反感を買うが、「地元のお祭りに出るから」という理由であれば笑って済まされたりもする。

継続は力 : 伝統的な催しは、どこも継続が困難になってきているが、一度やめると再開させるのは大変。「継続は力」を信じてもらえたら。

敷居の高さ : 富山の伝統芸能「おわら風の盆」。格調が高すぎて地元の人々が入っていきにくい側面がある。

教育 : 生徒たちにお囃子(はやし)を教えている学校もある。ただし先生がよその土地の出身者だと、イントネーションや解釈のニュアンスが変わってくる。

問 : 芸事を上手に演じる人が、普段の三割増しくらいかっこよく見えるのはなぜ。歌やダンスと動物の求愛行動との関連について。

鹿(しし)踊りができる人 : 岩手のある女性が結婚相手に求める条件。

佐渡おけさ : 裏の(真の?)歌詞にはとても色気がある。沖縄地方の島唄にも色っぽいものがたくさんある。

もーあしび : 夜の浜辺で男女が即興の恋歌を掛け合う沖縄地方の風習。島唄の伝承の現場でもあった。昭和を代表する沖縄のミュージシャンには若い頃に野遊びで鍛えた人が多い。

問 : 恋人たちが川や池などの水辺を好むのはなぜ?

風の通路 : 川は、人・物資・芸能文化・言語の伝搬ルートであったほか、風の通り道でもあってきた。

矢作川流域の芸能 : 「まわりうち」「チャラボコ」などがある。

伝統芸能は川の如く : 川の水源は清らかだけれど、流れてゆくにしたがって濁りが増したり、地形に応じてかたちを変えてゆくもの──厳冬芸能もまた、源は純であるべきだけれど、多くの人に受容されるにあたっては、質の変化が加えられていくのが自然なのだろう。

守・離・破 : 高橋さんが教わった芸の道の三つの階梯。「守」とは、オーソドックスな形式を尊び、習得に努める事。「離」とは、そこから一歩下がって、改善できる余地を探す事。「破」とは、伝統を乗り越え、独自の道を切り拓く事。

守離破の実例 : 喜納昌吉や知名定男のような戦後の沖縄歌謡界を代表する人は、たいてい親が唄三線の師匠で、幼い頃からオーソドックスなものをたたき込まれてきた。そのベースの上で、日本やアジア、世界の人々が共感する歌を次々に送り出している。

現代の民謡 : 沖縄で人気の高い民謡には戦後に作られた曲も多い。「ちんぬくじゅうしい」や「ジントーヨー・ワルツ」など。後者は集団就職で島を離れていく若者たちと家族の別れを歌った名曲。沖縄言葉の歌詞の説明を大洞がしていると、思わず涙された方(男性)も……。


▲ふりかえっての雑感 / 大洞

 澁澤寿一さんとお昼をご一緒している時、あるエピソードを聞かせてくださいました。過去に澁澤さんが、ベトナムのとある小さな村に加藤登紀子さんと喜納昌吉さんを招いてコンサートを企画された時のこと。アンプやら照明やらをはるばる運んできたものの、電気が足りなくて使えずじまい。しかしマイクがなくても、ゆたかな声量をもつ喜納さんの声は会場のすみずみにまでゆきわたり、そして驚くべきことには、「花」を歌ったところ、ベトナムの人たちが声を合わせて歌ってくれたという事です。「花」はかの地でも流行ったそうで、その場にいた人のほとんどがその歌を知っていたとか。非常に美しい時間であったろうと想像します。

 歌や踊りは、人同士のきずなを固くしてくれるものですが、老いも若きも「みんなが知っている」ということが、やはり大きなポイントであろうかと思います。そうした歌や踊りのある地域のネットワークは、きっと他地域よりも濃いのでは。

 テレビやラジオからは毎日ひっきりなしに新曲が流れます。今日では芸能もまた、大量生産・大量消費の方式に組み込まれてしまっているかのようです。カラオケで数年前のヒット曲を選ぶと「古い」と言われたり。「古い」という事に知らず知らずネガティブな意味合いを付してしまっているのもきっと、どこかからのお仕着せの見方なのでしょう。とはいえカラオケで「うさぎおいしかの山……」などと歌うのはさすがにわたしも抵抗がありますが、沖縄では古い民謡を人前で歌うことは、なんら恥ずかしいことではないんですね。ものを大事にする心と古い歌を大事にする心は、きっと通じるはず。

 わたしはくわしくないのですが、奥三河や矢作川流域に伝えられてきた民謡や囃子やわらべ歌などが沢山あるはずで、それらを発掘して再び広めていくことができれば、地域の紐帯(ちゅうたい)はより密に締め直されるのではないでしょうか。そうしたことを学生さんが卒業論文のテーマに取り上げても面白いのでは。

 長くなりましたが、短い制限時間の中で簡潔にまとめて発表してくださった高橋さん、どうもありがとうございました。わたくしの下手な演奏を我慢して聴いてくださったみなさん、一緒に歌ってくださったみなさんに感謝申し上げます。写真を掲載しましたが、もし不都合がありましたらご一報ください。書き逃しているお話も多々ありますから、お気づきのさいには補足や修正をお願いします。

 このブログの過去すべての記事で、キラリと光る一文がそこかしこに散りばめられていることはご存じのとおり。後日ふりかえって読んでみて、一人びとりが人生観を深めるきっかけになったり、あるいは集団単位での創造的な活動につながっていく起爆剤になるとしたら素敵なことですね。

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