
石橋湛山 1884/M17–1973/S48:ジャーナリスト・政治家・教育者
あの人かこの人か・・・迷った末に石橋湛山に決めた。
のち政治家となったが、前半生はジャーナリストとして名を馳せた。
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【生誕・修学時代】
1884/M17年 現・東京都港区に僧侶の父・杉田湛誓と母・きんの長男として誕生
1885/M18年 父が山梨県の昌福寺の住職になり、母子も現・甲府市に転居
1895/M28年 11歳 現・山梨県立甲府第一高校へ進学、2年落第・7年間在籍
1902/M35年 18歳 卒業(この頃湛山と改名)後上京
現・東大教養学部を受験するが不合格
1903/M36年 19歳 再度受験で不合格、早稲田大学高等予科の編入試験合格
1904/M37年 20歳 早大文学部哲学科に入学
1907/M40年 23歳 哲学科、文学部を首席で卒業 特待生で宗教学を1年学ぶ

早大卒業の頃の湛山
【新聞社へ】
1908/M41年 24歳 東京毎日新聞へ入社(現在の毎日新聞とは無関係)
1年足らずで退社する(理由は不詳・・・兵役志願のため?)
【志願兵へ】
1909/M42年 25歳 1年志願兵として東京麻布歩兵第3連隊に入隊する
初めは社会主義者と思われ要監視兵にされたがそのうち誤解が解けた
やがて伍長、1年後には軍曹に昇進して予備役編入となった

志願で軍役の頃 前列右端が湛山~髭を生やしている
【再び新聞社へ】
1911/M44年 27歳 東洋経済新報社に入社、『東洋時論』の編集に携わる

東洋経済新報社に入社し間もないころ(28歳)
1912/T01年 28歳 『東洋時論』廃刊となり、新報社記者として異動
この年、岩井うめ(梅子:尋常高等小学校教師)と結婚する
【「東洋時論」の湛山論説より】~言・文を今風に摘録要約記述引用する
<明治時代の意義>1912年9月号
”明治時代の最大特色は、その帝国主義的発展、と皆は言うかも知れない。
陸海軍は非常に拡張、大戦争も何度かして台湾も樺太も朝鮮も版図にした。
だが、国民は軍事費の圧迫に青息吐息。
皮相に明治年代を見れば、軍国主義全盛、帝国主義一辺倒の時代だった。
しかし、僕は明治時代をそう見たくない。その最大の事業は、政治・法律・
しかし、僕は明治時代をそう見たくない。その最大の事業は、政治・法律・
社会の制度と思想に、民主的な改革を行ったことにあると考えたい。
軍艦多造・師団増設、幾度かの大戦争をして版図を拡張したことは、
過去五十年来の偶然の出来事であり、一時的な政策の結果である。
一時的政策や偶然の出来事は、時勢が変ればその意義を失なう。
一時的政策や偶然の出来事は、時勢が変ればその意義を失なう。
しかし、明治元年に発せられた五か条の御誓文を初め、
国会開設の詔勅等による公論・衆議即ち民主主義は、
今後の時勢の変化で意義を失わない。
しかし、我国民は、この意義を理解し、完成させる覚悟をもっているか。”
皮相な民主主義、実質は権威主義に堕す昨今、湛山の言説は今も生きる。
引用が長くなってしまったので、今日はここで終わり。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]