
桐生悠々(本名:政次)の2回目。
名古屋時代(新愛知新聞主筆)の主な事件2つを取り上げる。
【米騒動事件】
第1次世界大戦中の大正7年、米価格の暴騰を機に起きた騒動事件。
悠々の論説を摘約する。
~政府の無策により生じた米価暴騰を、騒動を伝える新聞の責任、として
記事の掲載を禁止した寺内正毅内閣を、悠々は厳しく批判した。
社説「新聞紙の食糧攻め 起(た)てよ全国の新聞紙!」を書き、内閣打倒、
言論擁護運動の先頭に立ち、寺内内閣を総辞職に追い込んだ。~
【檜山事件】
これはネットを検索しても情報が何もない。
以下は、井出孫六著「抵抗の新聞人 桐生悠々」から摘約引用する。
~事件の舞台は、名古屋市立第一高等女学校。
問題人物・檜山はその校長、学校の裁縫室で有夫の女性教師Aと密会。
偶然その場面を女性教師Bが目撃していた。
密会だけのことなら、悠々も新聞に書いたりはしない。
しかし、目撃された檜山は、事が明るみに出ることを恐れ揉み消しを図る。
B女と仲間の教師をクビにしようとしたのである。
悠々は、教育者にあるまじきこと、と怒って、紙上で糾弾しようと決意。
綿密な取材を行い社説、コラム使って、連日これを報道する。
社会的道理を貫く、それが記者としての悠々の矜持だったのである。
檜山側は新聞を名誉棄損で訴え、事件は法廷闘争へ。
その裁判報道が、今度は検察と新聞との対立を生み、数カ月続く。
結局、この事件では、新聞紙法違反の前科が悠々には4つついたという。
しかし、そんなことくらいでめげる悠々ではない。~
今日はここまで。
桐生悠々の妻子の情報もネットには殆ど見られない。
子沢山だったらしいので、次回はその辺りを調べてお知らせするつもり。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]