goo blog サービス終了のお知らせ 

遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

永井荷風#48摘録 断腸亭日乗~市川暮らし その2

2024年03月19日 | 日記

1946/S21年 荷風68歳
阿部雪子の情報を探しているが 断片的でしかない
そこで今日は趣向を変えてみる

青空文庫の「荷風戰後日歴 第一」の記述と併せて地図を見るのも一興

上の地図では京成八幡と鬼越の2駅だが 荷風の散歩は広範囲に及ぶ
因みに京成電鉄の近辺の路線図は以下のとおり(昔と駅名が違う場合もある)



さて「日瀝」に出て来る駅で 八幡と鬼越以外に荷風が最も利用した駅は?


 海神~駅が出来た当時は古語に従い「わだつみ」と読んだという 

 1月半ばに市川に移住以来 何と66日間ここに来ている(10月ー12月の間)
 理由は後で書くとして 主な駅の当時の写真を掲げる


 市川真間

菅野


 京成八幡


 鬼越


 国府台

京成小岩

さて 荷風が海神に通ったのはなぜか?
荷風の支援者だった凌霜子の別邸があったからである
当時 荷風は五叟一家と一つ家で暮らしていたが
ラジオ放送の音や三味線の稽古や子供たちの声などに悩まされていた

荷風は同居は無理だと考え 自分一人の家を借りようとしていた
恰好な家が見つかるまで 凌霜子が別邸を自由に使わせてくれた・・・

ところで 昨日 こう書いた
12/15■ 昼 阿部雪子來る 洋書二册を贈られる (仏語の2冊の書名省略)
     夜 海神へ 晩餐の馳走になる
食事後 雪子は東京(かどうかもわからないが)へ帰ったのだろうか?

今日はここまで それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#47摘録 断腸亭日乗~市川暮らし&謎の女性

2024年03月18日 | 日記

 市川真間市 手児奈霊神堂 昔の写真:時期不明

1946/S21年 荷風68歳
~1月16日に市川に越して来て2ヶ月半が経った
前回は荷風の散歩と来客の視点で「荷風戰後日歴 第一」から要約した
荷風日誌の一番の面白さは 権威への批判・風刺を含む世相の観察だと思う
今日はそこに焦点を当て 4月以降の「日乗」と「日歴」とから要約する
なお 日付後の■は「日歴」 無印は「日乗」から~

04/04■省線驛前を過ると衆議員選擧候補者が演説
 ホテル番頭の挨拶のようだ 戦争に負けるとこれほど卑屈になるのか
04/06■噂の聞書き
數日前 大阪で警察に捉えられた朝鮮人闇屋を奪い返す暴動が起きた
日本人も混じって闇屋・警官双方でピストルの撃ち合いとなる
この騒ぎに事情を知らない米國憲兵一隊が機関銃を放って追い払う
死傷者少くないというが 米国人檢閲のため新聞には載らなかった
口では民政の自由を説き自分に不利な事は隱蔽 米国人 笑ってやれ

04/11■夕食後 文學狂と思しき洋裝の婦人來て面会を求める
 取次の家人が留守と答えたが 家が遠く一晩泊めて貰いたいと言う
 幸いなことにしばらくして帰った様子
 物陰に隠れて見たら年は30前後、容貌10人並 住所姓名は言わなかった
04/15 米兵暴行掠奪の噂が多い 黄昏銀座通で毆打・紙入を奪われる
 日本人の追剥も多い 夜間外出は愼しんだほうが良い
04/28 配給の煙草粗悪になる 醤油・味噌も不味い 亡国の兆しが哀しい

04/29 江戸川堤散歩 國府台新緑の眺望が佳い
 路傍の蕎麥屋に代用食ふかし芋ありと貼紙 入って食べる 1皿五円
 三十前後のおかみさんの話
 「夫は去年沖繩に送られ 今だに生死が分からない 子供三人
 女手ひとつだけで暮してゆくのも難しい」
 家に帰ると凌霜子(※)が待っていた
   ※相磯凌霜(あいそ・りょうそう)1893(M26)ー1983(S58):鉄工所重役
   荷風の交遊相手 船橋市海神の別邸を執筆の場に利用させてもらった
   相磯は 荷風の財産管理や葬儀の段取りなども行なった

05/04■午後 阿部雪子(※)来る 白米貰う
  ※誰だろう この女性?

05/07ー09■八幡町混堂・白幡天神・葛飾八幡宮・同左藪知らずを散歩する
 葛飾八幡宮と藪しらず(Youtube動画)


06/06■ 夜半 五叟父子が奥の座敷で三味線弾き出し 本読み手紙書く
 深夜2時過ぎて止むのを待ち就寝 貸間の生活勉學には適さない
 かといって今は移るところもないのが悲しい
 
 07/01■ 阿部雪子来る
 ~また来た この女性! 気になるので この先も調べてみた~
08/19■ 夕刻 阿部雪子来る
09/10■ 夕刻 阿部雪子来る この夜 中秋の名月
11/11■ 阿部雪子来る(不在中)
 12/03■ (荷風の)誕生日 午後 阿部雪子来る ~どうも怪しい!~ 
12/15■ 昼 阿部雪子來る 洋書二册を贈られる
 Charles Sarolea: Ce que j'ai vu en Russie Sovitique.
 Max Eastman: Depuis la mort de Lnine.(Paris 1925)
 夜 海神へ 晩餐の馳走になる

~ますます怪しい! こんな写真も出て来た~

 行徳橋で阿部雪子と荷風 1952(S27)年

 ~「濹東綺譚」の女性の名が雪子だったよな・・・
 阿部雪子をざっと調べてみたが 荷風のフランス語の教え子だったとか
 新たな事がわかったら明日にでも書くとして 今日はここまで
それでは明日またお会いしましょう~
[Rosey]

永井荷風#46摘録 断腸亭日乗~荷風と戦争その16 疎開の日々#2

2024年03月17日 | 日記
 市川真間 手兒奈堂

1945/S20年 荷風67歳
~昨日は8月15日の敗戦までの日誌を要約記述した
読んでいる本が摘録のため全体の1/4程度 話が繋がりにくい事も多い~

08/30 菅原を通じて知り合った村田(※)一家と共に岡山から東京へ戻る
 ※村田武雄 音楽評論家・NHKラジオ「音楽の泉」2代目パーソナリティ・
  音大教授ほか

09/01 渋谷駅で別れ 代々木の杵屋五叟宅へ行く一家は熱海へ疎開の由
 熱海和田浜の家を借りて住む五叟宅へ行き寄寓する
 以後 熱海で4か月ほど過ごす 関西の疎開先が住みよかった模様

1946/S21年 荷風68歳
年が明けて1月16日 五叟一家と共に熱海を去り 市川市の借り家に行く

~なお この年は「荷風戰後日歴 第一」から要約記述する
これは摘録では無く毎日何かしら記述があるので 焦点を絞りたい
とりあえずの視点は 散歩での風物・店・食べ物 どんな来客があったのか

01/19 市川初散歩 省線(今のJR)駅前の露店を見る 京成電車踏切近く
 汁粉1円45錢の貼札を見かけ入って食べる 本物の汁粉ではない味・・・
01/20 中央公論社の編集員小瀧穆氏※来る 新発売の紙巻ピース一箱貰う
※谷崎重一郎も担当 荷風が岡山疎開中にも会っていた
01/21 驛前露店で わかさぎ佃煮を買う 一包20円

01/22 この辺り閑靜で 世を逃れ隱れ住むには佳い場所だ
 住民の風俗も澁谷・中野あたりとは全く違う インテリ風でなくて嬉しい
01/24 熱海より轉送の郵便物 進駐軍開封檢閲の痕があった
 夕方中村光夫氏(文芸評論家他)來話 コクトーの本を借りる
01/28 小堀杏奴(こぼりあんぬ:随筆家・森鴎外と後妻の次女)から葉書

02/05 来客:扶桑書房主人 小川氏 川端康成氏 近藤医師の診察受ける
02/27 新貨幣発行 本日より銀行預金払戻し停止の布令 人心騷然となる

03/10 米国製の缶詰・煙草の所持 米國憲兵が知れば逮捕の記事あり
 手許には出版社等から貰った物が多い 空缶をどこに捨てればいいのか
03/15 生活費を心配してくれる手紙が多い
 朝日新聞記者來訪 夕刊紙上連載の長編小説が欲しいという
03/20 
扶桑書房:2千円 中央公論社顧問給料:500円を貰う
 川端氏來て辭書「言泉」を贈られる
03/26 午後 手兒奈堂に詣でる Youtube動画にリンク
03/29 駅前の闇市で買い物 
 インキ1合8円 状袋1枚10錢づつ 洗面器1個50円
 
 ~3か月分を書いてみたが 何か面白くない!
 市川暮らし 何をポイントにすればよいのか 再考する必要あり!
それでは明日またお会いしましょう
「Rosey]

永井荷風#45摘録 断腸亭日乗~荷風と戦争その15 疎開の日々

2024年03月16日 | 日記
1945/S20年 荷風67歳
荷風の空襲体験の履歴を以下に超要約記述する
03/10 空襲で偏奇館を失った荷風は 代々木の従弟の杵屋五叟宅に寄寓
04/15 東中野の菅原(※)氏アパートに寄寓
 ※菅原明朗:オペラ「葛飾情話」の作曲家 妻は永井智子(オペラ歌手)

 右から荷風、アルトの永井智子、菅原明朗、テナーの増田晃久、ソプラノの真弓明子

~05/03 新聞がヒットラー・ムッソリーニの死を報じる~
05/25 夜空襲があり菅原氏アパート含め一帯は瓦礫土塊となる
 菅原夫妻と共に代々木の五叟宅へ行くが 23日の空襲で一帯焼野原
 五叟一家は代々木駅前の知人宅に仮寓していて皆無事
 3人は駒場に住む菅原氏知己の家を訪ねて仮寓

06/02 菅原氏の生家明石市に疎開しようと渋谷駅から列車に乗る
06/03 明石市大蔵町の菅原氏の生家に着き母堂と会う
 家に罹災者で空き部屋無く 3,4丁(1丁は約110m)離れた西林寺に泊まる
 西林寺のサイトはこちら (内容が殆ど無いが・・・)
西林寺主人は年40位の未亡人で言語快活談話巧み云々と荷風は書いている

06/10 明石も近く空襲ありとの噂 3人で岡山に行く(※)と決める 
 ※菅原氏の音楽仲間のピアノ演奏会が06/11に岡山市で行われた
06/11 演奏会の後 音楽仲間の知人宅に泊まる
06/13 菅原氏の知人宅で昼食 3人で岡山ホテルに泊まる
 ホテルには3泊し その後松月という旅館に移る
06/28 深夜空襲 爆音で飛び起き土手を走り河原に伏せ九死に一生を得る
 ~この夜 菅原夫妻は明石の実家へ行っていて荷風は1人だった~
06/29 過日訪ねた菅原氏知人宅へ行くが家は焼失
 知人らは近隣の家に避難して無事 明石から戻った菅原夫妻とも会えた

~摘録には7月の記載31日のみ 下痢が止まず近くの病院で薬との記述
07/26 米英中によるポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言)発表~


08/06 菅原氏広島から戻る~原爆投下の記述なし~
08/09 (欄外墨書)ソ連赤軍満州侵入
08/14 谷崎(潤一郎)君と会う

08/15 岡山に戻り 菅原氏から正午のラジオ放送 戦争突然停止を聞く
 夕方 染物屋の老媼 鶏肉・葡萄酒を持参 皆で休戦の祝宴を行う

本当に聞きたいのは唯一つ ポツダム宣言をすぐ受諾しなかったのは?

それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

永井荷風#44摘録 断腸亭日乗~荷風と戦争その14 偏奇館焼失

2024年03月15日 | 日記
1945/S20年 荷風67歳
開戦から4年目 この年の日誌から主な出来事を超要約記述記述する

01/01 日誌が29巻になり感慨深い
・・・その後 日を追って空襲警報、砲声など日増しに激しくなる・・・

01/27 有楽町・銀座地区が爆撃される(この日誌は摘録に無し
 1945年1月27日空襲 数寄屋橋上を逃げ惑う親子(Wikipedia)

02/25 神田周辺に焼夷弾爆撃(日乗では27日付で被害地域等記述)
03/10 明け方 窓外火光で照り隣人の叫び声で眼を覚ます
 手カバンに日誌と草稿を入れ庭に出ると 火の手近くまで来ている様子
 表通りへ出て逃げ惑う人々の中を霊南坂西班牙大使館近くの空地で小憩
 26年間棲んだ偏奇館 せめてその焼け落ちる様を見ようと戻り始めるが
 既に荷風の家も燃え始めたと 近隣の人々に言われ諦めた
 
その後 荷風は 代々木の五叟(※)の家に向かう
  ※杵屋五叟:荷風の従弟・邦楽家・荷風の養子永光の父
 市中の様子を見に出かけた五叟父子の語るところ
 「北は千住から南は芝、田町までが灰になった 浅草一帯、本所、向島、
 玉ノ井など全て焼失 明治座に避難した人たちも皆死んだ」


1945年3月10日、空襲直後の日中の東京(Wikipedia)) 

1945-3-10 浅草仲見世 (Wikipedia)


1945-3-10 鎮火後の街の風景 (Wikipedia) 

 東京戦災地図(Wikipedia)

3月10日以降も空襲は続くが 今日はここまで
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]