降りしきる雨の音は
アルマゲドンの炎のような激しさ
ひどい話さ
不特定多数の死者として数えられるだけの人々
「信仰心と苦難」という讃美歌に合わせて
調子外れに吠える犬
そして流血
企業が今日戦争に負けたせい
俺は必死に夢見ることを求め
空虚な嘘とは一線を置こうとしている
これは俺たちに残された人生の始まり
希望の欠けた人生の
拍子外れなドラムの音
またもやプロテスターは踏み込みすぎて
金はみんな奴らのものだと見つけ出してしまった
俺にも祈ってくれよ
何人もの遺体をくるんだ旗
言論の抑圧 それは記念碑に被せられたビニール袋
「カリフォルニア州の下院議員の発言です」
石油会社の社長に敬礼
処罰と言って爆撃をお見舞いする奴さ
だからエッフェル塔も木端微塵
あんたの政府を批判する奴らのもんだからな
ガラスは粉々
賛同しない奴らは皆殺し
辛いめに遭わせるのはわくわくするって?
そんなの俺のやり方じゃないね
なぜって
なぜって
俺たちは無法者だからさ
俺は必死に夢見ることを求め
空虚な嘘とは一線を置こうとしている
これは俺たちに残された人生の始まり
俺は必死に夢見ることを求め
空虚な嘘とは一線を置こうとしている
これは俺たちに残された人生の始まり
希望の失われた人生の
ENGLISH
<参考>タイトルにも用いられている"holiday"の訳し方について、「希望の欠けた」としました。これは、2004年のグリーン・デイのインタビューで、"holiday"とは休暇という意味ではなくて、「希望がお休み=無い」というような意味だと読んだのを覚えていたからです。解釈によっては、プロテストすべき時に休暇中のように人々がのんきに過ごしていることを表している、だとか、国が困難な時期にある時に休暇に行ってしまった当時のジョージ・ブッシュ大統領への揶揄だと書かれているものもあり、これも説得力があると思いました。(でも訳に反映させるのは難しい…)。
先日、ブロードウェイのミュージカルになった『アメリカン・イディオット』を観に行きました。グリーン・デイの『American Idiot』(2004)の楽曲を中心に、『21st Century Breakdown』(2009)などの曲を交えながら1時間40分ほどのミュージカルに仕立て上げたものです。本場ブロードウェイでは、2010年春に公演が始まったものが3年半経って、とうとう日本でも観られるようになったのでした。私はもともとこの企画について、それほど興味がなかったし、あまり前向きにも感じていなかった、というのが正直なところです。というのも、なぜグリーン・デイのコンサートではなくて、敢えてブロードウェイという形で『American Idiot』の物語を語らなければいけないのか、その必然性が感じられなかったからです。今回も来日公演が決まってからずいぶん悩んだのだけれど、グリーン・デイのコンサートチケット+900円くらいの金額でチケットが売りに出されたのを機に行くことにしました。でも、本当に行って良かった。
ミュージカルになることの最大の強みは、やっぱり具体的なストーリーラインが与えられることだったと思います。私は自分では、『American Idiot』と同じ時代を生きながらこの作品を聴いてきて、バンドのインタビューや後の『21st Century Breakdown』などと重ね合わせながら、それなりにこういう物語だ、というイメージを持っていたけれど、それを改めて自分の頭の中とは違うところではっきりとしたキャラクター達の形をとって現われているのを見るのはとても新鮮だったし、長年に亘って聴き続けたせいで、今の私自身の考え方や経験とあまりにもべったりとくっつきすぎていた部分を少し切り離して、このアルバムや2000年代という時代やその時の自分自身を省みることができたのが、私にとってとても重要なことでした。
『American Idiot』と『21st Century Breakdown』の優れたところというのは、登場人物の限りなく個人的な感情や経験とその時代の背景、社会の背景というのがとても密に折り重なり、絡み合いながら物語が展開していく点だったと思います。「郊外のジーザス/セイント・ジミー」は、個人的にすごく深い問題を抱えているけれど、それはどこからどこまでが彼自身の問題で、どこからが他人(周りの人や社会のあり方や時代の流れ)のせいなのか判然としない。そのせいで悩みはいよいよ出口なしになり、怒りの矛先が定まらなくなり、誰を信用していいのかも分からず、深い孤独に陥っていってしまう。私はちょうどティーネイジャーの頃に『American Idiot』に出会って、そうした世間との折り合いの悪さとか不信感とそんなふうにしか生きられない自分との葛藤と、より広い世の中のあり方に対する不安や恐れをこの作品に見出して、私は「郊外のジーザスなんだ」と本気で考えていたのだと思う。今になると照れくさい部分もあるけれど、当時の自分がどれほどそれについて真剣であったかを知っているから、物語が展開をするのを追いながらそれを思い出してずいぶん泣いてしまいました。
ただ、今になると当時が照れくさい気もするように、だんだんと時が経つにつれて、その時に起きていたことなんて、結局は大したことなんてなかったんだ、というような気持ちになったりする。単なる10代の荒野にすぎなかったんだ、と。同じように、当時の社会についても、だんだんと差し迫った感覚が薄れていって、そんなものかもしれないとか、ひどい時には殆ど考えることをやめてしまったりもする。でも、今回、『American Idiot』のミュージカルを観ていて、私が何よりも強く感じたのは、当時の2004年前後の世界というのは、なんて悲しいものだったのだろう、ということでした。それは個人的にも、もっと大きな観点から言っても。物語の冒頭で、主人公のジョニーはシャワーを浴び忘れては、友達と飲んだくれてだらだらする生活について半ば笑い飛ばすように話すのだけれど、そこではたと立ち止まって自問します。「待てよ!これが俺の人生なのか?」。このシーンは本当に胸を突き刺すようなものでした。こんなの私の人生じゃないとどれだけ思って生きてきたことだろう。半分は自分のせい、半分は誰か他人のせいで。そこから"Jesus of Suburbia"に流れ込むという展開があまりにも完璧で身震いするほどでした。自暴自棄になっていくジョニーの生き方には、愚かな部分、弱い部分がずいぶんあるけれど、それも含めて自分の姿を見るようでした。「自分のせいじゃない」と「郊外のジーザス/ジョニー」は言うけれど、本当は半分は自分のせいだということもちゃんと分かっている。だから誰のことも、自分のことも本当には好きになれず、孤独で、自由がない。当時の私は今のことなんて知りようがなかったし、たとえ今の私が「何でもなかった、いずれ何でもなくなる」なんて言ったところで意味のないことでした。
そして、ジョニーと共に故郷を出て行ったタニーという人物が、新しい土地に馴染めず、テレビで徴兵の宣伝を観て入隊してしまい、戦地に送られ、負傷する、という設定が当時のアメリカをまざまざと想起させるもので、『American Idiot』の時代に生きる、ということがどういうことだったかを突きつけるものでした。それは今日取り上げた"Holiday"に歌われるように、実際に日々ニュースで、イラクで何人の民間人が、イラク人兵士が、米兵が死んだか、ということを絶え間なく聞き続けるのが日常になっているような時代でした。星条旗に包まれた棺がずらりと並ぶ写真も今でも思い出すことができる。それは実に悲しい光景でした。何かが間違っていると、あらゆることに対して思わずにはいられないのに、誰もそれを正す方法を知らなかった。自由や正義なんてどこにあるのか分からない。
でも、そんなこともみんないつの間にか遠ざかってしまっていた気がするのです。私は10代を終え、故郷を出て行った。そして、自分が変わらない限り、どこへ行っても自分の人生を変えることはできないことを学び、セイント・ジミーを殺したのです。イラクでの戦争は終わったことにされ、確かに米軍の撤退は徐々に実現されました。…終わってみれば、みんな大したことはなかった…?そんなことはないと思うのです。それは本当に悲しい時代だった。ただ、生き抜くことはできた。それは事実で、だから今こうしてここにいる。でも、その時の悲しみは私の中に今でも残っていると思うし、その悲しみに生かされている部分があると思う。そして、それはそんなにも簡単に「乗り越えた」なんて安易な言い方で忘却したり、抑圧するべきものではないし、そんなことができるはずのものでもないのだとも思うのです。悲しみは、ひとつの歴史として心の中に刻まれるし、そうされるべきなのだと思う。ミュージカルではあたかも"Homecoming"が華々しいものであるかのような印象を与えたけれど、ジョニーやタニーの帰郷は決して、前向きなものではなかったし、私のそれもそうでした。それは振りだしへ戻ることにも等しい。そうして再び生きていくなかで、次第に記憶や鮮やかな感情は薄れていくかもしれない。けれど、今はまだその時じゃない。悲しい時代が終わった訳でもない。"Good Riddance"で終わる物語の最後は清々しくて、全体を見ればとてもエキサイティングで楽しいひとときでした。自分でもこんなに沈んだ文章になるとは思わなかったけれど、でも『American Idiot』という作品はそういう楽しさや閃光のような人目を引く怒りの底にある悲しみ抜きにはやっぱり語ることのできないものだとも思います。考えてみると、この後に続いた『21st Century Breakdown』は悲しみがより全面的に出ている作品だったようにも思われてきました。
<追記>
もうじき、『アメリカン・イディオット』がブロードウェイ作品になるまでを描いたドキュメンタリ『Broadway Idiot』がアメリカで公開になるそう。ビリー・ジョー・アームストロングが涙を見せるシーンもあると話題になっているけれど、実際にミュージカルを観るとそれも納得でした。それくらい物語がよく生きていると思います。女性キャラクターはやや薄味で、必要なのかよく分からない人もいたけれど、男性3人(4人)の描かれ方はすごく良かった。壁のように積まれたテレビのセットなんかも。
アルマゲドンの炎のような激しさ
ひどい話さ
不特定多数の死者として数えられるだけの人々
「信仰心と苦難」という讃美歌に合わせて
調子外れに吠える犬
そして流血
企業が今日戦争に負けたせい
俺は必死に夢見ることを求め
空虚な嘘とは一線を置こうとしている
これは俺たちに残された人生の始まり
希望の欠けた人生の
拍子外れなドラムの音
またもやプロテスターは踏み込みすぎて
金はみんな奴らのものだと見つけ出してしまった
俺にも祈ってくれよ
何人もの遺体をくるんだ旗
言論の抑圧 それは記念碑に被せられたビニール袋
「カリフォルニア州の下院議員の発言です」
石油会社の社長に敬礼
処罰と言って爆撃をお見舞いする奴さ
だからエッフェル塔も木端微塵
あんたの政府を批判する奴らのもんだからな
ガラスは粉々
賛同しない奴らは皆殺し
辛いめに遭わせるのはわくわくするって?
そんなの俺のやり方じゃないね
なぜって
なぜって
俺たちは無法者だからさ
俺は必死に夢見ることを求め
空虚な嘘とは一線を置こうとしている
これは俺たちに残された人生の始まり
俺は必死に夢見ることを求め
空虚な嘘とは一線を置こうとしている
これは俺たちに残された人生の始まり
希望の失われた人生の
ENGLISH
<参考>タイトルにも用いられている"holiday"の訳し方について、「希望の欠けた」としました。これは、2004年のグリーン・デイのインタビューで、"holiday"とは休暇という意味ではなくて、「希望がお休み=無い」というような意味だと読んだのを覚えていたからです。解釈によっては、プロテストすべき時に休暇中のように人々がのんきに過ごしていることを表している、だとか、国が困難な時期にある時に休暇に行ってしまった当時のジョージ・ブッシュ大統領への揶揄だと書かれているものもあり、これも説得力があると思いました。(でも訳に反映させるのは難しい…)。
先日、ブロードウェイのミュージカルになった『アメリカン・イディオット』を観に行きました。グリーン・デイの『American Idiot』(2004)の楽曲を中心に、『21st Century Breakdown』(2009)などの曲を交えながら1時間40分ほどのミュージカルに仕立て上げたものです。本場ブロードウェイでは、2010年春に公演が始まったものが3年半経って、とうとう日本でも観られるようになったのでした。私はもともとこの企画について、それほど興味がなかったし、あまり前向きにも感じていなかった、というのが正直なところです。というのも、なぜグリーン・デイのコンサートではなくて、敢えてブロードウェイという形で『American Idiot』の物語を語らなければいけないのか、その必然性が感じられなかったからです。今回も来日公演が決まってからずいぶん悩んだのだけれど、グリーン・デイのコンサートチケット+900円くらいの金額でチケットが売りに出されたのを機に行くことにしました。でも、本当に行って良かった。
ミュージカルになることの最大の強みは、やっぱり具体的なストーリーラインが与えられることだったと思います。私は自分では、『American Idiot』と同じ時代を生きながらこの作品を聴いてきて、バンドのインタビューや後の『21st Century Breakdown』などと重ね合わせながら、それなりにこういう物語だ、というイメージを持っていたけれど、それを改めて自分の頭の中とは違うところではっきりとしたキャラクター達の形をとって現われているのを見るのはとても新鮮だったし、長年に亘って聴き続けたせいで、今の私自身の考え方や経験とあまりにもべったりとくっつきすぎていた部分を少し切り離して、このアルバムや2000年代という時代やその時の自分自身を省みることができたのが、私にとってとても重要なことでした。
『American Idiot』と『21st Century Breakdown』の優れたところというのは、登場人物の限りなく個人的な感情や経験とその時代の背景、社会の背景というのがとても密に折り重なり、絡み合いながら物語が展開していく点だったと思います。「郊外のジーザス/セイント・ジミー」は、個人的にすごく深い問題を抱えているけれど、それはどこからどこまでが彼自身の問題で、どこからが他人(周りの人や社会のあり方や時代の流れ)のせいなのか判然としない。そのせいで悩みはいよいよ出口なしになり、怒りの矛先が定まらなくなり、誰を信用していいのかも分からず、深い孤独に陥っていってしまう。私はちょうどティーネイジャーの頃に『American Idiot』に出会って、そうした世間との折り合いの悪さとか不信感とそんなふうにしか生きられない自分との葛藤と、より広い世の中のあり方に対する不安や恐れをこの作品に見出して、私は「郊外のジーザスなんだ」と本気で考えていたのだと思う。今になると照れくさい部分もあるけれど、当時の自分がどれほどそれについて真剣であったかを知っているから、物語が展開をするのを追いながらそれを思い出してずいぶん泣いてしまいました。
ただ、今になると当時が照れくさい気もするように、だんだんと時が経つにつれて、その時に起きていたことなんて、結局は大したことなんてなかったんだ、というような気持ちになったりする。単なる10代の荒野にすぎなかったんだ、と。同じように、当時の社会についても、だんだんと差し迫った感覚が薄れていって、そんなものかもしれないとか、ひどい時には殆ど考えることをやめてしまったりもする。でも、今回、『American Idiot』のミュージカルを観ていて、私が何よりも強く感じたのは、当時の2004年前後の世界というのは、なんて悲しいものだったのだろう、ということでした。それは個人的にも、もっと大きな観点から言っても。物語の冒頭で、主人公のジョニーはシャワーを浴び忘れては、友達と飲んだくれてだらだらする生活について半ば笑い飛ばすように話すのだけれど、そこではたと立ち止まって自問します。「待てよ!これが俺の人生なのか?」。このシーンは本当に胸を突き刺すようなものでした。こんなの私の人生じゃないとどれだけ思って生きてきたことだろう。半分は自分のせい、半分は誰か他人のせいで。そこから"Jesus of Suburbia"に流れ込むという展開があまりにも完璧で身震いするほどでした。自暴自棄になっていくジョニーの生き方には、愚かな部分、弱い部分がずいぶんあるけれど、それも含めて自分の姿を見るようでした。「自分のせいじゃない」と「郊外のジーザス/ジョニー」は言うけれど、本当は半分は自分のせいだということもちゃんと分かっている。だから誰のことも、自分のことも本当には好きになれず、孤独で、自由がない。当時の私は今のことなんて知りようがなかったし、たとえ今の私が「何でもなかった、いずれ何でもなくなる」なんて言ったところで意味のないことでした。
そして、ジョニーと共に故郷を出て行ったタニーという人物が、新しい土地に馴染めず、テレビで徴兵の宣伝を観て入隊してしまい、戦地に送られ、負傷する、という設定が当時のアメリカをまざまざと想起させるもので、『American Idiot』の時代に生きる、ということがどういうことだったかを突きつけるものでした。それは今日取り上げた"Holiday"に歌われるように、実際に日々ニュースで、イラクで何人の民間人が、イラク人兵士が、米兵が死んだか、ということを絶え間なく聞き続けるのが日常になっているような時代でした。星条旗に包まれた棺がずらりと並ぶ写真も今でも思い出すことができる。それは実に悲しい光景でした。何かが間違っていると、あらゆることに対して思わずにはいられないのに、誰もそれを正す方法を知らなかった。自由や正義なんてどこにあるのか分からない。
でも、そんなこともみんないつの間にか遠ざかってしまっていた気がするのです。私は10代を終え、故郷を出て行った。そして、自分が変わらない限り、どこへ行っても自分の人生を変えることはできないことを学び、セイント・ジミーを殺したのです。イラクでの戦争は終わったことにされ、確かに米軍の撤退は徐々に実現されました。…終わってみれば、みんな大したことはなかった…?そんなことはないと思うのです。それは本当に悲しい時代だった。ただ、生き抜くことはできた。それは事実で、だから今こうしてここにいる。でも、その時の悲しみは私の中に今でも残っていると思うし、その悲しみに生かされている部分があると思う。そして、それはそんなにも簡単に「乗り越えた」なんて安易な言い方で忘却したり、抑圧するべきものではないし、そんなことができるはずのものでもないのだとも思うのです。悲しみは、ひとつの歴史として心の中に刻まれるし、そうされるべきなのだと思う。ミュージカルではあたかも"Homecoming"が華々しいものであるかのような印象を与えたけれど、ジョニーやタニーの帰郷は決して、前向きなものではなかったし、私のそれもそうでした。それは振りだしへ戻ることにも等しい。そうして再び生きていくなかで、次第に記憶や鮮やかな感情は薄れていくかもしれない。けれど、今はまだその時じゃない。悲しい時代が終わった訳でもない。"Good Riddance"で終わる物語の最後は清々しくて、全体を見ればとてもエキサイティングで楽しいひとときでした。自分でもこんなに沈んだ文章になるとは思わなかったけれど、でも『American Idiot』という作品はそういう楽しさや閃光のような人目を引く怒りの底にある悲しみ抜きにはやっぱり語ることのできないものだとも思います。考えてみると、この後に続いた『21st Century Breakdown』は悲しみがより全面的に出ている作品だったようにも思われてきました。
<追記>
もうじき、『アメリカン・イディオット』がブロードウェイ作品になるまでを描いたドキュメンタリ『Broadway Idiot』がアメリカで公開になるそう。ビリー・ジョー・アームストロングが涙を見せるシーンもあると話題になっているけれど、実際にミュージカルを観るとそれも納得でした。それくらい物語がよく生きていると思います。女性キャラクターはやや薄味で、必要なのかよく分からない人もいたけれど、男性3人(4人)の描かれ方はすごく良かった。壁のように積まれたテレビのセットなんかも。
僕はというと、どちらかと言うと、GREENDAYから発せられる音楽的なエネルギーや、時にThe Beatlesにも通じるような素敵で親しみ易いメロディーラインに大いに魅力を感じてファンになったようなものなので、歌詞の内容については後から認識して、彼等はこんなmessageを、あんなにpowerfulに、しかもあんなに分かり易いメロディーで表現しているのだということが分かったときには、素直に感動しました!
ギター弾きの立場からいうと、アルバム、American ideotは、全曲を通して見事に考えられた、1曲も捨て曲のない、サージェントペパーズのようなアルバムだと思います!
何よりも素晴らしいのは、僕も特に好きな曲 である、Jesus of suberbia(綴りあってるかな?)のコードが、たったの4つ程で構成されている事です!あんなに壮大なパンクオペラが、たったの4コードなんて、衝撃を受けたと同時に、シンプルなコード進行だからこそビリーが歌詞に込めたmessageが伝わってくるのだろうとも思ったものです。
asburyさんのholidayと、Jesus of suberbiaの見事な対訳を見て、そんな事を思っていました。
今度、GREENDAYについて語り明かしましょう!
これからもチェックさせて下さいね!
KEN
探してくださって、コメントまでどうもありがとうございます…!うれしいです。そして、kenさんもブログを始められたのですね。これから楽しみにしています。
後から言い訳するのも良くないと思うのですが、いつにも増して何が言いたいのかよく伝わらないような文章になってしまって、なんだか読んで頂いてありがたいような申し訳ないような気持ちです。でも、思い入れが強いほど難しいというか、『American Idiot』と自分が一体化しすぎていて切り離して書くことが難しい、というところもあると思うのです。それをkenさんが汲んでくださって、とても嬉しい気持ちになりました。
私も最初はやっぱり音楽の親しみやすさからグリーン・デイに惹かれていったように思います。最初に好きになったアルバムが『Warning』だったのですが、"Minority"以外、殆ど歌詞の内容も知らなかったけれど、アルバム全体が好きでした。
そして、"Jesus of Suburbia"、4つほどのコードだなんてびっくりしました…。私は楽器が全然できなくてそういう知識は無に等しいのですが、それだけであの曲ができてしまうなんてなんだか魔法のようにも感じられるほどです。同時に、高校生の頃に『American Idiot』のCDを貸してあげた、やっぱりギター弾きの男の子がなにかそんなことを言っていたようだったのを思い出して、彼が言いたかったのはこのことだったのかな、と今更思い当たりました。そして、"Jesus of Suburbia"の記事も見に行ってくださったとのこと、ありがとうございます。またブルース×グリーン・デイのお話ができるのを楽しみにしています。
自分も最近かつての激情が薄れていくのを感じます。
どうしてなのか、と考えてみると何かを求め、現実に抗おうと強く願う為には現状への不満と将来への不安にさらされる必要がある、ということなんでしょう。このように感じている現在を進歩というのか妥協、安住というのか・・自分はどう捉えるべきか、どちらが個人の幸福には良いのか、などと考えてしまいます。
ただ勝手な解釈ですが、かつて思っていた事は大したことではなかったわけではないということ、つまりかつてから今の自分に続く全ての起こった事、思考ひっくるめて紛れも無く自分である、とそう言えるだけの対峙を経たお言葉に強さをみました。そして原点を見返すことは今の自分にも必要なことだと感じました。
あと今回気付かされたのですが、自分はasburyさんの孤独、正確には孤独に至るまでの過程に共通点を見出しているようです。そこにあるのは不信感とある種の不遜さ、と言ってしまうと失礼なのですが、少なくとも自分にはそれを見出しました。拒絶の経験があればこそ、思考がはじまり自らの主張、ひいては個性を獲得できると思うと、10代の荒野、精神危機は必要なのかなと思います。
あと余談ですがブログを始めてみました。書くことの大変さと、中身の無い自分に絶望しました(泣) 模索中です。
お久しぶりです。今まで、BBさんが私よりは少し年下なのは存じ上げていたのですが、どれくらい離れているのか知らなかったのだけれど、BBさんのブログ(楽しみにしています)を拝見してそうだったのか…と思いました。だから何だ、という訳ではないのだけれど、自分が今のBBさんの年齢の時にどんなふうに感じていただろう、ということを考えたりしました。でも、もしもBBさんの反抗や怒りのような激しい感情が仰るように「現状への不満と将来への不安にさらされる」ことで生じるものであり、今はそうでないから激情が薄れつつあるのだとしたら、それはすごいことだな…と私は思わないではいられませんでした。私はBBさんの年齢のときには、少なくとも不安は以前よりも大きくなっていたように思うし、それは今でも変わらないです。ただ、現状への不満という点で言えば、確かに20代は10代に比べて自由度が確実に増していて不満を指摘しにくくなっているということはあるかもしれません。じゃあ、私の激しい感情はなぜかつてに比べてなりをひそめてしまったのか、というとそれはまたとても難しい問いであるように感じます。
今はすごくスピード感のある時代なので、いろんなことがびゅんびゅん通り過ぎて、ともすると過去というのはすごくないがしろにされがちだと私は時々感じるのですが、そんなふうにしていると結局、前に進んでいると思っても、堂々巡りを繰り返すだけになるんじゃないかな、と思うのです。自分のことも、自分以外のことも。過去には振り返りたくないことや、忘れた方が幸せかもしれないこともあるだろうけれど、結局そういう姿勢では幸せにはなれない気がするんです。
BBさんが私の孤独(癖)に共感してくださっているというのは、私は何となく気づいていたような気がします…!拒絶、というのは与えられたものをそのまま受け取らない、ということだし、そのためにはなぜそうする必要があるのだろう?ということを自分で考えなくてはいけないので、仰るように考えるきっかけになるのでしょうね。10代の危機はきっと誰にでもあるのだろうけれど(たぶん)、それをどの程度、もがいて逃げ切ろうとするかというところで結構違いが出るのかな…と思います。じたばたして苦しむ人と、何となくやり過ごしてしまえる人というのはいるのかな、と。
コメントを見ていると、共感できることばかりです。
いまぼくは大学院の1年で今年から就職活動なんですが、よりよい豊かな人生を送りたいならば常に現実に抗うことが強いられる。今は現状への不満と将来への不安にさらされていますが、就職活動が終わればなくなるものでもないと思っています。逆に考えると不安がなくなれば、堕落してしまうんではないかとも思ってしまいます。世の中の偉人達がすごいのは意外にこのバランスのとり方がうまいんじゃないかと思います。とくに大リーグのイチローとかをみてるとつくづく思います。
アメリカンイディオットのことについてここまで考えてるブログはここ以外にはないです。
あ、ミュージカル感動しました。京都から行ったかいがありました。
乱雑な分でごめんなさい。
また、ブログ楽しみにしています!
10代の荒野について、まさにそのとおりだと感じました。
境遇はどうあれ、人によっては上手く逃げ切るというかあまり深刻に考えずにその時期を過ごすということもあると思います。
過去について何度も考え、自らを知るということはつまり自己の人間性と真っ向から対峙するということであり、上手く逃げ切るような形で荒野を通りすぎてしまうと結局はなにも見いだせないのではないかと考えています。だからといって深刻になりすぎると辛いのは確かですが・・
自分は恥ずかしながら人より遅れた人生を歩んでいるので、まだ将来への不安が差し迫ったものではなく、加えて生来の脳天気さがあるので、生き急ぐこともあるけれど長い目で見れば時間はまだあるじゃないかなどと思っているから、こうした態度で生きられるのだと思っています。しかしこれはむしろ今を大切に生きているとはいえないのではないかと考えています。
「満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い」というように今後は何度も自分を見つめなおす必要がありそうです。 もうひとつ、最近ぐさっと刺さると同時にこの先も大切にしたいと思った言葉に「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」というのがあります。現状への不満がもしある程度消えているとすればそれは努力してきているからなのかと言われれば、それは欺瞞ではないかと思いますが、少なくとも楽観主義の正しさをまた容認してもらえた気がしました。たとえ不満は抱えていても語らず、希望を見出す事こそ強さであると、そう信じたいです。
この言葉とasburyさんの言葉で不安と不満の関連性に気が付きました。
不満が意識しづらいのは、少なくとも一定の努力はしている、もしくはそう思っているからであり、不安はそうしてても消えず、いつになったら届くのか結果が出なければわからないから生じるものである、ということなんでしょう。
これから就職活動なのですね。まずは幸運をお祈りします。私も就職をして、その後の人生がどうなるか、というのはまだ生きてみないと何とも言えないのでよく分からないですが、人生はゴールに向かって走るものじゃないんだろうな、と思ったりします。ここまででいい、という線もないし、反対にここまでは行けると思っていた所より手前で打ち切りになったり、何があるか分からないので、自分に恥ずかしくないように死ぬまで生きるしかないのかな…という気持ちでいます。自分はやれるだけのことはやっている、と思えれば、案外不安というのは減りそうな気がするのです。どうなのでしょう…。イチローさんがバランスを取れているように見えるのも、自分のやるべきことをきちんと分かってやりきっているからなんじゃないかな、と思ったりしました。
『American Idiot』について、そんなふうに言ってくださって本当に嬉しいです。ありがとうございます。dnさんは京都から遥々、ミュージカルを観にいらしたのですね。沢山あったから同じ回ではないかもしれないけれど、dnさんも同じものをご覧になったとうかがって嬉しく思いました。またぜひ就活の息抜きにでも、お立ち寄りください。なかなか更新できずにいますが、お待ちしております。
こちらこそ、お返事をありがとうございます。
何が良い、というのは私には全然分からないですし、分かったとしてもそれはあくまでも私にとって良いとか、そうする必要がある、ということばかりだから、それがBBさんにも同じように言えるかどうかというとそれは分からないんです。私はたぶん、過去と今を照らし合わせながら生きていくことしかできないし、それが必要だとも思っているし、そうすることに関心もあります。たぶん、10代の荒野をうまく逃げ切る、という選択肢は私には最初から無かったんだろうな、と思うのです。その選択肢があったなら、そうしていたかもしれない。
無為に焦る必要なんて全然ないと思います。先のコメントにも書きましたが、今は何かというと、早く早く!という流れがあるけれど、そんなに急がなくちゃいけない物事なんて、この世の中にそれほどあるだろうか、と私は思っています。今、ゆとり(というとなんだかすっかり皮肉な印象を与える言葉になってしまいましたが、そういう意味ではないです)を感じていらっしゃるなら、存分に自由に伸び伸びと好きなことをしてくださるといいな、と思います。その方がよほど「今を大切に生きている」と私は思います。かといって、それをBBさんに押しつけようという訳ではないのだけれど.。o○私もdnさんへのコメントにも書きましたが、自分はやれるだけのことはやっていると思えれば、限られたことについてだけかもしれないけれど、不安、あるいは不満は減るのかな…と思っています。そしてBBさんの楽観主義がこの先もずっと続きますように。
ちょっとだけ旅行に行っててんけれど
その中の友達に量子学(?)をやってる奴がおって
そいつい聞いたら一生懸命に教えてくれた。
ほとんど理解出来へんかったけれど..............^^;
「タイムマシーンが出来たとしても未来には行けても
過去には行けへん」て。俺の考えた事の逆やった。
知ったかぶりしてごめんなさい m_ _m。
でもな今回の情報は正しいで。桐!!!!!!!!!!!!!!!!
「ClashのStraight to hell」を聞いてみ。
これはめっちゃめちゃいいで。こrはほんまやで。
ご丁寧にありがとうございます。過去には行けないんですか。でも、行けなくても過去のことは頭でだって結構考えてしまうから、行けない方がいいのかもしれません。どうなんでしょう。
クラッシュのお勧めもありがとうございます。お勧め頂いて久しぶりにこの曲を聴きましたが確かに格好良いです。ジョーの声がいいですね.。o○